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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
1/22

森本真央(1)

 午前5時40分。私の朝はこの時間から始まる。半年間一度も寝過ごしたことなんてない。

 ……半年、も経つのか、競馬学校に入ってから。それもそうだ、だって、あの天皇賞からもう1年。『あの人』と出会ってから、もう2年も経つのだから。



 私の名前は、森本 真央。つい最近17歳の誕生日を迎えたばかり。身長は151センチ、体重は……


「森本、41.5キロー。次は誰だー?」


 ……ということらしい。午前5時40分からの体重測定で、競馬学校の一日は始まる。ほんの少しの体重の増加が命取りになるこの世界、普通の女子高生なんかよりも何倍も体重に対しては神経質にならざるを得ない。

 ……特殊な世界に入っちゃったな、という気は、しないでもない。でも、ここに来たのは私の意志。親を1年がかりで説得して、倍率40倍以上の試験をどうにか突破して、高校辞めて……。

『騎手になりたい!』

 ただ、それだけでここまで来た。一度は諦めかけた夢に向かって、私が最も尊敬する騎手で、大好きな人、桜井さんに一歩でも近づきたくて…………。




「森本!」


 2年前の今頃、私は中学3年生で受験生だった。地元の中学校に通う、ごく普通の女子中学生。ほかの女子中学生と違うことがあるとすれば、競馬好きなことだけ。そんな私を、学校の帰り道で呼び止めたのは、


「どうしたの、田中くん?」


 クラスメイトの田中 宏斗ひろとだった。私が競馬好きであるということを知っている数少ない人物。そんな彼が私に話しかけてくることといったら、ひとつしかない。


「昨日の秋華賞しゅうかしょう見た?」


 ……やっぱり。できれば今日はこの話題は避けたかった。だって、見てないんだもん。見たかったのに。ずっと楽しみにしてたのに。


「……ひょっとして、またおふくろさんと喧嘩した?」


 遠慮がちに、けれど痛いところを突いてくる田中くん。私は黙って首を縦に振る。そう、昨日の秋華賞を見られなかった理由は、それなのだ。お母さんと喧嘩して、それで、テレビのある部屋から追い出されてしまったのだ。


「ってことは、親父さんは昨日家にいなかった、と」

「……うん」


 いつもなら、あんな風に喧嘩にはならなかったのだ。だって、お父さんがいたら、私の味方をしてくれるのだから。よりにもよって、お父さんが出張中に秋華賞だなんてひどすぎる。


「森本のおふくろさんも頭固いよなー。いっくら自分が競馬嫌いだからって、娘が見たがるものを見せないってのはおかしいって」


 そうなのだ。お母さんは競馬が嫌い。なのに、お父さんと、お父さんの影響をモロに受けて育った私は競馬が大好き。だから、私とお母さんはよく喧嘩をする。

 黙りこむ私に、田中くんはなおも話しかけてくる。こうやって気を遣ってくれる彼は、本当にいい友達だと思う。


「そうだ森本、今日これから暇?」

「暇だけど……どうしたの?」


 突然の言葉に怪訝な顔をする私に、田中くんは笑って言う。


「じゃあ、今日はとりあえず受験生放棄な。見せたいものがあるから、ついてきてよ」




 小学校2年生のときに、私はこの町に引っ越してきた。それまでずっとアパート住まいだったけれど、お父さんがちょっとがんばって土地を買い、家を建てたのだ。おかげで自分の部屋を持つことができて、そのとき私はとても嬉しかったのだけど、それ以上に嬉しかったのは、この町に、競馬場があることだった。もちろん、中央競馬じゃなくて、地方競馬。だから規模はそれほど大きくないのだけれど、以前、この競馬場に所属していた馬がG1を獲ったことがあって、ちょっと有名なところなのだ。

 そんなわけで、私はいつか競馬場に、ひいては、その競馬場に所属している馬たちが暮らす厩舎きゅうしゃに行ってみたいと思っていた。でも、競馬場はともかく、一般人の私には厩舎に行くなんて到底無理だと思っていた。

 ……それなのに、私は今、厩舎の中にいる。田中くんに連れられてやってきた先が、ここ。そこかしこに、綺麗な栗毛の馬やら、威厳を感じさせる黒鹿毛やら…………。圧倒されてしまって、口をきくこともできない。


「どうよ森本、気に入った?」


 田中くんの言葉に、ようやく我に返った私は、まずは率直な疑問をぶつけてみる。


「田中くん。ここって、厩舎よね?」

「うん。そうだけど?」


 当たり前のことだけど、これを確認しないことには話が進まない。


「普通、こういうところって関係者以外入れないんじゃないの?」


 うん。私の認識が間違っていないのならきっとそうだ。だって、もしも出入り自由だったりしたら、心無い人によって馬が傷つけられてしまうことだってあるはずなのだ。だから、普通は関係者以外立ち入り禁止のはずであって……。


「あれ? 言ってなかったっけ? オレ、ここの関係者だよ」


 咄嗟に、どう反応していいのかわからなかった。関係者って、まさか、まさか……!?


