各務さん家(ち)の事情
翔、高校三年の秋。
土曜日の夕暮れ時。
たったったっ…と、何処か律動的な足音が聞こえる。
振りかえると、見慣れたとんでもなくハンサムな顔が目の前にあって、一瞬ほーっと見とれかける。
「こんにちは、マイコさん」
礼儀正しく挨拶されてはっと我に返る。
いかんいかん。齢六十三。旦那も子供も孫までも有る身で他人様の、それも男性に見とれるなんて…
「はい、こんにちは。何時も元気だね、翔ちゃん」
ふっと――――そう、にこっでは無く、ふっと笑うなんてのが本当に似合う男がこの世にいるなんて、この子を見るまで思わなかったわよ。
此処は、駅にほど近い、衆人環視の往来で。
ちらちらと、行き交う女たちの視線が突き刺さる。
ふふん。うらやましいか。
たとえ六十になった所で、こうゆう視線を浴びる優越感はこたえられないねえ。普段、機会が無いから、特に嬉しくなっちまうよ。
この、とんでもなく綺麗な男の子―――― もう、高校三年になったから、男の子っていうと怒るかもしれないけどね―――― は、お名前を春日井翔君というお知り合い。
実のところ、あたしの家の三軒お隣に住んでいるご近所さんで、お互いもう十年来のお付き合いというしれものだ。
それこそ小さい時からの顔なじみ。保育園から小学校、中学、高校に入ってから今までも、ず~っと仲良くさせてもらってる間柄。
その辺で指くわえてる若い子たちとは、付き合いの年季が違うんだよ、年季が。
「ところで、翔ちゃんや。今日はまた、随分早いお帰りだね」
今はまだ、三時半。
高校生が何時も帰る時間帯から比べたら、いかな事早過ぎる。
「今日は土曜日だよ、マイコさん。学校は休み」
「あらま…」
そうだった。
「でもって、俺は実は修学旅行帰り」
そう言われてみれば、持っているのは何時も、学校へ行く時とは違う大きめのボストンバック。
おやおや、このマイコさんともあろうものが、学校のイベントにチェック入れ忘れるなんて…
何たる失態。もう年かねぇ。
「そりゃ、気付かなかった。おつかれさん。何処行ったんだい?」
「九州。あっとそうだ…」
と、翔ちゃんはおもむろにバックを開けて何かを取りだした。
「忘れないうちに、これ、おみやげ」
大したもんじゃないけど。
と取り出されたのは、大きく博多の文字が書かれた四角い菓子箱。
「ああら、こんな事すんじゃないよ。おこずかいだって、そんなにたくさん持ってった訳じゃないんだろ?」
「でも、マイコさんにはいつもお世話になってるし… ほんとに大したもんじゃなくて悪いけど、取っといてよ」
いつも、ありがとう。
なんて、こんな色男に、はにかみながら頭なんて下げられた日にゃ――――
「いいんだよぉ~ もう、ほんとうに、あんたってば律儀なんだから!」
バンバンバン! もう、本当に、どうしようかと思っちまって、思わず翔ちゃんの背中を思いっきり叩いちまう。
良い子なんだよね~ 本当にこの子ってば。
どうしてこんな良い子が出来たんだか。
「ほんと、今更ながらよかったよ~、あんたがあの家に来てくれて。あの頃のあたしたちと来た日にゃあ、毎日毎日どんなにか…」
………シーン…
「…え~と、マイコさん?」
話しかけてくる翔ちゃんにも、言葉を返せないほど思わず固まっちまったよ。
まさか、まさかとは思うけど。
「翔ちゃんさぁ… 今度の旅行の事、言ってったかい…?」
みんなに。
「ああ、もちろん、当り前だよ。いっつも悪いと思うけど、こればっかりはどうしようもないからさ」
松さんだろ、山さんとこに、ケイコさんち。
「マイコさんトコ、ちょうど留守だったから。急いでて言えなかったんだ、ごめん」
いや、良いんだよ。それはいいんだけどね。
……まずい… どう考えても、これはまずいよ…
「…あのね、翔ちゃん」
「はい」
「一応、帰る前に心構えとして言っておくよ」
「はい?」
「松さんは、火曜日から、ぎっくり腰で入院中。山さんとこの奥さんは、旦那さんトコのご実家からの呼び出しで、同じく火曜の夜から出かけてる」
「……」
いや、言葉失くしちまうのも無理ないけどさ。
「……確か、カズのとこのケイコさんは…」
「単身赴任の旦那がぶっ倒れたからって一昨日の朝から出て行ってる…」
「……」
「……」
「…え~と… 大丈夫かい、翔ちゃん…」
「…つまり…三日間…蓮は野放しだったってことですか…?」
野放しって… …犬じゃないんだけどね、蓮ちゃんは…
コックリ。
頷くしかなかったあたしを見届けてお辞儀一閃、翔ちゃんは猛ダッシュで駆けだした。
行く先はわかってる。あの子の家、各務さん家だってね。
よっこらしょ。
もう、見届けるしかないねえ、これは。
老体に鞭打って(?)よっこらしょっと翔ちゃんの後を追いかける。
