003 宿屋と商人と 2025年3月29日
家を出たリーネが麓の町ハイブリスに向けて走っている。
獣道を拡げた程度の小道。
楢の若葉から透けた陽の光が降り注ぐ。
顔を出した草の芽と、硬い石の混じる道を勢いよく踏み込む。
足音に混じって小鳥のさえずりが聞こえる。
冷たさを残した風が頬を撫でて通り過ぎた。
町まではそう遠くない。子供でも歩いて行ける距離だ。
リーネはさすがにパンを頬張るのはやめて皮袋に仕舞った。
暫く走ると町へと続く分岐点が見えてきた。
ここからは人がギリギリすれ違えるくらいの幅に拡がる。
左に曲がると山を登ってしまうので、右に曲がって下る。
ちょうど分岐点に入る間際、人影が目に入った。
「ダルドさん、こんにちは!」
「おっと、リーネちゃんか。こんにちは。町に向かうのか?」
「ニナのとこ! 一緒に露店を見に行く約束しててね!」
「そうか。気を付けて行けよ」
「はーい!」
近所に住む猟師ダルド。
熟練を思わせる深いシワの刻まれた顔貌、常に獲物を狙うような鋭い目。その姿と寡黙さから近寄りがたく思う者も多い。
しかし姉妹の評価は『ちょっとお髭がイカつい優しいおじさん』である。
リーネはダルドに笑顔で手を振り、元気に駆け下りていった。
※※※
バレリア帝国北東部、エンハイム公爵領「ハイブリス」
山脈の麓にあるハイブリスの町。そこはかつて鉱山の町として栄えていた。近年、採掘量が激減したため廃坑となる。鉱夫とその家族の多くは移住を望まず、生活を維持するために仕事を変え、領主であるエンハイム公との折衝も精力的に行った。その結果、豊富に湧出する温泉が名物の観光地として再生され、かつての賑わいを取り戻しつつある。
厳しい鉱山作業で鍛えられた屈強な体躯と共に、自ら町を再生させたという誇りを胸に秘め、その住民たちの結束力は特筆すべきものがあった。
※※※
山道から続く路地を通り抜けると、急に視界が広がって大通りに出る。石畳で舗装され、馬車が行き交うことができる程の広さがある。大通り沿いには煙突のある石造りの建物がならぶ。全体にツタが絡まる年季の入ったものも現役で使用されていて趣深い。
年月を経て自然に調和した彩が歩む人の心を和ませる、そんな町だ。
ニナの両親が営む宿屋は、山へと続く路地のすぐ近くにある。くすんだ窓ガラスを通して人影が見え、わいわいと騒がしい声が聞こえてきた。
リーネは宿の扉をぐっと押して開けた。
「こんにちは……」
「あっ‼ リーネ遅いよぉ。午前中に行く約束だったでしょ?」
お客さんのテーブルから食器を下げていたニナは、リーネに気が付くとプリプリと怒りだした。
「ニナはいつ見てもカワイイね!」
「褒めたってごまかされないんだからね」
リーネと同じ14歳の少女。
赤茶色で三つ編みのお下げ髪が揺れる。タレ目で丸みを帯びたお顔。誰もが笑顔になるような愛嬌に溢れ、名実ともに宿屋の看板娘である。
屋内は広めの一室にテーブルが並んでいてカウンターと厨房がオープンに繋がる。壁は淡いクリーム色の塗り壁で線状の模様が丁寧に付けられている。
壁際に置かれた喫茶用のソファに腰掛けると、時間を忘れてしまう程に居心地が良い。
ニナは食器を厨房に置き、カウンターに入った。厨房の奥にはニナの両親、夫のアレクと妻のタチアナがいる。
目が合ったリーネはペコリとおじぎをし、空いていたテーブルの椅子に腰掛けた。
お会計を済ませたお客さんを見送ったニナが、こちらに来て向かい合わせに座る。
「ニナ、ゴメンね。すっかり忘れて薬草採りにいっちゃってたよ」
