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交渉

「ふ、ふふふ」


 腕の中で主が眠ったのを確認すると、アウローラは巨大な樹木の上で立ち止まり、主の少し固い髪に頬ずりをする。

 主の今世の容姿は色素の抜けた白髪以外は極めて平凡なもので、飛びぬけて優れているというわけではない。


 なんなら目つきの悪さは人によってはマイナス要素だろう。

 少なくとも、顔立ちという点に関しては前世の方が断然整っている。


 しかしアウローラにとって、主がたとえどのような姿かたちになっていようと、それはさほど重要ではない。


 確かに、あの綺麗な空色の瞳をもう見ることが出来ないのは残念ではあるけれど。

 一番大切なのは主の魂がここにあるということ。

 共に過ごしたあの日々が今も失われず、この身体に宿っているということだ。


 それ以外のことは些細な問題だ。

 むしろ、あれだけ大きな存在だったかつての主が、今は自分の腕の中に収まるほどに小さく、か弱い存在となっていることに軽い興奮を覚える。


「……ああ、それにしても」


 そんなことを考えていたからだろうか。

 ふと、アウローラの中で抑えきれない嗜虐心と悪戯心が首をもたげた。

 今の主に対してなら何をしてもバレないのではないか。

 そんな身勝手な考えが頭を過ぎる。


「ふふ、くふふふっ♪」


 思わず笑いが零れる。


 ああ、いけない。思わず涎が垂れそうになった。


 安心して眠っているこの幼い顔をドロドロにしたい。

 自分だけの色に染め上げたい。


 そんな倒錯した欲望がふつふつと湧き上がってくる。


 ああ、でもダメだ。そんなことをしては嫌われてしまうかもしれない。

 危ないところで冷静さを取り戻し、アウローラは自分の嗜虐心を必死に抑え込むが、


「…………キスぐらいならセーフか」


 自制と欲情の狭間で数秒葛藤した後、あっさりと欲情に軍配が上がった。


 何しろさっきもしたのだ。

 腕の中で眠る主も夢うつつだったとはいえ受け入れてくれた。


 おでこと唇では意味合いが違うだろうが、その程度は誤差の範囲だろう。

 そもそも自分を好いている女の前でこんなふうに無防備に眠っている方が悪いのだから。


 そう結論付けるとアウローラは顔を寄せ、薄く開いた少年の唇に自らの唇を近づける。


 互いの唇が触れるまであと数センチといったところで―――


「……ん?」


 不意に、アウローラはこちらへ向かってくる魔力を察知する?


 方角からしてラルクスからだろう。

 魔獣の類ではない。

『黒』と『緑』の魔力に満ちたこの『魔の森』ではそれ以外の属性の魔力は非常に分かりやすい。


「……ちっ、タイミングの悪い」


 至福の時間を邪魔する闖入者にアウローラは忌々し気に舌打ちする。


 この魔力の持ち主には覚えがある。

 恐らくは自分の後を追ってきたのだろう。

 全く、空気を読めない女だと顔を顰める。


(今は兄様を愛でるのに忙しいっていうのに……)


 とはいえ、このまま無視してもいいことはない。


 たとえこの場から行方を眩ませてもラルクスや騎士団の連中はどこまでも自分たちを追ってくる。

 ならば、こちらから交渉に出向き、自分たちの立場を確立させる方が効率が良いだろう。


「ま、手間が省けたと思えばいいか」



 そう意識を切り替えると、アウローラは少年を抱え直し、近づいてくる魔力の方へと向かった。



  †



「ーーなるほど。その少年が聖王陛下の生まれ変わりというわけですか。アウローラ様」


 森の中、アウローラとフェリシアは正面から対峙していた。

 会話の主導権を握るためだろう。

 フェリシアはアウローラが抱えた少年にじっと視線を合わせ、先んじて訊ねてくる。


 もっとも、それは訊ねるというより確認するような口調だったが。


「……何の話だ?」


「惚けずとも結構です。事情は概ねアルカディア様より伺っておりますので」


 フェリシアの言葉に、アウローラは肩を竦める。


 あの過保護な聖剣が何の準備も無く、彼をこの世界に迎え入れるとは思っていなかったけれど。

 どうやらと言うべきか、やはりと言うべきか、彼の保護者に選んだのはアークレイ家だったらしい。


 フェリシアはこれ見よがしに溜息をつき、言葉を継ぐ。

 その表情には呆れと苛立ちの色が見て取れた。


「アウローラ様。貴女はご自分の立場を解っていますか? 貴女には許可なくラルクスを出ることなど許されておりません。かつての主君にもう一度会いたいという気持ちは理解しますが、街を囲う結界を破壊してまで魔の森へ向かうなどと」


