5.
その日から、クリューガーが毎日訪ねてくるようになった。
「……では、それが初対面だったんですね」
「ええ、そうよ。初めて見た時、この人だと分かったの」
初めの夜は、アルマンとの出会いを語った。
彼がどれほど特別で、どれだけリーゼの心を奪ったか。それがどれだけ嬉しくて、どれほど幸せだったのか。
クリューガーも微笑んで聞いていた。だからリーゼも素直に話せた。
次の日も、その次の日も。
リーゼはアルマンの事を話し、クリューガーはそれを聞いた。どれだけ話しても話題は尽きず、時間切れになるほどだった。
アルマンの事ならいくらでも話せる。
それに、とリーゼは思った。
こうしていると、現実を見ないで済む。
今でもアルマンの番だと錯覚できる。それは幸福な逃避だった。
アルマンの事を話し続け、愛おしさを再確認しつつ、忘れられない事に胸を痛める。
そうやって、ひと月はあっけなく過ぎた。
次の月になっても、クリューガーの態度は変わらなかった。
楽しそうに相槌を打ち、思い出話に目を細め、決してリーゼの思いを否定しない。
クリューガーは黙ってリーゼの話を聞き続けた。
気持ちを吐き出すたびに、少しずつ心が軽くなる。いつの間にかそう感じるようになっていた。
傷ついた胸はまだひりひりと痛んでいたが、ほんの少しだけましな気がした。
クリューガーは相変わらずリーゼの話に耳を傾け、聞き役に徹していた。
アルマンの事ならいくらでも話せる。それは今でも変わらない。
けれど、あまりにも自分ばかりが話しているのは気が引けて、ある日とうとうリーゼは言った。
「たまにはあなたの話をしてちょうだい」
「俺ですか?」
「前に出会った子の話がいいわ。番ではないけれど、特別な女の子」
いいでしょう、とねだると、クリューガーは頷いた。
「構いませんよ。――俺がその子に会ったのは、今から十年も前のことです」
「まあ、私と同じね」
リーゼがクリューガーに出会ったのは十年前だ。
「とある夜会でその子を見かけ、衝撃を受けました。なんというか、その……ものすごく可愛くて。これが番だろうと思ったのですが、その子はまったくの無反応で。ああ、違うのかと落胆しました」
悲しかったですね、と肩を落とす。リーゼはくすくすと笑った。
「仕方ないわ。番に出会うまでは、外見の好みに左右される。当然のことよ」
「ですが、本当に可愛かったんですよ。絶対番だと思ったのに……」
「あなたがそこまで言うなんて、本当に可愛らしかったのね、その子」
「ええ、とっても」
クリューガーが大真面目な顔で頷いた。
「その子とはどうなったの?」
「残念ながら、彼女には番ができてしまいました。今から八年前のことです」
「まぁ……」
「俺の初恋は終わりました。あっけないものです」
そう言いながらも、それほど気にした様子はない。当然だろう。彼女はクリューガーの番ではないのだから。
「ですが、相手はそこまで彼女を大切にしていないようなので、何かと思うところがあります。未練ですね」
「私と同じだわ。辛いわね、お互い」
「…………」
「…………」
「……これで通じないのか」
「クリューガー?」
「いえなんでも」
クリューガーが訳の分からない事を口にしたため、リーゼは首をかしげた。
「それで俺の話はおしまいです。楽しんでいただけましたか?」
「ええ、とっても」
「では、俺からの提案です」
クリューガーがいたずらっぽい顔になった。
「ゲームをしましょう、エルフィリーゼ様」
「ゲーム?」
「アルマン様の好きなところを、ひとつだけ言ってください。俺は逆に、エルフィリーゼ様の素敵なところを口にします。互いにひとつずつ言い合って、言うことがなくなった方が負け。簡単でしょう?」
「私の? なぜ?」
「だってアルマン様のいいところだと、確実にエルフィリーゼ様に負けるじゃないですか」
不公平ですとクリューガーが言った。
それもそうかとリーゼは思った。
「でも、私のいいところなんてほとんどないわ。あなたが不利よ」
「そんなことはありませんよ」
クリューガーが自信たっぷりに頷いたので、リーゼは戸惑いつつも頷いた。
「では、私からね。綺麗な白銀の髪が好き」
「エルフィリーゼ様の淡い金髪が素敵です」
すかさずクリューガーが後に続く。
「黄金色の瞳が好き。とても綺麗だもの」
「琥珀色の瞳が素敵です。ハチミツみたいで、甘そうだ」
「微笑んだ顔が好き。遠くで見ているだけだけれど……」
「エルフィリーゼ様の微笑みが素敵です。やさしくて、魅力的だ」
「声が好き。艶やかで、よく響くわ」
「エルフィリーゼ様の声は妖精のようで、とても素敵です」
「最初に出会った時、まっすぐ私を見てくれた。その表情に惹かれたの」
「最初に出会ったあなたはとても可愛かった。その笑顔が素敵でした」
「……もう、ずるいわ、クリューガー」
