1.
エルフィリーゼ・ローレンは、愛されない番だった。
「ねえ、アルマン様。今夜の舞踏会、わたくしと踊ってくださいませ」
「いいえ、わたくしが先約よ」
「いやだわ。わたくしだってアルマン様と踊りたいのに」
王宮のサロン。
贅沢な調度品に囲まれる空間で、ひときわ目立つ一角があった。
長身の青年が長椅子に寝そべり、ゆったりとくつろいでいる。彼の周りには数名の令嬢が群がっていた。色鮮やかなドレスが広がり、そこだけ咲き乱れる花園のようだ。中のひとりが甘えるように、青年の腕にしなだれかかった。
「わたくし、アルマン様と踊れなかったら泣いてしまうわ。どうか、お願いです。わたくしを選んでくださいませ」
「あら、そんなのずるいわ」
すぐに別の令嬢が口をとがらせる。
「抜け駆けよ。アルマン様はあなたのものではなくってよ」
「そちらこそ、くっつき過ぎではなくて?」
「まあまあ、落ち着け」
アルマンと呼ばれた青年が機嫌良さそうに目を細めた。
「諍いはよせ。心配しなくとも、全員と踊る」
約束しようとアルマンが微笑む。途端にきゃあっと歓声が上がった。
「嬉しい、アルマン様!」
「わたくしとも踊ってくださいませ!」
「わたくしも! わたくしもよ」
きゃあきゃあとはしゃぐ令嬢のひとりが、「あら、でも」と首をかしげる。
「本当にいいのかしら? アルマン様には、ほら、その、『お相手』が……」
彼女が目をやった先に、華奢な少女が立っていた。
彼の周囲にいる令嬢達とは対照的に、地味なたたずまいの少女だ。
淡い金髪をまっすぐに垂らし、瞳は澄んだ琥珀色。顔立ちはやさしげで、可愛らしいと言えなくもなかったが、取り立てて目立つほどではない。
彼女はアルマンのいる方を見つめ、悲しそうな顔をしていた。
「――ああ」
そこでアルマンは意地の悪い笑みを浮かべた。
「構わない。どうせあれは、ろくに踊れもしないからな」
「まぁ、お気の毒」
そう言いながらも、彼女達はくすくすと笑っている。
「でもそうね、それなら安心して踊れますわ」
「お誘いしない方が親切よね。恥をかくのはあちらですもの」
「そうそう、そうですわ」
くすくす、くすくすと、笑い声がさざ波のように広がっていく。
それが相手の耳に届いたのか、彼女は泣きそうな顔で目を伏せた。
「――リーゼ!」
アルマンが大声で名前を呼ぶ。
「いつまでそんなところに立っている。さっさと立ち去れ、目障りだ」
「……アルマン様」
名前を呼ばれた少女が弾かれたように顔を上げる。
「わ、私、アルマン様にご挨拶を……」
「要らん」
「ですが、どうか、一言だけでも……」
「話したくないと言っている。用事がそれだけなら、もう行け。目障りだ」
重ねて告げると、少女は唇を震わせた。
両目に涙が盛り上がり、あと少しでこぼれ落ちそうになる。それをかろうじてこらえ、少女は急いで礼を取った。
「し……失礼いたします。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳……っ」
「口上はいいから、さっさと行け」
それを遮り、アルマンは冷たく吐き捨てた。
「お前は俺の番だが、愛するつもりは一切ない。それを忘れるな、エルフィリーゼ・ローレン」
***
(また、怒らせてしまった……)
急いでその場を立ち去った後、リーゼは深く息を吐いた。
拒絶された心が痛い。胸が引き裂かれるような感覚に、どうしようもなく涙があふれる。
けれど、「お前の泣き顔は見苦しい」と言われてから、彼の前で泣く事はできなかった。
それでも涙はにじんできて、リーゼは慌てて目を擦る。
「エルフィリーゼ様」
その時、後ろから声をかけられた。
「どうかしましたか? 何か、問題でも?」
「……クリューガー」
立っていたのは黒髪の青年だった。
