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2.


    ***



(あれから八年も経ったのね……)


 衝撃の出会いを経てからというもの、リーゼの心を占めるのはアルマンひとりだった。

 彼は虎の獣人だが、虎には珍しい色合いをしており、遠くからでもよく目立った。

 精悍な顔つきと鍛え上げられた肉体、そして第三王子という血筋に、まだ番のいない令嬢達は夢中になった。


 リーゼは彼の番であり、唯一の存在だ。

 本来ならば、番のいる獣人に手を出す事などありえない。何よりも、獣人本人がそれを望まない。それが当然の反応だ。


 番以外に触れられるのも、触れるのも嫌がる。もちろん逆も同様だ。

 リーゼももちろんそのひとりだったが、アルマンの態度は変わらなかった。

 以前と変わらずに令嬢を侍らせ、べたべたと触れ合いを続けている。


 彼は番への愛を感じない特異体質だった。


 番だと分かるが、番に愛おしさを感じない。

 少ないが、そういった獣人はいた。逆もまたしかりで、番だと分からないのに愛おしい、大切だと感じる獣人もいた。


 ――でも、そちらの方がどれだけよかっただろう。


 番だと分からなくても、愛された方が嬉しい。

 大切にされて、特別扱いされて、ずっと一緒にいられる。番を感じ取れないだけで、それは番といっていい。実際、獣人以外の種族はそうやって相手を選ぶのだから。

 けれど、アルマンは逆なのだ。


 リーゼに愛情を感じないから、愛さない。

 リーゼに特別を感じないから、特別扱いしない。

 リーゼを大切にしたいと思わないから、冷たくしても構わない。


 番を得た獣人は幸運に恵まれると言われている。

 眠っていた能力が目覚め、万能感に包まれて、寿命さえも延びるほど。そばにいるだけで、番は幸運を呼び寄せるのだ。アルマンもリーゼに婚約を申し込み、リーゼはもちろん承諾した。