リーゼは早々に白旗を揚げた。
「私と同じことを言うんだもの。勝てるはずないじゃない」
「そういうわけではありませんが。では、逆にしてみます?」
「逆?」
「俺がアルマン様のいいところを探すので、リーゼ様は俺のいいところを言ってください。なかったらそれで構いませんよ」
「あなたが……アルマン様の?」
「公平でしょう。どうですか?」
戸惑ったが、彼が思うアルマンのいいところは気になった。リーゼは素直に頷いた。
「いいわ」
「では、今度は俺から。アルマン様のいいところは、意志が強い」
「あなたも意志が強いわ。見習いたいくらいよ」
「鍛えた体もいいですね。健康的だ」
「あなただってそうでしょう? 訓練を怠っていないもの」
「背が高くて」
「あなたの方が高いじゃない」
「剣の腕もなかなか」
「あなたに勝ったことはないと言っていたわ」
「頭もいいですね」
「あなたもとても優秀よ、クリューガー」
「エルフィリーゼ様、俺と同じことをしていますよ」
「あ」
思わずリーゼは口を押さえた。
「ごめんなさい、つい」
「いいえ。ですが、俺の行動を理解していただけましたか?」
「そうね、確かに」
これはつい後に続いてしまう。前と違うものを、と限定すれば防げるだろうが、クリューガーはそうしなかった。
「では、今度はこうしましょう。俺がエルフィリーゼ様の好きなところを口にする。エルフィリーゼ様は引き続き、俺のいいところを挙げてください。俺と同じでも構いません」
「それだと、あなたは勝てないわよ?」
「いいですよ」
問題ないと押し切られ、リーゼは三度目のゲームに挑戦した。
「では、今度も俺から。エルフィリーゼ様は――意志が強い」
「あなたも……え?」
「それから、芯が強い。おとなしく見えるのに、簡単には折れない」
「……あなたもそうだわ」
「どれだけ辛い目に遭っても、あなたはあきらめようとしない。それは驚嘆すべきことです」
「クリューガー……何を言ってるの?」
リーゼがあきらめないのは、アルマンが番だからだ。獣人ならば当然の事。それ以上でも以下でもない。
「アルマン様の前では決して泣かない。そういうところも好ましい」
「一度泣いたわ。あなたも知っているでしょう」
「あなたの強さは尊敬に値します」
「強くなんかないわ」
「一途なのは妬けますが、婚約者だから我慢しましょう。他の男に目移りしない」
「それは……獣人なら当然のことよ?」
婚約者以前に、番以外と恋はしない。
「誰かを悪く言わないところが好きです。あの性悪な女のことでさえ、あなたはなじったりしなかった」
「……そんなことをしても、仕方ないもの」
あなたもそうでしょう、とリーゼが返す。
「あなただって、アルマン様を悪くは言わなかった。ただの一度もよ」
そろそろ二か月目の半分を迎え、約束の日まであと半分。
その間、彼は一度だってアルマンを糾弾したりしなかった。
それがどんなに嬉しかったか、彼は分かっているだろうか。
ひどい人だと思う。ひどい事をされたと思う。それでも、他の誰かにアルマンを責めてほしくなかった。
そんな身勝手なリーゼの願いを、クリューガーは正確に読み取ってくれたのだ。
「思ったより頑固なところも好きです。眉間にこう、しわを寄せて」
「そんな顔しないわ!」
「笑った顔が好きです。とても可愛い」
「それは……あなたもそうね……?」
「怒った顔も好きです。今のはものすごく可愛かった」
「それはあなたのせいでしょう!」
「泣いた顔も可憐ですが、少し悲しい。できれば見たくはありません」
「あなたの泣く顔も見たくはないわ」
「エルフィリーゼ様、ゲームになっていませんよ」
そこでクリューガーがおかしそうに笑った。
「まだまだたくさん好きなところはあるので、俺が負ける気はしませんね。だから、次は制限をかけましょう。前の人と同じ内容はなしで。いいですか?」
「いいわよ」
リーゼは意気込んで頷いた。
――その日から、彼とのゲームは毎晩続いた。
彼はリーゼの好きなところをいくつも挙げた。それは本当に驚嘆すべきほどの数で、リーゼが勝てた事は一度もなかった。
逆にリーゼが挙げるクリューガーのいいところは、最初はひどくおぼつかなかった。
前の人と同じ内容は禁止のため、同じ事を二度言ったり、思いつかなくて降参したり。それでも少しずつ、挙げられる数が増えていった。
このころには、アルマンの話題が出ない日もあった。
決して忘れたわけではないが、口にしなくても我慢できた。
胸は痛んだままだけれど、微笑む事さえできていた。
クリューガーはやはり何も言わず、その姿を見守っているようだった。
やがて、最後の日が訪れた。
「気持ちは変わりましたか、エルフィリーゼ様」
クリューガーはいつもと同じ表情をしていた。
「最初の日、あなたは病んでもいいと言った。その方が幸せだからと。今でもそうお思いですか?」