平屋のその屋根が見えた途端、どなり声が辺り一面に木霊した。
「だ~~~~~っ!!! なんなんだ!この惨状! 起きろ!起きろってば!蓮!」
「あれ~~~? 翔…もう朝~?」
「朝、どころか、もう夕方だ! いったい何処に転がってやがるこの酔っぱらい!」
「いや~ん。寝たの四時なんだもん… もっと寝る~~」
「寝るじゃねぇ! この本、この服、この新聞! おまけになんだこの段ボール! 足の踏み場は、いったいどーした!?」
「あ、それ~~? 翔が留守の間に、少し部屋、かたそうかな~とおもったの。でもね~でもね~なんでかな~ ……訳わかんなくなっちゃったんだよね~~」
あはは…
「あはは、じゃねぇ!!」
――――はは… やっぱりだねぇ…
玄関先の引き戸を開け放ったまま、持っていたバックを放り出して、勢い片付けに入っている翔ちゃんの姿が見える。
その周りに、なんで?と思える程散乱した、モノの山。
相変わらず、片付けってもんが出来ない子だねぇ、蓮ちゃんは―――― まあ、その他の家事だって決して褒められるようなもんじゃないんだが。
翔ちゃんが、この家に引き取られてきたのが五歳の頃。
その事を、五年前ぽっくり逝っちまった、各務のじいさんから聞いた時にゃあ、近所のものはみんな顔をそろえて真っ青になったもんだった。
なにしろ、各務のじいさんときたら、生活能力のその皆無さで近所ではあまりにも有名だったから。
たった一人の身内で同居していた蓮ちゃんは女ながら決して器用な方では無かったし、そこへ年端もいかない五歳児が仲間入りすることに、皆、戦々恐々としたもんだ。
夜泣き? 家出? 果ては餓死?―――― まあ、それは大げさだけど。
ところがどっこい。
この五歳児がひろいものだった。
頭が良くて顔が良く、おまけに器用で、働き者。
小学校の低学年の頃には、もういっぱしの主婦になるほどで。
それが、この翔ちゃんさね。
今でも、ここいらへんの女どもが、そろってころっとイカレるぐらい良い男ではあるけどね。
あ、勘違いをおしでないよ。
あたしら、本当にあの子の身近に居るもんにとったら、あの子はアイドルみたいなもんだから。
たどたどしく包丁の使い方をあたしたちに聞いてきたあの子に、手とり足とり、料理のイロハを教える様になったのは結構な昔。
なおかつ、その余りの出来の良さに、家事の全てをそれこそ一からおもしろがって教え込んだのは周りに居る、あたしも含めたおせっかい焼きのおばさん連中だったけど。
――――― 本当にあの子で良かったよ。
死んだ各務のじいさんの、先見の明にはあきれるね。
家事万能だったゆりちゃん(あ、これは各務のじいさんの連れ合いの名前だがね)に甘えて、家事は一切出来ない様なボンクラだったが、あのじいさんは、その分世の中ってもんをよ~く見ていて知っていて。それこそ、自分に何かあった時の事まで、あらかじめちゃ~んと算段しておくぐらい用意周到な人間だった。
かわいい孫の蓮ちゃんが困らない様に、引き取った翔ちゃんが、望むだけの教育を受けられる様に。
急の発作で自分がコロッと逝っちまった後でも、何が有っても生活に困らないだけのモノと伝手を しっかり二人に残しておいてくれていた。
そのじいさんが見つけた、一番すごい掘り出し物。
当の本人はそんなつもりで引き取ったんじゃないだろうけど。
もう、今更この家は、翔ちゃん無しには回らない。
この辺のモンはそんな事、み~んな先刻ご承知さ。
変に勘ぐって噂流す奴は、それ相応の覚悟ってもんをしてもらわないとね。
今更、血がつながって無いとか、本当の兄弟じゃないだとか… そんな事はもう、どうだっていいんだよ、あの二人にとってはね。
蓮ちゃんには翔ちゃんが。
そして翔ちゃんにも、確かに蓮ちゃんが必要なんだから。
――――― …この先、いったいどうなるかね…
この先。
翔ちゃんはまだ十七で、蓮ちゃんはもう二十五。
何かあってもおかしくないが、なんにもないからじれったい。
「蓮! こら、見てる暇あったら手伝え!」
にこにこと…ぼーっと翔ちゃんを見ている蓮ちゃんの姿が見えて、あたしは声を掛けるのを止めた。
あの子たちにはあの子たちの大事な大事な時間がある。
それを邪魔するなんて野暮は、おばさんにゃ出来ないね。
九月のまだまだ明るい夕暮れ時に、翔ちゃんにもらったお土産をしっかり抱えて、あたしは何故か明るい気持ちでよっこらしょっと家路に着いた。
これにて、一応このシリーズは完結。
本篇の隙間の補完するために書き始めたような感じでしたので、本篇の目途がついた時点で、納得してしまいました。
短いシリーズでしたが、楽しんで書けました。
これからは、本篇に全力投球!
そちらで、どうかよろしくお付き合いください。
少し、訂正を入れております。
ご指摘ありがとうございました。