表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
10/22

森本真央(6)

 手紙に書いてあった通り、田中くんは日曜日に競馬学校にやってきた。校門の前に車を止めて、田中くんと、田中くんのご両親が降りてくる。ヒビが入っている右足をかばうようにして、松葉杖をついてゆっくりとこっちに向かってくる田中くんを、私は部屋の窓から眺めていた。

 『どうして?』という疑問が、私の中から離れない。確かに足の具合は悪そうだけど、きちんと治れば馬に乗るのに差し支えはないって話だったのに。それは間違いだったの? 騎手になれないような大怪我だったの? 減量するのがつらくなったの? でも、田中くんはそこまで減量する必要はなかったはずだし、それとも……落馬して、騎手になるのが怖くなったの? そうだとしたら、今まで何のために競馬学校でがんばってきたの?

 諸々の疑問が、頭の中に積もっていく。聞きたかった。どうして夢を追うことをやめることになったのか。それは田中くんの意思なのか、それとも、どうしようもない事情があってのことなのか……。

 ふと、窓際にある私の机の上に置いてある、銀色のフレームの写真立てが目に入った。桜井さんと田中くんの間に挟まれて、私が笑っている。去年の3月、田中くんの家に遊びに行ったときの写真。写真立てをプレゼントしてくれたのは、桜井さん。

 陽の光を受けて、フレームがちかりと光る。どうしてこうなってしまったのだろう。あのとき、3人で話したのに。3人で同じ世界に入れたらいいね、と言っていたのに。

 私は、椅子から立ち上がった。とにかく、田中くんと話がしたかった。このままでは、納得できない。同じ夢を目指してきた友達なのだから、せめて、学校を去る前に理由だけでも聞いておきたかった。


「真央姉」


 隣の机で学科の復習をしていた桜花ちゃんが、部屋から出ようとする私に心配そうな目を向ける。田中くんがやめるということは桜花ちゃんも知っているから、たぶん、私が何をしに行くのかはわかっているのだろう。


「……何言われても、宏斗先輩の前で泣いちゃだめだよ。つらいのは、宏斗先輩なんだから」

「……うん」


 行ってくるね、と言い残して、部屋を出る。学校を去る前に田中くんが行く場所は、予想がついている。田中くんの担当馬だった、スノーネイションの馬房。田中くんは、挨拶を済ませた後に絶対にあそこに行くはずだから。




 松葉杖をつきながら歩いてくる田中くんは、スノーネイションの馬房の前にいるのが誰なのかを確認するように目を細めて、私だとわかると一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにその表情を引っ込めてこっちへやってきた。私の前で立ち止まり、そして――――つらそうな顔で、笑った。


「……久しぶり」

「……そうだね。髪、伸びたね」


 騎手課程の男子は全員スポーツ刈りという規則があるのだけれど、実習に行ってから2ヶ月間髪を切っていないのだろう、田中くんの髪が少し伸びている。さっきのつらそうな顔と相まって、今私の目の前にいるのが田中くんじゃないような気さえしてしまう。


「そう、しばらくほったらかしにしてあったからさ。……スノー、びっくりしたろ?」


 私の横をすり抜けて、松葉杖をついてスノーネイションの前に歩み寄った田中くんは、馬の鼻面を優しく撫でた。その後姿を見ていると……競馬学校を辞めるなんていうのが、何かの間違いだとしか思えなくなってくる。だって、田中くんはこんなにも馬に対して優しいのに。見ているだけで、馬が好きなんだってわかるのに。それなのに、どうして……!?


「森本」


 馬と向き合い、私に背を向けたままで、田中くんが私に話しかけてくる。


「どうして辞めるのか、って思ってる?」

「…………うん」


 どう答えるか少し迷ったけれど、正直にそう答えることにした。田中くんと初めて知り合ったのが中学2年生のころだから……かれこれ3年近いつきあいにもなる友達に、遠慮したってどうなるものでもない。


「じゃあ、森本に質問。競馬学校の騎手課程の受験資格、覚えてる?」


 騎手課程の受験資格。去年さんざん募集要項を読み返したから、よく覚えている。その年度に中学校卒業見込みか、中学校卒業以上の学歴があって20歳未満であることと……。


「受験時に体重44キロ以下で……視力が裸眼で両目ともに0.8以上であること……」


 そう口に出した瞬間、私の脳裏にさっきの田中くんの姿が浮かんだ。馬房の前にいるのが誰なのかを確認しようとして、目を細めた田中くん。


 ――――まさか。


 息を呑む私に向き直り、田中くんは静かにつぶやいた。その顔に浮かぶのは、あきらめの表情。学校を辞めることを受け入れてしまったような、受け入れざるを得なかったのだというあきらめを含んだような表情。


「わかった? そういうこと。視力、0.5まで落ちちゃったんだよ。だから、もう競馬学校にはいられない」

「そんな……」


 ただただ、絶句することしかできなかった。怪我をしてしまったり、減量に耐え切れなくなってしまって辞める例は時々聞くけれど、まさか、視力制限にひっかかってしまうなんて、予想もしていなかったから。


