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婚約破棄したなら幸せになれよ

作者: 水落詩草




 近所の伯爵家のお坊ちゃんが婚約破棄したと聞いたのは五日前だった。

 なんでも大層頭の良い辺境伯の令嬢を婚約者に貰っていたそうだが、顔が微妙だというだけの理由で結婚前夜にパーティーで婚約破棄を告げたらしい。


 俺は富裕層の家に生まれた商人なので、知り合いの男爵から話を聞いただけで詳しくは知らない。

 だが一つ確実に言えるのは、そのお坊ちゃんが逃した魚は大きかったということだと、目の前に座る女を見て思う。


「どうしたの? そんなにジロジロ見て」

「いや、この世には愚かな奴も居るもんだなって」

「なによそれ」


 透き通った声でコロコロと鈴を鳴らしたように笑う姿は、さながら童話に出てくるおとぎの国の妖精のようだ。神秘的な水色の髪とサファイアブルーの瞳も相まって、より一層人間離れした美しさに滑車がかかっている。


 俺はジッとそれを見てから一つため息を吐くと、丁度沸いたお湯を取りに行く。


「珈琲で良いか?」

「えぇ。とびっきり美味しいのを頂戴ね、アーク」

「残念ながら、お前の家のメイドには劣るよ」


 軽く悪態をつきながら、彼女の手に持たれた薄い書類を盗み見る。書かれている文字はこの国の言葉ではない。下手すると、周辺国の言葉ですらないかもしれない。


(婚約破棄されて少しは落ち込んでるかと思ったが、全く気にしてないんだよなぁ、こいつ。)


 彼女は今日も、(自由気儘な辺境伯とは言え)伯爵令嬢の格には劣るであろうワンピースを着て元気な挨拶とともに店にやってきた。今もカウンター席に座りながら、姿勢を崩してテーブルに頭を預けている。


 ここは俺が個人経営でやっている古民家カフェだ。親父の跡を継いで商人になるのが嫌で、祖父が昔建てた別荘を勝手に借りて店を開いた。

 森の手前という立地のせいか客足はなかなか伸びず、結局今は親父の店の会計書類を手伝いながら暮らしている。


 彼女はそんなこの店の一番目の客で、現在唯一の客でもある。最初に来たときも随分と庶民的な格好をしていたため、まさか貴族の娘とは知らずに粗暴な態度をとってしまった。その時は流石にまずいと思ったが、「辺境伯家の人たちもそんな感じだから、慣れてるわ」と言って笑って受け流すばかりか、むしろその方が良いとまで言われた。最初は気が引けたが、身分差別だの何だのと言いたい放題され、最終的には俺が根負けして今の関係に落ち着いた。

