002 森と姉妹と 2025年3月29日
―バレリア帝国北東部 ハイブリスの町付近の森―
山の中腹に一本の大木が見える。
高く昇った陽を浴びて、その存在を一層際立たせている。
風が枝を通りぬけ、芽吹いたばかりの若葉がさざめく。
山鳥が仲間を呼ぶように鳴き、飛び立つ羽音が高く響いた。
少女がひとり、小川をひとまたぎして倒木を飛び越える。
革のブーツが湿った落ち葉を散らして細かな泥を舞い上げた。
背中に掛けた荷袋が小刻みに揺れる。
荷物の重さなどまるで意に介していないようだ。
木々の間を抜ける小道の先に、丸木造りの家が見えてきた。
少女は勢いをそのままに駆け寄り、扉の取っ手をつかむ。
「ただいま! お姉ちゃん採ってきたよ‼」
「リーネおかえり。今日は少し早かったね。お昼ごはん用意するから休んでていいよ」
帰ってきた妹のリーネを、姉のレーゼが出迎えた。
「疲れた~。この時間に帰ってこられたのは初めてだな」
今朝に訪れていたのはミズゴケの水源。リーネが勝手に名付けた秘密の場所。辿り着くのは大変だが質の良い薬草が採れる。
採ってきたミズゴケは粉末にして止血剤として使う。生命力が強く、三日くらいですっかりと生え戻る。姉妹は生育を確認しながら必要な分だけを採るようにしていた。
バレリア帝国北東部に位置するロアヌタフ山脈。その麓にあるハイブリスという町の側の森の中。二人はそこで暮らし、食材となる野草や薬の販売で生計を立てている。
リーネは椅子に腰掛け、テーブルにペタリと突っ伏した。楢の木を使った姉妹の手作りだ。明るかった木の色が飴色に変わり、所々に傷が有る。
リーネは頬杖をつき、ポコッとへこんだ黒い節をくるくると撫でた。
姉のレーゼが温めたスープとパンを持ってきた。ドロドロとした赤い液体に、指先程の大きさに切った猪肉が見えている。
(う……なにこれ凄く赤い。獲物から抜いた血を煮詰めたような見た目……)
「……凄い色だね。何のスープなの?」
「珍しいでしょ。これはビルツって名前の野菜でね、ニナが分けてくれたの」
リーネは手を組んでお祈りをする。そしてニコニコ顔のレーゼに見つめられつつスプーンを手に取った。
「い、いただきます……」
食欲をそそる色ではない。
リーネは恐る恐る口に含んでみる。
微かに土の匂いが鼻を抜けていったが臭くはない。お芋のポタージュのような滑らかな舌触り。柔らかくなった肉の旨味も溶け込んでいて、ほんのりと甘く深みのある味わい。
「意外と美味しいでしょ」
「うん! 美味しい‼」
(……見た目はアレだけど)
「ふふふっ」
「えへへ……」
(お姉ちゃん、たまに変な物を作るよね……)
つい先日、レーゼは胃薬を作って売り始めた。町の住民は「二日酔いに良く効く」と言ってたくさん買っていく。主原料が粘土なのは姉妹の秘密である。
二つ年上の姉のレーゼ。
涼やかな青色の瞳に切れ長の目尻。整った目鼻立ちと引き締まった輪郭が、その意志の強さを感じさせる。首の後ろで束ねた淡い金色の髪は癖一つ無い。
リーネは自分とは違う姉の髪質を、よく羨ましがっていた。姉は母親似で、妹は父親似なのである。
「そうだ、ニナと何か約束でもしてた? リーネが納品に来ると思ってたみたいだけど」
「え? あっ‼」
ニナは得意先の宿屋の娘。
宿泊中の商人が露店で珍しい物を売っているらしい。恐らくビルツもその商人が売っていたのだろう。
「納品のついでに一緒に露店を見に行く約束をしていたんだけど、すっかり忘れてたよ‼」
「プリプリしてたから、謝りに行った方が良いかもね」
商人の露店は今日まで。
「ちょっほ行っへふるねー‼」
「気を付けて」
「はーい」
リーネはスープを飲み干し、残りのパンを頬張りながら慌てて家を出て行く。レーゼが苦笑いを浮かべているのは見なかった事にしたようだ。
※※※
レーゼは騒がしく出ていった妹を見送り、食器を片付けた。そして薬を作るための作業部屋に入る。
薬棚の上には二振りの剣が置いてある。
細身の直剣を手に取った。
装飾は控えめで実用的なシルエット。
黒皮を巻いた鞘に納められている。
鞘の留め金を外し、音を立てずに抜いた。
切れ長の目尻をいっそう細め、刀身を見つめる。
長い睫毛が影を落とす冷たい瞳は、暗い光を帯びていた。