 ――それなのに。


「俺からもアルマン様に言っておきます。いくらなんでもあれは……ひど過ぎる」

「いいえ、やめてちょうだい」

 言いにくそうに口ごもったクリューガーに、リーゼは急いで首を振った。


「アルマン様に悪気はないわ。番を愛せない以上、私はただの婚約者よ。アルマン様が愛しく思う存在ではないの」

「ですが、エルフィリーゼ様」

「そうであれば、私のような平凡な女、あの方にふさわしくはないでしょう? アルマン様が嫌がるのも当然よ」

「ですが、それでは……」

「お願いよ、クリューガー」


 彼がアルマンに忠告すれば、今以上にアルマンはリーゼを煙たがるだろう。それは骨身に染みて分かっていた。



 告げ口をする卑怯な女、影でめそめそするいやらしい女、他人を味方につけようとする浅ましい女――。



 そのたびに軽蔑したように罵られ、リーゼの心は折れてしまった。

 それでも、彼と離れる事を考えただけでぞっとする。

 リーゼは彼の事が好きだった。

 何をされても、何を言われても、どうしようもなく好きなのだ。


 アルマンが番を感じない以上、彼の気持ちひとつでリーゼは捨てられる。彼にとって、番は特別ではないからだ。

 この身を焦がすほどの愛しさも、失ったら絶望するほどの悲しみも、彼が感じる事はない。


「嫌われたくないの。捨てられたくない。どうかお願いよ、クリューガー」

「エルフィリーゼ様……」

「……捨てられたら、死んでしまう……」


 リーゼは両手で顔を覆った。

 わっと泣き出してしまいたかったが、リーゼは幼い少女ではなかった。ぎゅっと目を閉じ、きつく唇を噛みしめる。そうしながら、泣き叫びたくなる衝動を必死でこらえた。


 もっと子供ならよかった。そうすれば、人目をはばからず泣けたのに。

 もっと大人ならよかった。そうすれば、無理にでも笑えたのに。

 そのどちらでもないリーゼは、泣きわめく事も、微笑む事もできないまま、懸命に涙をこらえるだけだ。


「……分かりました」

 ふっとクリューガーが息を吐いた。


「エルフィリーゼ様のお気持ちを尊重します。色々と思うところはありますが、今回は言いません」

「……ありがとう」

「今回は、です。女遊びや生活の乱れに関しては、今後も遠慮なく口に出します。容赦はしませんので、あしからず」

「まぁ……」


 リーゼは思わず笑ってしまった。


「ええ、それはもちろんよ。ありがとう、クリューガー」

「エルフィリーゼ様……」

「私は平気よ。心配しないで」


 彼は黒豹の獣人だ。人間との混血であり、番を感じる能力が薄い。その場合、相手が人間である事も多く、番が見つからない獣人もいた。

 クリューガーも未だに番がいない。

 見目が良く、家柄も確かな彼の人気は高かったが、クリューガーに浮いた話はひとつもなかった。

 以前、彼に聞いてみた事がある。



 ――番を見つけたいとは思わないの?



 獣人なら誰もが夢見る事だ。

 彼は少し首をかしげ、そうですねと頷いた。



 ――会ったような、会っていないような。よく分からないので、保留にしています。

 ――えっ? 番に会ったことがあるの?

 ――それが、そうでもないような……。



 煮え切らない返答をする彼に、リーゼは目を瞬いた。

 会ったようなも何も、獣人ならすぐに分かるはずだ。

 自分では分からなくとも、相手の方が気づくはず。リーゼとアルマンも、一目見ただけでそれと分かった。


 アルマンは番を愛さないが、クリューガーは気づかない側なのか。

 だとしても、相手もそうであるはずがない。



 ――お相手の方に声はかけたの?

 ――かけました。

 ――どうなったの?

