6.
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一方、そのころ。
「……? なんだ?」
その日、アルマンの体調に変化があった。
胸を突かれたような衝撃の後、硬い殻にひびが入る感覚。
だが、その変化はわずかなものだった。
「どうしたの、アルマン様?」
「いや……なんでもない」
アルマンが首を振ると、マリーリアは目を瞬いた。
あどけない顔をしたマリーリアは、今日も世界一愛おしい。ねだられるままに買い与えた宝石とドレスが、一段と彼女を輝かせている。
マリーリアはアルマンの理想だった。
ゆるく巻いた金髪、宝石のような青い瞳。肌はなめらかで、囀る声は小鳥のよう。笑顔は無邪気なのに、唇だけが色っぽい。清楚で愛くるしく、たまに妖艶。プロポーションも抜群だ。
彼女が目の前に現れた時、天使だと思った。
この衝撃が、番を見つけた感動なのだ。
それに比べれば、エルフィリーゼは数段見劣りする。
顔立ちは愛らしいが、色気はない。体つきにも面白みがなく、ドレスを贈ってやる気にもなれない。それはアルマン自身の体質にも関係していた。
番が分かるが、愛しいと思わない。
獣人ではめったにないが、ごく稀に生じるものだ。それについては、アルマンが悪いわけではない。
「そういえば、最近リーゼを見ないな。何かあったのか?」
「アルマン様が追い出したんじゃないですか」
くすくすとマリーリアが笑みをこぼす。
「可哀想に、泣いていましたよ。アルマン様の番という立場を失うなんて、本当にお気の毒だわ」
「仕方ないだろう。あいつは偽物だったのだ」
「ええ、そうね。本当にそう」
そこでマリーリアはアルマンに抱きついた。
「わたくしとあなたは運命の人。わたくしこそが、あなたの番だったんだもの」
「そうだな、マリー」
「あの方は偽物で、嘘つきの番だわ。もう顔も見たくない」
その通りだとアルマンは思った。
リーゼのせいで、マリーリアと自分は出会えなかったのだ。
マリーリアはまばゆいほどに美しく、アルマンの理想そのものだ。彼女こそが自分の番。これほど好みの外見ならば、どれだけ嬉しかった事だろう。
確かに彼女には、惹かれ合うという感覚がなかった。
リーゼに出会った時のような、「これが番だ」という直感はなかった。
けれど、リーゼは偽物だった。だからあれは気のせいだ。
たとえ本物だったとしても、マリーリアの方が価値がある。
アルマンは自分を被害者だと思っていた。
アルマンにとって、リーゼは目障りな存在だった。愛せない番など、面倒な事この上ない。おまけに偽物だったなんて、本人にそのつもりがなくとも許しがたい。もっとひどい言葉をかけて、徹底的に追い詰めるべきだった。
最後に泣いた時はスッキリしたが、まだ足りない。この落ち着かなさはそのせいだろう。
アルマンはリーゼを愛さなかったが、番の利点は欲しかった。だからリーゼと婚約した。
それが必要なくなった以上、彼女はもう用済みだ。
「そういえば、あの方、外国に行くかもしれないんですって。きっとここにいられなくなったせいね」
「あいつが悪いのだ。仕方あるまい」
「もう戻ってこられないかもしれないわね。ああ、お可哀想に。ふふ、ふふふっ」
「ずいぶん楽しそうだな、マリー」
「だって楽しいんだもの。これでもう、わたくしたちを邪魔する人はいないわ」
「ああ、その通りだ」
マリーリアを抱きしめると、甘く柔らかな香りがした。
そこでふとアルマンが首をかしげる。
「どうかしたの、アルマン様?」
「ああ……いや」
いつもほど夢中になれない。
なぜだろう、気分が高揚しない。それどころかむしろ――。
殻に入ったひびが、少しずつ亀裂を増している。それにつれて、知らなかった感情が湧き起こる。こんな感覚は初めてだった。
「なんでもない。気のせいだ」
アルマンは気づいていなかった。
これが「番」に対する目覚めだという事に。
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出立の準備は驚くほど順調に進められた。
「こんなに急がなくてもいいのよ? 早くてもいいのは本当だけれど」
「俺が嬉しくて、待ちきれないんです」
クリューガーはあっという間に荷物をまとめ、各種方面への挨拶も済ませた。あまりにもてきぱきと事を進めたせいで、明日にでも出発できる勢いだった。リーゼは戸惑ったが、悲しみが紛れてありがたかった。
胸の痛みは今もあったが、少しずつ小さくなっている。
何年かすれば、もっと楽になるだろう。そんな予感がした。
彼とのゲームは、今でもたまに続いていた。
「あなたの素直なところが好きです。人を疑うことを知らない」
「責任感があるところ。真面目な人は素敵ね」
「声を上げて笑う顔が好きです。初めて見た時、感激しました」
「思いやりがあるところ。ずっと嬉しいと思っていたわ」
「誰かを傷つけないところも好きです。俺にはない美点ですね」
「……それは、あなたもそうだと思うのだけれど……」
首をかしげたが、リーゼはすぐに言い直した。
「あなたの誠実なところが素敵。私を救ってくれたもの」
「エルフィリーゼ様の声が好きです。俺の名前を呼ぶ時は特に」
「あなたのやさしいところがいいわ。昔とちっとも変わっていない」
「エルフィリーゼ様の瞳が好きです。琥珀は一番好きな石だ」
「あなたの瞳だって綺麗よ?」
海を思わせる青い色。
リーゼが目を覗き込むと、クリューガーは照れたように目をそらした。
「あなたの心が素敵だわ。頼りがいがあって、懐が広くて。私よりずっとやさしいもの」
「そんなことはありませんよ。エルフィリーゼ様の方がやさしいです」
「そんなことないわ」
「ありますよ」
ふたたび見つめ合ってしまい、二人で同時に噴き出した。
「また引き分けだったわね」
「いい勝負になってきましたね」
心の距離は縮まったが、二人の関係は変わらない。
クリューガーは今でもリーゼの良き友人で、一番の理解者だ。
そこでふと、リーゼは気になる事を聞いてみた。
「そういえば、あの子はいいの? 十年前に出会った子」
「ああ……」
「番ではないのでしょうけれど、挨拶くらいはしたらどう? 当分帰ってこないのでしょう」
「いいんです。だって、一緒に行きますから」
「え?」
「いえ、こっちの話」
気にしないでくださいと言われ、リーゼはおとなしく頷いた。
「楽しみですね、人間の国」
「そうね、とっても」
「向こうに着いてもゲームをしましょう。負ける気はありませんが」
「私だって負けないわ」
彼のいいところなら山ほど言える。
誠実なところ、落ち着いているところ、笑うと少し可愛いところ。黒髪に光がこぼれるところも、綺麗な青い瞳も好きだ。
何よりも、彼は今までずっとリーゼを見守り続けてくれた。
その時また、胸の痛みが少し薄れた。
「エルフィリーゼ様?」
「いえ、なんでもないの」
それよりも、とリーゼは言った。
「言いにくいでしょう。リーゼでいいわ」
「え」
「たまには言葉遣いも改めるのでしょう? それならついでに、呼び方も変えてちょうだい」
クリューガーは珍しく、あたふたした顔をしている。
それがおかしくて、リーゼは思わず噴き出した。
笑い声は風に乗り、遠く遠く響いていく。
やがて、目元を染めたクリューガーが口を開くまで、その時間は続いていた。
彼らが国を出るまで、あともう少し。
(あと1話続きます)