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024 朝露と涙と 2022年5月12日

 パンの焼ける甘く香ばしい匂いが早朝の食堂を満たしている。

 ここはハイブリスの宿屋。

 姉妹の修行開始から七日が経っていた。


「アレク、タチアナ、世話になったね。あの子達の様子を見てくるよ」

「そうか。バゲットを包んでおいたから持って行ってやれ」

「こっちの果物も持っていってね。ちゃんと食べてるのかしら」


 アレクとタチアナは心配そうだ。


「ダルドにコッソリ様子を見てもらってるし、あの子達は強い。大丈夫さ」


「リンダ、あたしもリーネとレーゼに会いたい! 一緒に行きたい!」

 リンダに朝食を運んできた幼いニナ。その表情は真剣だ。


「おはようニナ。今日はダメだ。でも明日、あの子達はきっとここに来るよ。アンタが良い子にして待ってたらね」


 リンダは微笑み、ニナの頭を撫でた。


「分かった。待ってる。でもあたしはいつも良い子だもん!」

「ああ。ニナはいつも良い子だ」


 ニナは嬉しそうに厨房に戻って行った。

 リンダは硬めのライ麦パンを山羊のミルクで流し込むと、立ち上がって外へと出た。


 路地に入り、山を見上げる。

 雲が風で流れていく。

 濡れた土の匂いがする。

 

 リンダは薄く艶のある純白のローブを身に纏っている。


(見定めましょう。貴女達の可能性を)


 一瞬目を閉じて何かを祈ると、森の家へと向かって歩いて行った。




 ※※※




 森の家は静寂に包まれている。

 家に帰ってきたリンダが扉を開く。


 中に姉妹の姿は無い。

 テーブルにバゲットと果物の入った籠を静かに置く。


 作業部屋の扉を開けると、椅子に座るレーゼの姿が見えた。


「おかえりなさい。導師(マスター)


 レーゼは音もなく立ち上がると深く礼をした。

 リンダはレーゼを一瞥し、棚の上に置かれた樫の木刀を手にとる。


「これを持ち、ついて来なさい」

「はい。導師(マスター)


 二人は外に出る。


「始めなさい」


 レーゼは足先で地面を確認する。

 よく踏みしめられていて硬い。

 湿ってはいるが、滑らず踏み込めそうだ。


 半身になり、木刀を左に構える。

 ゆっくり息を吐き、呼吸を整える。

 右手は鍔付近を軽く、左手は柄頭を強く握り込む。

 

 切っ先を視線の先に定める。

 弓弦を引き絞るように剣を引く。


 そして右脚を強く踏み込み、突く───

 切っ先から光の粒子が舞い散って消えていった。


 リンダは思わず拳に力が入る。

(疾く力強い左片手突き……。尾を引いて煌めく彗星のようだわ……)

 

「合格ね」


 表情を変えずにリンダが言い放つ。

 レーゼは僅かにホッとした表情を浮かべた。


「リーネはどこに?」

「こちらへ」


 二人は森の中へ入る。


「この先におります」


 レーゼは少し後ろに下がり、声を出さずに付き従う。その青い瞳はどこまでも透き通り、揺らぐ事なく進む先を見つめている。


 暫く歩くと楢の大樹のもとに辿り着いた。その下には両膝をついて座り、手を組んで祈る少女の姿が見える。


「これは……! なんてことッ! 精霊ドリュアードッ‼」

 

 透ける様な緑色の髪が、朝露を纏ってキラキラと輝いている。

 緩やかに波打つその髪は地面の草花に届きそうな程に長い。

 鮮やかな花々と青々とした葉をつけた蔦が長く伸び、少女の身を包んでいる。


 その姿は艶やかな透明度を誇り、静謐に輝く緑の金緑石(グリーンクリソベリル)を想起させた。


「リーネ、あなたっ……なの……?」

 リンダの手は震え、身体は硬直している。


「リンダ……? わたし……私は……」

「リーネ……リーネ……ッ‼」


 リンダが涙を流して緑髪の少女を抱きしめる。

 徐々に少女は元の姿、リーネへと戻っていった。




 ※※※




 三人が大樹の下に座り、向かい合っている。リンダは落ち着きを取り戻した様だ。


「リーネ。何があったか話してみなさい」

 リンダが少し疲れた顔で問う。


「えっと。どうしたら精霊の力を借りられるのか全然分かんなくて、お部屋のお片付けをしてて。気付いたらここに。えへへ」

 リーネは困ったように笑った。


「お片付けをしながら考えていたことは?」

「ええっと。四大精霊様のお話を思い出して、それぞれの精霊様に順番にお祈りして。最後にここで木の精霊様のお名前知らないな〜って思いながら、お父さんとお母さんが生きてたらお守り下さいって……」


(やはり……召喚の儀式に近い。普通はこれくらいの事で何か起こるなんて事は無いのだけど……)


 リンダはフッと短い溜息をついた。


「木の精霊はドリュアード様。ドリュアード様は依木となる人間を求めるの。波長の合う人間を見つけると宿って少しずつ同化していく。危なかったわねリーネ。あと少しで楢の木になるところだったのよ」


「えっ。それは困るかも……」


「困るどころじゃないわよ、まったく。……レーゼッ! リーネの状態に気付いていたんでしょう? なんで何もしなかったの」


「リーネは導師(マスター)の仰る通りに課題をこなしていました。何か問題でも?」

 レーゼは事も無げに言ってのける。

 

「ッ!」

 リンダは絶句してしまった。


「私も怖い感じはしなかったよ? なんかね、懐かしい感じ」

 リーネも何てこと無さそうだ。


「……雨と朝露で濡れたままじゃ風邪をひく。家に戻るぞ」


 リンダはこのまま話を続ける気力を失ってしまった。

 三人は立ち上がり、無言のままに楢の大樹を後にした。




 ※※※




 リンダの家に戻った三人。


(さぁ……これからどうするか……)

 リンダは椅子に腰掛け、テーブルに両肘をついて頭を抱える。


「えぇっと……導師(マスター)?」


「……アンタ達、身体は問題無さそうだね。今日は修行禁止。温泉にでも入ってゆっくりしてきな。その後はアレクの宿に泊めてもらって明日帰ってこい。ほら、とっとと行きな」


 リンダは頭を抱えたまま姉妹を追い出してしまった。

 二人は顔を見合わせて家を出た。

 そして見慣れた山道を下る。


「追い出されちゃった。お姉ちゃん、私達またなんかやっちゃった?」

「……うん。私達と言うより、リーネがね……大体いつも」


「そうだっけ?」

「そうだよ?」


「フフフっ!」

「あははっ!」


 姉妹は楽しげに歩いていく。


 ゆっくり温泉に浸かってサッパリした姉妹。久しぶりに訪れた宿屋の扉を開けると、どこで聞きつけたのか食堂に集まっていた大勢の人達の歓迎を受けて、もみくちゃにされたのだった。


 笑い声を響かせて賑やかに、宿屋の夜は更けていく。


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