「なら聞くがフェリシア。一体誰が私の話に耳を傾けてくれる? 『聖騎士』なんて称号は聖剣の力を体よく利用するための詭弁に過ぎない。どんなに言葉を飾っても私は主君を護れず聖剣を奪った大罪人だ。街を出る許可なんて下りるわけがない。それなら、押し通るしかなかろうよ」


「……だから力づくで街から出たと? その行動が街に多大な損害を与え、住民の混乱を招き、ご自身の立場を苦しめるものだとしても?」


「関係ないね」


 悪びれることも無くアウローラは、はっ、と鼻で嗤う。


 たとえその後にどんな罰が下されようとも、主の下へ向かうという選択以外、あの時のアウローラには存在しなかった。


 もっとも、彼の身柄を手にした今、大人しく捕まるつもりなど微塵もないけれど。


「主君想いなのは結構ですが。貴女は今の状況をよくよく理解した方がよろしい。言っておきますが、現在ラルクスでは貴女に反逆の意志ありと見て、追跡部隊が編成されています。すぐに第十七師団の騎士たちが貴女を捕らえにやってきますよ?」


「へえ?」


 フェリシアの警告に、アウローラは僅かに眼をすがめる。


 ラルクスに常駐する王立騎士団東方方面軍第十七師団。

 騎士の国と呼ばれる聖王国の中でも指折りの精鋭部隊だ。


 特に厄介なのは、師団長のキース=アウグスト=ヴァイルシュタイン。

 人魔対戦終盤において最激戦区と言われた南部戦線を戦い抜いた生粋の武人だ。


 実力だけならばアウローラより格下ではあるが……正直、厄介な相手だった。


 聖王国において師団長という肩書は決して安くはない。

 追手の部隊を返り討ちにすること自体は難しくはないが、その後のことを考えるとリスクが大きすぎる。


 何しろ聖王国でのアウローラの立場は非常に危うい。


 公にこそなっていないが、彼女は聖王の死を招いたとされる最大級の戦犯だ。

 それに加え今や反逆の疑いまでかけられている。


 仮にここで第十七師団を壊滅させようものなら、聖王国そのものが彼女の敵にまわるだろう。


「なるほど。それは確かに面倒だな。なら、お前たちがなんとかしてくれ」


 あっけらかんとアウローラがそんなことを言う。

 子供におつかいを頼むような、あまりにも軽い口調にフェリシアは「は?」とぽかんと口を開ける。


「……なんとか、とは?」


「とりあえず、やってほしいことは二つ。一つは今日の私の罪を不問にすること。ああ、これは当然今こっちに向かってる討伐隊とやらを止めることも含まれてるから。もう一つはこの人に戸籍を用意してあげてほしい。正直、私は戸籍なんてどうでもいいと思ってるけど、無ければ今後不便だろうし……何より、この人には何の憂いも無く日々を過ごしてほしいから」


 滔々と要求を語るアウローラに、フェリシアは頭痛を抑えるように額に手をやる。

 立場を弁えず、勝手を言うにもほどがある。


「……そんな無茶な要求が通るとでも? 仮に通るとしても、それは私に可能な範囲を超えています」


「そんなことは解ってるさ。だから出来るやつに話を通してくれって言ってるんだ。お前に出来なくとも、セリアなら出来るだろう?」


「……っ!!」


 アウローラの言葉に、フェリシアの意識が真っ赤に染まる。


 ふざけるな。

 よりにもよって己の不始末をさも当然のように拭かせようなどと、よくもそんな恥知らずなことを。


 沸々と湧き上がる激情を必死に抑え、努めて冷静な口調で話す。


「お断りします。貴女の事情に我が主を巻き込まれなければならないのですか。この事態は貴女が仕出かしたことです。どうなろうと、それは自業自得というものでしょう」


「おいおい、随分とあっさり結論を出すんだな。いいのか? お前がここに来たのは大方私を連れ戻すようセリアに命じられたからだろう? この場を穏便に収めるためにはひとまず私の要求を呑んでおいた方がいいんじゃないのか?」