「なんかさ、最近どうもモノが見にくいと思ってたんだ。で、あの日の朝もそれのせいで落ちたわけ。調教中に馬場に鳥が降りてきたのに気づくのが遅れて、で、慌てて手綱さばいたのはいいけどバランス崩して落馬。入院したときにそう言って視力測ってみたら……騎手になれないくらい、視力が落ちてたってわけだよ」


 何も言えなかった。だって、田中くんの目から、騎手になれない原因を作った目から、大粒の涙が零れ落ちてきたのだから。唇を噛みしめて、呻くような声で、田中くんはひたすら話し続ける。


「落馬したせいで足折ったとかならわかるけどさ……、でも、医者だって言ってたんだぜ? 『足には問題ないから、治れば馬に乗れる』って。普通に乗れるのに……目が悪いってだけで騎手になれないなんて、そんなのアリかよ……! オレが、オレが何したっていうんだよ……!」


 うつむいて泣く田中くんを、私は黙って見つめていた。今度こそ、本当に何も言えなくなってしまったのだから。田中くんの苦しさはわかる。でも、目が悪い人間が騎手になることはできない。田中くんが経験したとおり、万が一馬に乗っているときに障害物や他の馬を見落としてしまったら大惨事になるし、目が悪いからといってコンタクトや眼鏡で矯正することもしてはいけない。そんなことをしたら、もし落馬なんかした場合に目にひどい怪我をすることになる。怪我を防ぐために設けられた、これは、絶対に守らなければいけないルールなのだ。……これだけは、田中くんがどれだけつらくても、変えられない。

 しばらく、私も田中くんもそのまま押し黙っていた。かけるべき言葉なんか、見つからない。つらいのは田中くん自身だし、それに……こうなってしまった以上、田中くんは騎手にはなれない。けれど私は、下手だとはいえ一応競馬学校生なのだ。何らかのアクシデントに見舞われたり、騎手試験に落ちない限りは……騎手になれる。そんな私が何を言っても、意味なんてない。何を言っても、田中くんには届かない。


「……なぁ、森本。オレ、前に『好きだ』って言ったよな? 覚えてる?」


 涙をぬぐって、田中くんはそう質問してきた。その質問に、黙って首を縦に振る。忘れるわけがない。だってあれは、初めてされた告白で、そして……返事をしないまま、ここまできてしまった告白だから。


「あれ、さ。取り消すよ」

「……え?」


 それがあまりにも話の流れから外れた発言だっただけに、私は間の抜けた返事をすることしかできなかった。だって今は、田中くんが辞めるってことについて話していたのであって、好きとか嫌いとかそういう話をしていたわけではないのだから。

 呆然としている私に、田中くんは泣き笑いのような表情を向けて話を続ける。その表情の奥にある鋭い瞳に見つめられて、一瞬胸が痛む。


「別に森本のことが嫌いになったわけじゃない。でも……こんなこと言うのもなんだけどさ、騎手になれる森本を今までどおりに恋愛対象としては見られないから。絶対にどっかでひがんだりしそうだから。だから……もう、あれは忘れて」


 そう言った次の瞬間、田中くんの目からまた涙が零れる。はなをすすり上げて、田中くんがつぶやく。


「……ごめん、こんなみっともないところ見せるつもりなんて……なかったのに……」


 見ていられなくなって、私は目を伏せた。いつも元気な田中くんの姿は、もうどこにもない。私だって夢を奪われることのつらさがわかるから、夢を手中に収めた人を嫉ましいと思う気持ちもわかるから……見ていられなかった。

 今の田中くんの姿は、2年前の私と同じだ。


「でも……最後に、いいかな……?」


 何を、と聞き返す前に、田中くんがついていた松葉杖が倒れる音がして……私は、田中くんに抱きしめられていた。騎手を目指していただけあって体の線は細いけれど、でも、強い力。びっくりはしたけれど、でも――――心の奥底の部分は全く揺らがずに、私の心に訴えかけてくる。気づかないようにしていた事実を、私に知らせる。

 私は、田中くんのことを異性として見られないのだと。そして――――私が好きなのは、私が抱きしめてほしい相手は…………田中くんではなくて、あの人だということを。


「……ごめんね……」


 だから、そう言うのが精一杯だった。涙をこらえるのに、必死だった。もっと早く返事をしていれば、田中くんをここまで苦しめることはなかったのに。友達でいたいということをはっきり伝えていれば、こんなことにはならずに済んだかもしれないのに。


 ごめんなさい。田中くん、ごめんなさい。


「森本が気にすることじゃないよ……。ありがとな、はっきり言ってくれて」


 そう言って、田中くんは私の体を離す。右足をかばうようにしながら松葉杖を拾って、そのまま硬直している私ににっこりと笑いかける。笑った拍子に、田中くんの細い目の目尻から涙がぼろぼろと落ちて頬を伝う。


「じゃあ、またどっかで会おうな」


 その言葉だけを残して、田中くんは校門のほうに向かって歩き出した。田中くんの背中が涙で歪む。その背中が見えなくなるまで、私はその場から動けなかった。

競馬学校の受験資格は2003年当時のものをそのまま使用しています。

受験希望の方がもしこの作品をご覧になっているのなら、競馬学校の公式HPの最新募集要項をきちんと確認してくださいね。

33期生の募集要項、既に出ていましたよー。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