 そんなことを思い返しながら、当時はまだ煤けた灰色の髪をしていたな、とふと思う。


「そう言えばお前、なんで髪の色変えたんだ?」


 珈琲豆を挽きながら聞けば、彼女はその匂いに笑みを浮かべながら「似合うでしょ?」と返してきた。


「そういう事じゃない。十日前に来た時も、最初は新しい客かと思ったぞ」

「えぇ、ひどーい」

「酷いのはそっちだ。俺の糠喜びを返せ」

「悪かったわね。来たのが古い客で」

「それでなんでなんだよ? まさか婚約破棄のショックでって訳じゃないだろ?」


 そう言ってから自分の分だけ珈琲を淹れて飲もうとすると、彼女はジトっとした目でこちらを見ながら押し黙った。


「……本当に何も覚えてないのね」

「はぁ?」

「何でもない。それよりわたしの珈琲は?」


 ため息を吐きながら手に持っていた書類を鞄にしまい、不遜な態度で貴族らしく命令してくる彼女に眉を寄せながらも珈琲を出す。今日は南方の豆だ。

 彼女はそれを一口飲んで微妙な顔をする。


「不味いわね。腕が鈍ったんじゃないの?」

「失礼だな……と言いたいところだが、お前が来なかった間はあいにく一人も客が来なかったんでな」

「それでも一流のバリスタは毎日練習を欠かさないものよ」

「へいへい」


 小言を聞き流しながら前掛けを外して、俺も自分のカップを持ってカウンター側に来る。

 親父から貰った今月分の会計書類をチェストから取り出し、文句を言いつつ一口ずつ飲んでいる女の隣に腰掛けた。


「……」

「……」


 二人とも特に何かを話すわけでもなく、けれど居心地は悪くない時間が続く。

 同じ部屋の中に男女がいるという状況は、端から見ればそういう関係だと取られることもあるだろう。けれど、俺たちの間に限ってはそんなことはあり得なかった。

 彼女には婚約者がいたし、俺にも仕事があった。あくまで店員と客。その関係が崩れることはなかったし、二人ともこの距離感の上で長らく胡座をかいていた。


 かつては好意を寄せた時期もあったが、それはどちらかと言うと羨望や尊敬といった言葉に由来するものだった。

 貴族としての教養高い語彙や、時々垣間見える洗練された振る舞いは十分彼女の魅力の一つだと言える。


「そう言えば、どうしてわたしが婚約破棄したこと知ってるのよ? まだアークには話してないはずだけど」


 やることがなくなって暇になったのか、俺が処理し終わった書類の束を一枚ペラリとめくりながらそう聞いてきた。俺は目線をそのままにペン先を動かしながら答える。


「ロデス男爵から聞いたんだよ。親父に無理やり参加させられた商会の会合でな」

「へぇ」

「なんだよ、自分から聞いたくせに」

「だって嫌じゃない。勝手に自分のうわさが流れて、知らないところで色々言われてるのって凄く気分が悪いわ」


 それには素直に同意できる。もし俺も同じ立場だったら、ノコノコと知り合いに顔見せに行くことも出来ないだろう。そういう意味で言えば、この女はかなり図太いと思うが。


「まぁ、よかったんじゃないか。例の婚約者とずっと別れたかったんだろ?」

「それはそうね。彼、物凄くバカだったし」

「なら、せっかく婚約破棄したんだ。次はちゃんとした人とくっついて幸せになれよ」

「……だったら、アークが結婚してよ」

「はぁ?」


 なんの冗談だと彼女の顔を見れば、そこには本気の顔をした女がいた。海より深い青をした瞳は真っすぐに俺を見つめていて、頬は少し赤らんでいる。


「いや、いやいや。俺、平民だから」

「辺境伯家にはお兄様がいらっしゃるし、わたしは貴族の生活より平民の生活のほうが好きだわ」

「そういう問題じゃないっつーか……」


 というか、気持ちの整理もついてない時にそんなこと言ったら後悔するぞ。と続ければ、今までに聞いたこともないほどの大声で否定された。


「後悔なんてしない。するわけないわ! だってわたしが好きなのは、ずっとずっとアークだけだもの!!」

「……は?」


 突然のカミングアウトに思考が停止する。何が起こっているのかも分からない。


「婚約したばかりの頃、婚約者に冷たくされて凹んでた時に偶然ここを見つけて、あなたと出会ったわ。知的で話が合って、わたしの容姿を馬鹿にせずに接してくれる人なんて初めてだった」


 別にお前の容姿は醜くないだろうと訂正したい。少し目が小さいだとか、眉が曲がっているだとか嘆いているのを聞いたが、俺からしてみれば平均的な女の顔よりも整っている。貴族の基準がありえないくらいに高いだけだ。

 むしろ最近は、髪以外にもメイクを変えたのか、より一層可愛らしく美しくなっているくらいだ。

 が、そう口を挟むよりも先に彼女は捲し立てる。


「顔だって、話題だって、仕草だって全部あなた好みに寄せたのよ。この髪だってわざわざ外国から取り寄せた染料とオイルで染めてツヤツヤにしたのに、全然気づかないし!」

「……何で」

「アークが言ったんじゃない。水色の髪をした女性が好きだって!!」


 そんなこと言ったか? などとは間違っても口にはできまい。まったく身に覚えはないが、この女はそんな些細なことも覚えていて、あまつさえ本当に実行したのだ。しかも、全て俺のために。

 それを自覚した途端、急激に顔に熱が集まってくる感覚がした。


「いや、だって、でも」


 意味を持たない言葉が口から零れ出る。無意識に押さえた口元はわずかに震えているし、耳が異様に熱い気がする。多分、今の俺は物凄く滑稽な顔をしているのだろう。


「お前、そんなこと一言も言わなかったじゃねーか……」


 彼女のことを直視できなくなって、脱力するように机に突っ伏す。真っ赤になった顔を書類で隠してそう言えば、思っていたよりも情けない声が出た。それが更に顔に熱を持たせる。