 アウローラの言葉にフェリシアの眉がピクリと動く。


「……見透かしたようなことを仰るのですね」


「それ以外にお前が単独で来る理由がないからな。聖剣はラルクスにとって命綱だ。仮に私が王都にでも連行されればラルクスは当然立ち行かなくなるぞ?」


「……………」


 悔しいが、アウローラの言葉は正しい。


 大戦後、『魔の森』と隣接するラルクスが観光都市として発展できたのは、唯一瘴気を浄化できる聖剣の力に依るところが大きかった。

 ラルクスの市民の間では聖剣の存在が一種の精神安定剤のような役割を担っているのだ。


 仮にラルクスから聖剣が失われれば街の防衛力は著しく低下し、人心はラルクスから離れていく。

 少なくとも、これまでのような外部からの観光客の誘致は見込めないだろう。


 まるで挑発するようにアウローラは薄く笑う。

 その余裕に満ちた表情に苛立つと同時に、フェリシアの背筋に冷たい怖気が走る。


 目の前に立つこの女は、本当にあの操り人形だったアウローラなのかと。


(まるで別人ではないですか……)


 その姿も、声も。アウローラのもので間違いないはずなのに。

 仕草の一つ一つにこれまで彼女になかった意志と熱がある。

 少なくともフェリシアの知る彼女は、こんな要求をしてくるような人間ではなかった。



 ―――この女は一体誰だ?



「さて、どうする? あまり考えてる時間はないぞ? タイムリミットは追跡部隊とやらがここに来るまでだな」


「さぁ、それはどうでしょうね。何もこの場で貴女と交渉する必要などありません。追跡部隊が貴女を捕らえた後、牢の中でゆっくりと説き伏せれば良いだけでは?」


 フェリシアは咄嗟に虚勢を張る。


 嘘だった。

 いかに第十七師団の騎士たちとてアウローラの前ではひとたまりもないだろう。

 この女に対抗できる者は聖王国どころか、世界中を探してもほんの一握りだ。


 しかし、そうも簡単にアウローラの要求を呑むわけにはいかない。

 この場で彼女の要求を無条件で認めれば、その後の交渉が不利になり、そのままズルズルと相手の要求を呑むようになってしまう。


 故に、フェリシアは強気にアウローラに言い放つ。

 追い詰められているのはこちらではなくお前だと、そう言外に伝える。


 しかし―――


「くふふ―――」


 アウローラの笑みが深くなった。

 肩を震わせ、面白い冗談を聞いたと言わんばかりにアウローラは笑う。


「……何がおかしいのですか」


「ふ、くくくっ……。いやなに、必死に強がる姿が可愛くて。これは忠告だけど、虚勢を張るにしてもせめて何かしらの根拠を持っておいた方がいい。全部が透けて見えるような嘘じゃ人は騙せない。それと、危機感が薄い。交渉は武力を持った方が有利になる。―――お前さ、この期に及んで自分が殺されないとでも思ってるのか?」


 瞬間、紅い稲妻がフェリシアの周囲を奔った。


「―――ッ!?」


 魔力によって具現化された無数の剣が展開。

 空中に浮かぶそれらの切っ先は残らずすべてフェリシアへと向けられていた。


 突然の状況にフェリシアは目を見開く。

 気付けば周囲に現れた無数の剣が檻のように彼女を閉じ込めていた。


(~~っ、なんて発動速度ッッ!!)


第九の剣軍(ザ・サウザンド)』は鞘に納められたままであり、アウローラの両手は少年を抱きかかえているため塞がっている。


 鞘に納めた状態から無手での魔具の起動。

 しかもフェリシアに動く隙さえ与えない剣軍の高速展開。


 魔具の性能だけに依らない練達の技だった。

 そして、底知れぬ膨大な魔力量。


(化け物め……ッ!!)


 内心で毒づく。

 死の恐怖に、フェリシアの心臓が早鐘を打ち、冷や汗が頬を伝う。

 己を囲う包囲網を前にして、言葉遣いを一つ間違えるだけで命取りになると本能が警鐘を鳴らした。


「お前が私を見下していたのは知ってるよ」


 アウローラが口を開く。

 顔を上げた先、紅い瞳と目が合った。

 まるで世間話でもするように淡々と目前の女が言う。


「でも、そういうヤツに限って見下してる相手に噛みつかれるのを想定してないんだよな。だからこうして喉元に剣を突き立てられる寸前まで油断する。他人の命なんて、私にとってはどうでもいいのにね」