「だって、オレの親父、ここの調教師だもん」

「ええっ!」


 思わず大声を出してしまってから、私は慌てて自分の口を塞いだ。そうだ、ここは厩舎なのだ。馬は繊細な生き物だから、こんな風に近くで大声を出すのは厳禁なのだ。驚いて暴れてしまって、怪我をすることだってありえるのだ。競走馬にとって、脚の怪我は命に関わる。今の私の行動は、絶対にしてはいけないものだった。


「森本、声でかいよ」


 誰のせいでこんなことになっているのよ、と心の中でぼやきながら、私は周囲を見回した。ちょっと見る限り、大きな混乱は起きていないみたいだ。安心した。


「宏斗、今の何だった?」


 ふいに、私の後ろで声が聞こえた。どこかで聞き覚えのあるような気がする声。一体、誰なんだろう?


「ああ、和兄かずにいお疲れさん」


 田中くんが、私の後ろの人を指差し、私に向かって悪戯っぽい笑みを浮かべる。見てみな、ということらしい。促されるままに振り向くと、私の目に映ったのは、ありえない光景だった。



 私が1番好きな騎手の桜井和久さんが、私の目の前に立っている。



 え? なんで? どうして桜井さんがここにいるの? 他人の空似? でも『和兄』ってことは、私の目の前にいるこの人の名前にも、『和』が入ってるってことだから……他人の空似で名前まで似ているなんて、考えられない。でも、こんなところに桜井さんがいるはずがないのであって……!?

 あまりの出来事に私はすっかり言葉を失ってしまって、口をぱくぱくさせながら田中くんと桜井さんを交互に眺めていると、私の前に手が差し出された。その手の先にあったのは……。


「はじめまして、栗東りっとう北野厩舎所属の落ちこぼれ騎手、桜井和久です」


 この言葉と、優しい笑顔だったのだ。次の瞬間、私が馬のことなど忘れて絶叫したのは言うまでもない。




「いやぁ、まさかあそこまでびっくりされるとは思わなかったなぁ」

「……ごめんなさい……」

「いいって、君のせいじゃないんだから。何も言わずに会わせた宏斗が悪いんだから、後で君から叱ってやりなさい」


 私は今、近所の川原に桜井さんと並んで立っている。田中くんは着替えてくると言って一度家のほうに戻っているから、私と桜井さんの二人っきり。空はよく晴れていて、風が優しく吹いている。川面に光が反射して、桜井さんは眩しそうに目を細めた。


「しっかし、ここに来るのも久しぶりだなー。最後が確か……中3のときだから、もう4年も前だ。えーっと……名前、何だっけ?」

「森本真央です」

「真央ちゃんは、」


 『真央ちゃん』という呼びかけに、心臓がどくんと跳ねる。目の前にプロの騎手である桜井さんがいるってだけでもすごいのに、そんな桜井さんと会話して、なおかつ『真央ちゃん』なんて呼ばれてしまうと……もう、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。


「宏斗と同い年なんだよね?」

「あ、あのっ」


 大事なことを聞き忘れていたことに気づいて、私は桜井さんに話しかけた。とても19歳には見えない童顔が、こっちを向く。


「あの、桜井さんと田中くんって、一体……?」


 桜井さんは一瞬ぽかんとしていたけれど、次の瞬間、くっくっくと笑い声をあげた。


「ああ、宏斗から何も聞いてないの? 俺と宏斗、従兄弟なんだよ」

「ええっ!?」


 もう、何が何だかわからなくなってきた。田中くんのお父さんが調教師で、桜井さんと田中くんは従兄弟同士で……。……今日は、驚くことが多すぎる。

 半分放心状態になっている私を見て、桜井さんはまた喉の奥で笑い声をたてる。


「ううん、面白い。宏斗に見せたかったなぁ、今の真央ちゃんの反応」

「う~……」


 何だか妙に恥ずかしくなってきてしまって、私は座り込もうとする。


「真央ちゃん、直に座るとスカート汚れない?」

「あ」


 言われてみれば確かにそうだ。仕方がないので鞄の中に入っていた適当な紙――――今日戻ってきた実力テストの答案用紙――――を敷き、その上に膝を抱え込むようにして座り込んだ。と、隣からこんな言葉が聞こえてきた。


「真央ちゃんは勉強できるんだね」


 桜井さんの言葉に驚いて顔を上げると、桜井さんは答案用紙を指差して悪戯っぽく笑った。黒い髪が、風で揺れている。


「国語、95点。たいしたもんだ」

「~~~~~っ」


 今度こそいたたまれなくなってしまって、私は真っ赤になって俯いた。どうしよう。きっと、点数がいいのをひけらかしているって思われてしまった。ばかばかばか、もっと別の紙だって探せば入ってただろうに、よりにもよってどうしてテスト用紙なんてものを出してしまったんだろう。穴があったら、じゃなくて、穴を掘ってでも入りたい気分だ。