 そんな俺の様子を見て、彼女はクスクスと楽しそうに笑っているのだから恨めしい。


「そういう他人からの好意に疎いところも好き」

「……」

「で、実際に面と向かって言われると照れて真っ赤になるところも好き」

「……」

「逃げたいのに、でも逃げたら負けた感じになるかなって考えちゃって結局動けないところも好き」

「……」

「やめてって言いたいのに情けない声が出そうで言えないところも好き」

「……お前、まじで、まじで!!」


 全部図星だ。見事なまでの惨敗だ。この女は、俺がそれを全て言い当てられて死ぬほど恥ずかしくなっている今の状況さえもお見通しなのだろう。


「これで分かったかしら? わたし、アークのことなら何でも知ってるわ。それを愛と呼ばずして、何と呼ぶのよ?」

「……俺は愛してない。そもそも身分差を考えろよ。結婚だってただの商人の息子よりも貴族家の跡継ぎの方が良いに決まってる」


 苦し紛れの言い訳だった。この状況をどうにかできないかと、ただ必死になって言葉をぶつける。しかし、それは意地悪な女の楽しそうな一言であっさりと崩れ去った。


「でも、アークはわたしのこと好きでしょ?」


 すぐに否定できなかったのが答えだ。ずっと気づかないふりをしていたのに、胸の奥底に仕舞っておいた感情が湧き上がってきそうになる。

 やめろ、やめてくれ、と言葉にならない感情の海でもがき苦しむが、自分の中で膨れ上がるそれはもう誰にも止められなかった。


「ほら、素直になりなさいよ」

「……何でそんなに自信満々なんだよ」

「あら、言ったでしょ。アークのことなら何でも知ってるって」


 そんなの狡すぎる。俺でも知らなかった己の感情を引っ張り出されて、その上滅茶苦茶にかき乱されてどう対処しろと言うのだ。

 どれもこれも、無責任なお前のせいだと詰ってやりたい。しかし言葉にすれば、恥ずかしいほどに掠れた声しか出ないだろうと容易に想像できてしまって、それも押しとどまる。


「ね、結婚してよ。商人になりたくないなら我が家に引っ越せるし、丁度いいじゃない」

「何がだよ。どうすんだよ。婚約破棄して今度は平民と結婚なんて、汚点にしかならないだろ」

「わたしはアークと一緒になれるんだったらなんだって良いわ」


 本気でそう思っていそうな、否、思っているのだろう。今まで見せたこともないような呆けた柔らかな笑顔でそう言われてしまえば、俺に拒否権などないも同然だった。

 今まではただ隣にいるのが心地良いだけだったのに、今では隣にいないと気がすまなくなってしまいそうで、己の欲深さが怖い。

 こうならないように無意識に気をつけていたはずなのに、必死に作った壁を壊されてしまえば、落ちるのは早かった。


「…きだ」

「え?」

「好きだって言ってんだよ!」


 もうどうにでもなれとヤケクソになりながら顔を上げ、頭を掻きむしりながら告白する。ポカンと何を言われたのか分かっていないような彼女の顔に、気味が良いような恨めしいような何とも言えない感情が湧き上がる。


「あぁもう、どうなっても知らないからな!!」

「え?」


 席を立ち上がって彼女の顔を掴み、せめてもの意趣返しにとその額に口づけを落とした。そのまま顔を見ることなくカウンターの奥に引っ込み、キッチンにつながる扉をバタンと閉めた。


「ちょっと、アーク!!」


 扉の向こう側から聞こえてくる声を無視して、俺はズルズルと壁にもたれ掛かりながらしゃがみ込む。心臓はバクバクと音を立ててうるさいし、全身から火が出ているかのように体中が熱い。


「はぁぁぁぁぁぁぁ……」


 この後のことを思うと憂鬱にしかならないが、それよりも何よりも、どうしようもなく満たされて堪らないこの心の処理の仕方が分からなかった。

 言ってしまったやってしまった。もう後には引けないというのに、後悔するどころか幸福感さえあるのだから厄介極まりない。


「魔性だ、まったく」


 扉の前でまだ何かいい続けている存在に、俺はもう一度ため息を吐いた。


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