 蔑まれても、罵られても。

 アウローラが周囲に牙を剥かなかったのは自分の扱いを含めて、すべてがどうでもよかったから。


 彼女にとってどうでもよくないのは一つだけ。

 腕の中で眠るこの小さな主君ただ一人。


「こんな灰色の世界に、一体どれだけの価値があるというのか」


 大戦の最中、アウローラはある戦闘の後遺症により『色』を失った。

 空の青も、木々の緑も、炎の赤も。

 彼女の視界からは色彩が消え、世界は灰色に塗りつぶされた。


 文字通り世界の見え方が変わって、価値観も変わった。

 灰色の世界は彼女にとって意義をなくした。

 他人も自分もどうでもよくなった。


 それでも、この人だけは色づいたままでいてくれた。


 姿かたちが変わっても、すぐにこの少年がそうだと分かったのはそれが理由。

 初めて出逢ったあの日からずっと。

 灰色になってしまった世界の中で、彼だけは色鮮やかに輝いていた。


 だからこそ愛おしい。

 だからこそ触れていたいと思う。


「フェリシア。私はこの人の傍にいるためなら何でもするよ。お前に刃を向けることも。ラルクスの住民を皆殺しにすることも。私にとって大切なのはこの人だけで、それ以外のことなんてどうでもいいから。だから最後にもう一度だけ訊くぞ?」


 紅い眼光がフェリシアを射抜く。

 周囲の剣軍が輝きを増し――濃密な殺気が周囲に満ちていく。


「私の要求を呑んではくれないか?」


 それは最後通牒だった。

 要求を呑まなければ容赦なく殺すという宣告。


 アウローラの号令一つで周囲を囲む刃は無慈悲にフェリシアを貫き、ここに来るまでに散乱していた残骸と同じ結末を辿ることになるだろう。


「ッ………!」


 今にも襲い掛かってきそうな剣軍を前に、フェリシアは葛藤するようにきつく眼を閉じる。


 眼を閉じて――セリアと、亡き先代の顔を思い浮かべた。


 それから、ふぅと、諦めたように力を抜く。


「……この人のために生きたい。この人こそ己のすべて。そう想えるだけの誰かに出逢えたのはきっと、幸福なことなのでしょう」


 口から零れ落ちたのはフェリシアの本心だった。

 共感と、ほんのわずかに哀れみが混じった声音で。


 アウローラがそうであるようにフェリシアにも主君への忠誠はある。

 だが、フェリシアとアウローラのそれは意味合いが違う。


 たとえ主人であるセリアが死んだとしても、フェリシアは抱えたものを投げ出したりなんてしない。


 セリアが亡き父の遺志を継いだように。

 どんなに苦しくても、悲しくても、主が遺した想いを繋ぐため、前を向いて戦うだろう。


 すべてを投げ出し、どうでもいいと諦めるようなアウローラとは絶対に違う。


「私が内心で貴女を侮辱していたのは事実です。その点に関しては真摯に謝罪しましょう。けれど、貴女の言う灰色の世界の中にも誰かにとっての幸福があり、人生がある。それを知りながらどうでもいいと、ラルクスの民を害そうと言うのなら―――」


「言うのなら?」


「人の社会に貴女の居場所はない。ラルクスを治めるアークレイ家に仕える者として排除します」


 長いスカートがふわりと広がる。

 肉付きの良い太ももに装着されていた二刀のナイフ。


 フェリシアはそれらを瞬時に抜き放ち、逆手に構えた。


「やる気か? 言っておくが、聖剣の助けを期待しているなら無駄だぞ? アレは私以上にドライだ。たとえお前がどんな目に遭ったとしても助けになんか入らないぞ?」


「ええ、そうでしょうとも。私もこの局面で都合よく聖剣の加護を賜れるとは思ってはおりません。それでも……たとえ勝てなくとも、せめて一矢は報いてみせましょう」


「……ふぅん。そう」


 決然とした眼差しを前に、アウローラは目を細めた。

 刃のように鋭く。冷徹に。



 10年だ。

 10年もの間待ち続けた。


 アウローラにとって、この世界で唯一価値のある存在と過ごせるこの幸福を邪魔するというのなら―――この女は、私の敵だ。


 そんなアウローラの殺意に呼応するかのように、剣軍に籠められた魔力が圧力を増し、今にも暴発しそうなほどに膨れ上がる。


 アウローラが獰猛に笑い、フェリシアが僅かに腰を落とした。


 そして―――




「――やめんか、馬鹿ども」




 凛とした、それでいて芯のある声が両者の間に割って入った。




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