アルマンの護衛であり、騎士団に所属しているクリューガーだ。オルドランド伯爵家の三男であり、第三王子であるアルマンとは幼なじみの関係でもある。年齢はアルマンのひとつ下、その優秀さは折り紙付きだ。彼はリーゼの目に残る涙に気づき、痛ましげな顔をした。
「またひとりでいらしたんですか」
「……ええ」
「では、城の外まで送りましょう。迎えは?」
「お気遣いなく。ひとりで帰れます」
「アルマン様の大切な方に、何かあってはいけませんから」
「…………」
『大切な方』。
それを聞き、リーゼはぴたりと動きを止めた。
リーゼはアルマンの番だ。けれど、それを実感できた事は一度もない。
正確に言えば、アルマンがそれを示してくれた事は。
この世界には獣人という種族がいる。
見た目は人間と変わらないが、獣の特徴を持ち、獣の力を有している。
猫の獣人であるリーゼが、虎の獣人であるアルマンに見初められたのは八年前。
彼はリーゼの番であり、唯一無二の存在だった。
番。
獣人には番が存在する。
運命の相手であり、自らの半身と呼べる存在だ。
出会った瞬間にそれと分かり、途方もない愛おしさに包まれる。番と出会う事は、獣人にとって最大の幸福なのだ。
リーゼもアルマンに出会った時、「この人がそうだ」とはっきり分かった。
あの時の感情を、なんと言い表したらいいのだろう。
喜び。幸福。感動。驚き。そして、見開いた目からこぼれ落ちる大量の涙。
すべての思いがまぜこぜになり、一斉に湧き上がる。
――ああ、この人だ。
立ち尽くしたリーゼに、アルマンも気づいた。
その目が軽く見開かれ、次いで、わずかにしかめられる。
番に出会ったにしては妙な反応だが、その時のリーゼは気づかなかった。
当時、リーゼは九歳、アルマンは十二歳だった。
迷わずリーゼの前に歩み寄った彼は、じろじろと全身を見回した。
その目は愛しい番を見るというよりも、商品を品定めしているようだった。
やがて、興味が失せたのか、彼は小さく鼻を鳴らす。
その時初めて、リーゼは何か変だと思った。
どうして彼は冷たい目をしているのだろう。
リーゼはこんなにも熱っぽいまなざしを向けているのに。
どうして彼は何も言わないのだろう。
リーゼは彼にかけたい言葉がたくさんあるのに。
どうして彼はリーゼを見ても、何の反応も示さないのだろう。
リーゼは嬉しくて、あたたかくて、泣きたいほど幸せなのに。
こんなにも愛しい思いを抱かせてくれるこの人が、心から好きだ。
理屈ではない。理由もない。ただ、好きで好きでたまらない。眠っていた本能が目を覚まし、ひたすら彼を求めている。激しい熱に浮かされるような、抑え切れない衝動。それは獣人として当然の反応だったと、後になって聞かされた。
出会ったら分かるのよ、と母親は言った。
出会ったら運命だからと父親は言った。
何もかも吹き飛ばしてしまうくらい、衝撃的な経験なのだと。
出会った獣人全員が言う通り、番は本当に特別だった。
こんなに愛しい人と、これからずっと一緒にいられるのだ。それはどんなに幸せな事だろう。
アルマンを見つめ続けるリーゼに、彼はふいと目をそらした。
はあああああっ……っとため息を吐き出して、忌々しげな顔になる。
――……冗談だろう。
その声は、思った以上に冷たかった。
(え?)
驚くリーゼを見やり、彼は大きく舌打ちした。
――名前は。
――え……エルフィリーゼ・ローレン……。
――俺はアルマン・テイガーだ。
美しい白銀の髪と黄金色の瞳を持つその獣人は、尊大さのにじむ声で言った。
――エルフィリーゼ・ローレン、お前はどうやら俺の番のようだ。
だが――と彼は後を続ける。
――俺はお前を愛さない。いいか。番だからといって、俺の愛は期待するなよ。
それが彼との出会いだった。
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