きみの名前は
夜の森を再び紅い髪の女――アウローラが駆けていく。
季節は冬に差し掛かり、夜が深まるほどに空気は一層冷え込んでくる。
肌に触れる風は冷たい。
けれど、アウローラの心はそんな寒さとは無縁だった。
陽だまりの中にいるようにポカポカと暖かく、そして心地いい。
普段は鋭く冷たい眼差しは柔らかく緩み、時折口元から小さな笑い声が零れている。
彼女が上機嫌な理由は、その腕に抱えた少年にあった。
最愛の人がここにいる。
あの日、逝ってしまったかつての主君がこの腕の中に確かに存在してくれている。
その事実がどうしようもなく、嬉しい。
「楽しそうだな、アーラ」
主の生まれ変わりである少年が声を掛けてくる。
――アーラ。
懐かしい呼び名だった。
10年ぶりにそう呼ばれた。
アーラというのは彼女の愛称だ。
ただし彼以外の人間には呼ばせることは決してない。
彼だけに許した呼び方。
騎士となってからはあまり呼ばれなくなったけど、それでも二人きりの時やふとした瞬間に彼はアウローラのことを『アーラ』と呼んでいた。
……口元がにやける。
もう一度、そう呼んでもらえる時が来るなんて夢にも思わなかった。
「ええ……とても」
少しでも寒さから護るように少年の身体をぎゅっと抱き寄せる。
少年の格好は襤褸を纏っただけの、ほとんど裸に近い状態だった。
そんな状態のまま夜の森を歩かせるわけにはいかない。
そう説得すると、始めは抱えられることに難色を示していた少年も今は大人しくアウローラの腕の中に収まっている。
「今わたし最高に嬉しくて幸せなんです。明日はどんな日になるんだろうって。そう考えただけでワクワクします。こんな気持ちになるなんて、貴方を失った時は想像もつかなかった。今なら私、空だって飛べちゃうかもしれません」
そう言ってアウローラは一際高く飛び上がる。
広大な森を一望できるくらいに高く高く。
月明かりの下、少年を抱いたままアウローラは夜空をくるくると舞う。
アウローラの豊かな双丘が少年の顔で柔らかく潰れた。
彼の目尻が「うへへ」とだらしなく垂れ下がるのを見ると、今まで邪魔だと感じていた胸も今は大きく育ってくれて良かったと思う。
体であれ心であれ、彼が自分を求めてくれていると、そう強く実感出来るから。
「……それにしても、まさかラインハルトが亡くなっていたとはな」
不意に少年が惜しむように呟く。
ラインハルトとはアウローラが現在身を寄せているラルクスという街の先代領主だった男だ。
彼が亡くなったのは2年前。
40代前半という若さでの逝去だった。
「ええ。元々体が丈夫な人ではありませんでしたが、戦後の街の復興で色々と無理をし過ぎたみたいです。今は娘のセリアが領主を継いでいます」
「セリアが? そういえばラインハルトには他に子供がいなかったか。でもセリアってお前より年下じゃなかったっけ?」
「ええ、多分。と言っても確かこの前成人していたような……?」
んー、と首を傾げながらアウローラは曖昧な返事を返す。
なんとなく20歳は過ぎていたような気がするが、実際のところはよく覚えていない。
昔から、彼女は主以外の他人に対してとかく関心が薄い。
「まぁ、いいけど。それで……街の復興は進んでいるのか?」
この場に当事者たちがいるわけでもないのに、少年はどこか気遣わしそうに問いかけてくる。
この人はいつだって人の心に寄り添おうとする。
ラインハルトの死も、若くしてセリアが背負った重責も。
そのどれもがこの人のせいではないというのに、彼はそれを我が事のように悼む。
優しいのだ、彼は。
薄情な自分とは違って。
「ええ。私の見る限り順調に進んでいると思いますよ。10年前とは見違えるくらい綺麗になりました。今では聖王国でも有数の観光都市とまで言われています」
「そっか……そりゃ良かった。俺が最後に見た時はあんなにもひどい状態だったのに。なんせラルクスは『魔の森』から1番近い街だったから」
アウローラたちがいる『魔の森』は人魔大戦の最終決戦地。
そこに1番近いということは大戦の最前線であったことを意味する。
飢餓や疫病。そして度重なる魔獣の侵攻によって荒廃した土地。
大戦が終わってなお、ラルクスの復興は絶望的だと当時は誰もが思っていた。