 ――さぁ……。声はかけましたが、それだけです。



 それは番とは言えないだろう。

 相手は何も反応せず、そのまま和やかに別れたらしい。

 もしも番なら、互いに目が離せなくなる。リーゼがアルマンを愛したように。


 けれど、クリューガーはそれでいいらしい。

 それが何であろうと、彼にとっては特別な出会いだったのだ。

 その話を口にすると、クリューガーもなつかしそうな顔になった。


「あれは貴重な経験でした。俺は今でも、あの子が番だと思っています」

「そうだといいけれど……。難しいのではないかしら」

「気持ちの問題です。俺は番を感じる能力が薄いらしいので、気分だけでも味わいたくて。この年になっても番が見つけられないのは、相手がいないせいではないかと」

「そんなこと……」

「そもそも、獣人全員に番が見つかるわけではありませんしね。特に俺は混血なので、範囲が広すぎます。今から探すつもりはないですよ」


 番を愛さない獣人に比べ、番を感じにくい獣人は一定数いる。

 相手からも言われていないという事は、クリューガーを「番」だと認めた獣人の女性もいないのだ。クリューガーは自分の体質を口にしないから、番を偽る強者もいない。


 そもそも、本当にクリューガーが番を感じにくいのか、実際のところは分からない。まだ出会っていないだけという可能性は十分にある。


「いつか見つかるといいわね、あなたの番」

「うーん、その子だと思っているので、他の人はいいかと。もちろん、見つかった場合はきちんと対応するつもりですが」

「そうしてあげて。……お願いよ」


 言葉に実感がこもってしまった。まずいと思い、急いでリーゼが話題を変える。


「それよりも、外国へ行く話があるというのは本当かしら?」

「ええ、誘いは受けています。もっとも、あまり乗り気ではないのですが……」

「あら、どうして? いいお話なのでしょう?」

「話自体は、まあ、そうですね。ですが、俺はこの国を離れるつもりはありませんから」


 クリューガーがきっぱりと口にする。常にない態度に、リーゼは目を丸くした。


「それは、どうして?」

「それは、まあ、そうですね……。離れたくない事情があると言いますか、なんと言いますか……」


 もごもごと口ごもり、ちらりとリーゼの顔を見る。その表情は微妙に複雑だ。どうやら言いたくないようだと悟り、リーゼは気づかなかったふりをした。


「でも、この国にいてくれるなら嬉しいわ。あなたがいてくれたら、とっても心強いもの」

「エルフィリーゼ様……」

「本当は、あなたの方が身分が高いのにね。私がアルマン様の番だから、砕けた口調でごめんなさい。少しは慣れたつもりだけれど、今でもたまに舌を噛みそう」

「そうしたら、傷によく効く薬草を差し上げますよ」


 そう言うとクリューガーはいたずらっぽく笑った。


「俺はアルマン様の護衛ですし、今は付き人も兼ねています。いずれエルフィリーゼ様はアルマン様と結婚するのですから、何も問題ありません」

「でも、父の身分は男爵なのよ。さすがに不敬だわ」

「そう言われましても、俺の立場ではなんとも。人間の国ではともかく、これが獣人の国の慣例ですからね」


 あきらめてくださいと、笑って口にする。他愛無い軽口に、傷ついていた心が慰められたのを感じた。


「……ありがとう、クリューガー」

「どういたしまして」


 彼の微笑みはやさしくて、誠実だ。

 けれど、リーゼの心を占めるのはアルマンだった。


 クリューガーは素敵な人だ。

 こんな人を好きになれたらいいのにと思う。

 こんな人を好きになれたら幸せだと思う。

 思った瞬間、「嫌だ」と強く感じた。それは衝動的な反応だった。


 ――嫌だ。嫌だ、嫌だ。そんなのは嫌だ。


 リーゼはアルマンのそばにいたい。

 冷たくされても、罵られても、それでも離れたくはない。

 一目でいいから会いたいし、声が聞きたい。顔が見たい。


 アルマンは自分を愛さない。この先もきっとそうだろう。

 番である事を拒絶されないだけで幸せなのだ。アルマンにとって、自分は愛せない番だから。

 それでも、たまに叫び出しそうになってしまう。



 ――お願いだから、私を愛して。



 他の人を見ないで。やさしくしないで。

 一度でいいから笑ってほしい。

 そばにいて。言葉を交わして。

 冷たい目で私を見ないで。

(嫌わないで)

 どうか、お願い。



 ――私の存在を否定しないで。



(……なんてね)


 馬鹿な事を思ってしまったと、苦笑して首を振る。

 こんな事を思ったのが知られたら、本格的にクリューガーに心配されそうだ。

 リーゼの様子を見ていたクリューガーが、ポツリと言った。


「番とは……呪いのようですね」

「呪い?」

「自分の意志ではどうにもならず、運命に決められる。それが幸せならいいけれど、不幸になっても逃げられない。まるで呪いだ」


 そうかもしれない、とリーゼも思う。

 けれど、その呪いはとてつもなく甘美なものだ。

 もしもこの感情から解放されたら、リーゼは楽になるだろう。アルマンから解き放たれて、自由に生きる事ができたなら。


 アルマンへの恋心を失い、熱を失い、安らかな気持ちを手に入れる。

 だがそれが幸せなのかと聞かれたら――答えは否だ。


「私はアルマン様の番でいたいの。番である限り、アルマン様は私を必要としてくれる。それだけで十分よ」

「エルフィリーゼ様……」

「それが呪いでも、気にしないわ」


 リーゼはアルマンのそばにいたかった。

 今日にいたるまで、アルマンはリーゼを排除しない。

 邪険にされても、突き放されても、二度と顔を見せるなとは言わない。獣人にとって番は貴重で、リーゼの存在には価値がある。だから婚約者でいられるのだ。

 それでも、アルマンの気持ちひとつでその立場は引っくり返る。


 彼にとって、リーゼは替えの利く存在だ。

 理性で価値があると分かっているから、今はそばに置いている。けれどそれは絶対ではない。

 リーゼよりも価値のあるものを見つけたら、彼はリーゼを捨てるだろう。


 だから、リーゼは彼に逆らえない。

 利用されているのが分かっても、アルマンの事を拒めない。

 そばにいるだけで幸せなのだ。どうしようもないほど愛おしい。


 本当に呪いのようだと思う。

 クリューガーはあきらめたように肩の力を抜き、深々と息を吐いた。


「……あなたがそれでいいのなら」

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