「……いいえ」
リーゼは静かに首を振った。
「今はそう思わない。変わったわ、私」
「それはよかった」
「病んでいたのね、私。それがよく分かったわ」
それに、とリーゼは内心で付け加えた。
彼は病むと言ったが、本当はそうではない。
リーゼはこの世界から消えたかった。
あの日からずっと、そう思ってきたのだ。
けれど、今はもう思わない。
「賭けは私の負けね、クリューガー」
「では、一緒に来てくれますか」
「……ええ、いいわ」
今でも胸はじくじくと痛む。
この痛みは生涯消えないかもしれない。けれど、それは血を流し続ける痛みではなく、癒えない古傷の痛みにも似ていた。
「人間の国には行ったことがないの。どういう国か教えてくれる?」
「ええ、いいですよ。向こうに着いたら、色々なところへ連れて行きます。湖もあるし、森もある。大きな町も、海だってありますよ」
「楽しみだわ。お願いね」
このままこの国にいても、アルマンの機嫌を損ねるだけだ。
アルマンはリーゼを愛さない。彼は番を解消した。
それを認める事はひどく辛かったけれど、以前よりは耐えられる。そんな気がした。
「……私がいなくなったら、アルマン様は喜ぶかしら」
「どうでしょうね。俺にはなんとも」
「せめて喜んでいただけたらいいのだけれど……」
そうしたら、少しだけ慰められる。
最後にアルマンにしてあげられる事があるのは幸運だった。それがリーゼとの離別なら、これ以上ない贈り物だろう。
「――俺の調べた限りでは」
クリューガーが唐突に口を開いた。
「番を感じない獣人はいても、番を愛さない獣人はいません」
「クリューガー?」
「最初は番を愛さなくても、いつか必ず好意を抱く。程度の差はあれ、どの獣人もそうでした」
彼はよどみなく後を続ける。
「俺が思うに、硬い殻のようなものではないでしょうか」
「殻……?」
「獣人は皆、心に殻を持っている。番と出会うことでその殻が割れ、番のことを愛しく思う。獣人の中に眠る本能が、番を見つけて目覚めるためです」
だがごく稀に、その殻が割れない事がある。
「目覚めない種か、頑固なヒナのようなものですね。でも、種やヒナと違って、獣人のそれはいつか目覚める。俺はそう思います」
硬い殻が割れるように、瑞々しい若葉が芽吹くように。
そしてその時、彼らは初めて知る感情に呑み込まれるだろう。
これは俺の想像ですがと前置きしたうえで、クリューガーは言った。
「エルフィリーゼ様の想いに見合うだけの心が、あの方に育っていなかっただけかもしれません。あなたが悪いわけじゃない」
いつかそれは成長して、花を咲かせるかもしれない。
今のリーゼがそうであるように。
「そうなったら……戻ればいいですよ」
「ええ、そうね。ありがとう」
そんな日が来る事はないとリーゼは思った。
これがリーゼを慰めるための作り話だと知っていた。
けれど、クリューガーのやさしさが嬉しかった。
クリューガーはいつも通り微笑んでいる。その目に浮かぶ複雑な色は、今のリーゼには読み取れない。
この人のたたずまいが好ましいと思う。
この人の話す言葉が素敵だと思う。
この人に呼ばれる自分の名前が、リーゼは好きだ。
その時ふと、リーゼは自分の胸を押さえた。
「……あら?」
「どうかしましたか、エルフィリーゼ様?」
「いいえ、なんでもないの。気のせいみたい」
ずっと痛んでいたはずの胸が、ふと楽になったのだ。
自分でも気づかないほどの、ささやかな変化。
それは小さな一歩であり――やがては大きな変革を呼ぶ。
「お父様とお母様にも話をしないとね。あなたも一緒に来てくれる?」
「もちろんです」
というか、打診はしてありますと白状する。
「あくまでもエルフィリーゼ様のお気持ち次第ということで、先に了解は取りました。なので、実はひやひやしていました」
「まぁ、クリューガーったら」
目を丸くした後で、くすっと笑う。そこでリーゼは思い出した。
「そういえば、言葉遣いも直さないといけないわね。私はアルマン様の番ではないんだもの」
「構いませんよ。もう慣れましたし、親しく話していただけるのは嬉しいですし」
「でも、あなたの方が身分が上なのよ?」
「だったら、こういうのはどうですか」
そこでクリューガーは笑みを深めた。
「たまには俺が歩み寄って、砕けた口調になります。その時はエルフィリーゼ様も付き合ってください。そうすれば、おあいこでしょう?」
「そう……なのかしら?」
「ええ、そうです。――少なくとも、そうしてくれると俺は嬉しい」
それならいいかもしれないとリーゼは思った。
この人の望む事を、ひとつくらいは叶えてあげたい。
外国に行くのはリーゼへの思いやりだ。だから、これくらいは。
「じゃあ、そうするわ」
「よろしく、エルフィリーゼ様」
「こちらこそ」
二人は微笑み合って挨拶を交わした。