少年が小さく息を吐く。
アウローラにこの人の本心を計り知ることは出来ないけど。
きっとその双眸には10年前のラルクスの情景が浮かんでいるのだろう。
瓦礫の山と煤で汚れきっていたあの街並みを。
「兄様。それは不要な感傷ですよ」
「?」
「そもそもの話。人魔大戦が終わらなければラルクスどころか、世界はもっと酷い状況になっていたはずです。兄様は王としての務めを果たした。そこから先はその場所に生きるそれぞれが負うべき責任です。幸いラルクスはラインハルトやセリア、住人の尽力もあり復興を果たした。彼らは皆、人魔大戦を終結させた偉大な英雄に感謝しているはずです」
半分は本音。もう半分はでまかせ。
彼らがこの人にどういう感情を抱いているかなんて知らない。
主君以外の他人の気持ちなんて、アウローラにとってはどうでもいい。
ただ一つだけ確かなことは、この人が顔を曇らせる理由なんて何もないということ。
この人は最期まで立派に戦い、為すべきこと為したのだから。
「兄様は何も気に病む必要はありません。兄様は十分に頑張ったのだから、ただそのことを誇ればいいのです」
「……ん。まぁ、そう言ってくれるのは悪い気はしないけど。それより、お前は本当にいいのか?」
「? いいって、何がですか?」
「いや、なんというか……さっきも言ったけど今の俺は何も持ってないから。王としての地位も、金も、戸籍すらも。多分、お前にも色々と迷惑をかけると思う。だから……」
「ああ、なんだ。そんなことですか」
アウローラは朗らかに笑い飛ばす。
そんなの、気にする必要なんて全くないのに。
「大丈夫ですよ、兄様。迷惑なんて昔の私の方がずっとかけてましたから。お金は特に使い道もないので結構貯まってます。戸籍についてもまぁ多分どうにかなりますし、それに……」
自分を見上げる黒の双眸を見つめ、アウローラははっきりと告げる。
「貴方はもう……十分すぎるほどに、私に色々なものをくれましたから」
この人がいたから自分は救われた。
この人がいなければ自分はここにいなかった。
それだけが彼女の中にある絶対不変の真実。
だから。
これはただ、自分がもらったものを返すだけのこと。
「兄様は何も気にせずに私に甘えてください。それが私の幸せなのですから」
彼と出会ったあの日からずっと変わらない想いを告げると、少年がはにかむ。
「そっか……うん。なら、悪いけど世話になるよ」
照れてるような、くぐもった声が耳に届く。
受け入れられたという喜びにアウローラは笑みを深くする。
「はい、こちらこそ末永くよろしくお願いしますね」
己の幸福のために、この人を独占する。
それはきっと、世界にとっての損失だろう。
けれど、そんな世界への裏切りをアウローラは迷うことなく選択する。
後悔はしない。
この10年、主君を失った絶望感は計り知れないものだった。
もうあの悲しみを味わうのは絶対に御免だ。
「そういえば兄様は今なんという名前なのですか? さすがに今後人前で兄様って呼ぶのも問題あると思いますし、知っておきたいのですが」
ふと気になったことを問いかける。
あまりにも突然の再会だったため、今の今まで聞きそびれていた。
「ん? ああ……名前、俺の名前は……」
少年の視線がどこか遠くを見るように彷徨う。
記憶を思い出そうとしているような、そんな仕草。
やがて少年がゆっくりと口を開く。
「ソラ……そうだ、俺の名前はソラだ」
「そう、素敵なお名前です」
微笑むアウローラに少年――ソラも顔を綻ばせる。
どこかほっとしたような笑顔。
まるで名前を思い出せたことに安堵しているかのよう。
ソラは身体の力を抜いてアウローラにもたれかかった。
見れば彼はウトウトと舟を漕ぎ始めていた。
「眠りますか、兄様」
「……ああ、時差ボケかな。なんだか眠くなってきた。悪いけど、あとは任せていいか?」
「ええ。ごゆっくり」
アウローラは少年の背中をポンポンと優しく叩く。
そのリズムに合わせて、やがてソラが穏やかな寝息を立てはじめる。
「おやすみなさい、兄様。……愛しています」
眠る想い人の額にキスを落とし、アウローラは夜空へ舞い上がる。
そっと触れた唇は信じられないくらいに熱を放っていた。