ペンデュラム
「まず借家の契約を切った。怒りや混乱、悲しみや空腹が冷めていくと、帰らなくちゃいけないという気持ちが湧いてきたんだ。
俺にはベルモニカの兵士としての人生があるから。ちゃんと自分の時間に戻らないといけない。」
再びニストッカータの陽射しの中へ戻り、並んでゆっくりと歩きながら、セロリがそんな話を打ち明けてくれた。
金色に輝くこの海の底に、まだ発見されていない機体の一部や、誰かの家族の旅の荷物が沈んでいる。
「でも一生忘れないようにしようと思った。数カ月の出来事だったけど、ここで事故の調査に携わった経験を、忘れずに覚えておこうって。」
不意に彼が足を止める。見上げる空に飛行機雲が見える。
空の青。雲の白。海岸線に供えられた花、赤、黄、白、そして葉の緑。花束を包む新聞紙は、風が吹くと一斉にガサガサ音をたてる。
あの日の第18便に乗り込んだ乗客の悲鳴だ。
「今でも本気で思うことがあるんだ。あの慰霊碑に、俺の名前も刻まれているんだ、って。」
歩き出そうとしたセロリが、踏み固められた雪が溶けだしたところを踏んで、思い切り滑った。
それを支える。咄嗟に出した手が、彼の腕を掬い上げる。
「あははっ…ダッセェ。」
笑いながらも、その目は自嘲に濡れていた。
217人の死者と精神同調を経験したら、駆け込むべきは心療クリニックではないかもしれない。寺とか。
精神科医より陰陽師を頼るべきだ。
しかし不思議と、その後の対応に迷わなかった。
どうすればいいか、答えは出ている。
「今度、長期の休暇を取ろうと思うんだ。」
たくさん話して疲れたセロリが口を閉ざすと、今度はこちらが提案する。
「セロリ、君さえ良ければ一緒にペンデュラムへ行かないか?」
ショック療法だ。実際にこういった治療法が現場で結果を出す場面も珍しくない。
「ニストッカータの海岸へ行こう。その前に、ペンデュラムで何処か花屋があったら案内して欲しい。
慰霊碑へ行って、そこに君の名前が無いことを確認して、それが出来たら花を供えよう。ウェブラーチカと216人の乗客を弔うために。」
近年、情報技術は急速に進歩し、オンライン会議を使った海外患者の受け入れも普及しつつある。
患者の悩みや相談を聞き入れ、解決に向けて助力し、その笑顔を取り戻すまで。診察と個人的な交友に明確な線引きは無い。
「…ありがとう、先生。」
「無理にとは言わないが。」
「ううん、行きたい、行ってみようかな。一人で抱えていると、どうしても間違えそうになるんだ。生きている自分の時間と、止まってしまった誰かの時間。
でも本当は解ってる。戦争を経験して、それでも俺は生き残った。亡くなった人もたくさんいるのに。人為的な戦争どころか、不慮の事故で亡くなる人もいるのに。
ただの、自分一人では処理出来ない罪悪感なんだ。」
良かった。分類しやすい症例だ。どうやら、彼の相談先は心療クリニックで間違っていないらしい。
「先生に会えて良かったよ。あなたとなら、ニストッカータの海をもう一度見れる気がする。」
「そうか。それなら、次はペンデュラムの空港で会おう。」
「うん。楽しみにしているよ。」
無事に約束を取り付けると、通信を切断した。
それから白衣を脱いで貴重品を身に着ける。余計な荷物は要らない。重荷になるだけだ。
ここから地図の反対側の端まで、飛行機を乗り継いで、かなりの長旅になる。
伝える機会を逃したが、セロリが唯一、名前がわかると言った女性。ウェブラーチカは、奇しくも当時セロリと同い年の女性で、生きていれば今日は彼女の誕生日だ。
公開された搭乗記録からフルネームを知り、SNS上に彼女の遺族の投稿を見つけて知った。
同年代であり兵士としての職に就きながら、自分と違い、生きて事故の調査に携わっているセロリを見て、ウェブラーチカの魂は何か思うところがあったのだろうか。
セロリが第18便の墜落事故の犠牲者に強く感情や自我を揺さぶられるのは、彼女の存在が何か訴えかけていたのかもしれない。
ちなみにリモートは正確には『会えて』いるわけではない。この時代では認識の誤差程度の間違いだが。