「ああ、ごめんごめん。ちょっとからかいすぎた。ところで、真央ちゃんは馬好きなの?」

 明るい声で、桜井さんは私に話しかけてくれる。


「はい、好きですっ。実は私も――――」


 言いかけて、慌てて口を閉じた。うっかり口を滑らせてしまうところだった。桜井さんは不思議そうな顔をしてこっちを見ているけれど、こんなこと、絶対に言えない。口が裂けても言えない。だって、この思いは、もう既に心の奥底に封印してしまったのだから。


「嬉しいなぁ、こうやって、馬が好きって言ってくれる人と出会えるっていうのは。競馬のほうには興味ある?」

「あ、あります! すっごくあります! 桜井さんのデビュー戦も、テレビで見ました!!」


 思わず力説してしまう。こういう発言をしてしまうと、興味本位の追っかけのように思われてしまうかもしれないけれど、そんなことはない。だって、私は、桜井さんのデビュー戦の手綱さばきを見て、それで、桜井さんを好きになったのだから。

 3月の、冷たい雨の降る中山競馬場で行われた芝コースの未勝利戦。6番人気の馬とコンビを組んだ桜井さんは、道中は中団で押さえ、最終コーナーを曲がってからはひたすら荒れていない馬場を走らせる、という作戦を取った。その作戦は的中し、そして、桜井さんとその相棒は顔中泥だらけになりながらも1番でゴール板の前を駆け抜けた。今でもはっきり思い出せるくらいいいレースだった。鳥肌が立つくらい、いいレースだったんだ。

 そして、そのレースでの好騎乗が評価されたのか、桜井さんには徐々に騎乗依頼が来るようになった。良血の新馬や、重賞にも出走できるようないい馬を回してもらえるようになり、順風満帆のように見えたその頃…………あの事故が、起こったのだ。

 それは、8月の札幌競馬場での事故だった。2歳新馬戦で、桜井さんは一頭の牡馬ぼばに騎乗していた。血統がなかなかよく調教でもよい動きを見せていて、期待の新馬として扱われていた馬だった。圧倒的な1番人気の支持を受けていたその馬が、桜井さんと一緒にゴール板を1着で駆け抜けるのを、みんなが期待していたのだ。

 けれど、その馬は3コーナー手前で突然横転し、桜井さんは馬場に投げ出された。幸いなことに騎手は打撲程度の怪我で済んだけれど、馬はそうはいかなかった。左前足の骨折、予後不良と診断され、その馬はそのまま安楽死処分となった。ひどい骨折で回復が見込めない場合は、細胞が壊死して苦しむ前に薬で楽にしてあげるしかないのだ。

 黙りこくってしまった私を見て、桜井さんは理由を察したらしかった。


「……やっぱり、あの事故のこと知ってたんだ」

「はい……」


 黙っているわけにもいかず、私は静かにそう答えた。そして、その事故以来の桜井さんのことを思い浮かべた。

 それ以来、桜井さんは全く勝てなくなった。惜しい競馬をして、なかなか勝ち星に恵まれなかったというわけではなく、桜井さん本来の思い切りのいい競馬ができなくなってしまったのだ。他の馬との接触を極度に恐れたり、もうひとふんばりというところでムチを使えなかったり……。当然、そういう騎乗をする騎手には騎乗依頼が来るはずもなかった。


「なんかさ、情けないよな、俺」


 何も言えずに、私は桜井さんの横顔をじっと見つめていた。見ていて、胸が痛かった。


「こうやって、逃げるみたいな形で叔父さんとこに来てさ、こうやって中学生の女の子に弱音吐いてさ……」


 顔に苦笑を貼り付けて、立てた膝の間に顔を埋めて桜井さんはつぶやく。お願いだから、そんな哀しい顔をしないで……。


「情けないよな、たった1頭予後不良になったからって、そのくらいで勝てなくなるなんて……。そんなくらいなら…………」



 かすかに聞き取れるくらいの、小さな声でのつぶやき。

 一瞬、聞き間違いかと思った。どうして、どうして桜井さんがこんなことを言うの? だって、桜井さんは騎手なのに。事故以来勝ち星こそはないけれど、事故の前まではすごい騎乗をしていた、私が憧れている、すごい騎手なのに……!?



『騎手になんか、なるんじゃなかった』



 その言葉を聞いた瞬間、心の奥底に封じ込めてあった感情が溢れ出してきた。気づいたら、その感情に呑まれるままに口が動いていた。ずっとずっと誰にも言えなかった思いが、渦を巻いて流れ出す。


「桜井さんは、ずるいです……」


 視界が、涙でぐにゃぐにゃに歪む。びっくりしたような桜井さんの顔が、ちらっと見える。


「どうしても騎手になりたくて、でも、なれない人だってたくさんいるのに……」


 どうしてこんなことを言い出してしまったのだろう。もう諦めたのに。こんなの、八つ当たりでしかないのに……。そう思ってはいても、1度溢れてしまった私の思いは、もうきっと止められない。涙と一緒に、全て流れてしまうまで。


「私だって、私だって騎手になりたかった!! だから桜井さんがうらやましかった! それなのに、どうしてそんな勝手なこと言うんですか!!」

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