「ま、おかげで儲かってるし許してあげる」
ウシシっと、ニナは満面の笑みを浮かべた。姉妹の薬草を食材とした薬膳料理を提供したところ大流行し、お客さんがドッと増えたらしい。
温泉といえば食事。滋養目的で温泉地に来たのだからニーズにガッチリとハマったのだろう。
「露店を見に行くなら急いだ方がいいよ? お昼過ぎに片付けるって言ってたから」
「そうなんだ。間に合うかな」
ニナは宿の仕事があるので、今日はもう一緒には行けない。
「お、リーネちゃん。レーゼさんは元気かっ?」
騒がしい声を外まで響かせていた三人。そのうちの一人が声を掛けてきた。
「おいカイルよ、レーゼちゃんには今朝会ったばかりだろうが」
「ゴーンさん、自警団の一員として町民の健康に気を配るのは当然でしょ?」
「いやいや、静かに見守るのが男ってもんだぞ」
「レーゼさんの胃薬また買いにいこうかなぁ」
「「ニッグ! おまえ薬屋でも始める気かっ!」」
真っ昼間から……いや恐らくは朝から、良い感じに顔を赤らめている三人は再びわいわいと騒ぎ始めた。
「今日は祝福の日だからね。たくさん飲んでもらいましょ」
ニナは商売上手だ。にっこり笑って三人を眺めている。宿泊客は外出していて誰もいないし、騒いでも問題無いらしい。
満月と新月の日は『祝福日』
仕事を休んで神様に感謝の祈りを捧げる日とされる。
今日は新月で天父神ラムゼアの祝福日なのだが、お店や食堂は普通に営業しているし殆どの人はお休みを自由に満喫している。
「リーネ達がこの町に来て三年か。二人ともすっかり馴染んで人気者になったよね」
「えぇ〜? それってお姉ちゃんだけだよね」
「そんな事ないけどなぁ。リーネちゃんが、リーネちゃんはってよく聞こえてくるよ」
「ホントかなぁ。まぁ受け入れてもらえて良かったよ。他に行くあても無かったしさ」
(あれからもう三年。あっという間だったな)
しばらくの間ニナと談笑していると、入口からハンチング帽の男性が入ってきた。
「ダニーさんお帰りなさい。もうご出発ですか?」
ニナが立ち上がり、声をかける。
「ああ。露店は撤収したから部屋の荷物を引き上げさせてもらうよ」
ダニーと呼ばれた男は柔和な笑顔で答えた。一瞬、テーブルに置かれたリーネの左手に視線を向けて奥の階段を登る。
「さっきの人が旅の商人さんかな?」
「うん。露店まにあわなかったねぇ」
「ま、仕方ないね。えへへ」
「にゃあ」
「あれ? ネル、いつの間に入ってきたの」
いつの間にか入ってきていた猫がリーネの膝に飛び乗り、ニナがヨシヨシと猫の頭をなでた。
思わず顔を埋めたくなるようなモフモフの毛と、澄んだ青色の瞳が特徴的な灰色の猫。姉妹の森の家に迷い込んで居ついている。レーゼがスピネルと名付けたが、皆は省略してネルと呼ぶ。
家で寝るとき以外は町や森で気ままに過ごして猫らしい自由を満喫しているようだ。
(この子、ちょっと不思議な猫なのよね……ご飯あげても食べないし)
商人のダニーが鞄を抱えて食堂に戻ってきた。
「世話になったな嬢ちゃん。いい宿と町だった」
ニナに柔和な笑顔を見せて支払いを済ませると、そのまま外へと出て行った。
「用事も無くなっちゃったし、家に帰るね」
「そか。気を付けてね」
「はぁい」
「ネルも一緒に帰ろうね」
「にゃっ」
扉を開けると、湿っぽい空気が肌を舐めて通り抜けた。
見上げた空には黒い雲が迫ってきている。
リーネはスピネルを抱いて路地裏へ走る。
午後の日差しは徐々に遮られ、暗くなりつつあった。




