紅蓮の女
夜の森を紅い閃光が走る。
腰まで伸びた長い髪が月光を反射し、紅玉のように輝く。
閃光の正体は鋭く、凛とした気を放つ、真紅の髪と瞳の美女だった。
女は長髪を靡かせながら、木々を足場に人外のスピードで夜の森を一気に駆け抜ける。
普段は気だるげに細められた双眸は、焦燥と不安――そして、ほんのわずかな期待に揺れ動いていた。
(まさか、でも……ッ)
女が夜の森を駆けているのは、己と契約を結んでいる『聖霊』がこの地に顕現する気配を察したからだ。
この10年、一度として姿を顕さなかったあの聖霊が、だ。
魔王との戦いでその力の大部分が削がれた影響も当然あるのだろう。
だが、それ以上にあの聖霊は他者に――世界に対し一切の興味がなかった。
彼女の関心、寵愛の対象はただ一人。
10年前にこの世を去った、本来の契約者だったあの人だけ。
声で、仕草で、表情で彼女は常にそれを表していた。
そんな彼女が再びこの地に顕現したという意味。
(もし……本当にあの人ならッ――!!)
目指す先は『魔の森』の中心。
恐らくは『魔王』が封印されている洞窟だ。
ありえない、と理性が囁く。
それでも、と心が叫ぶ。
どちらにせよ、確かめないという選択肢は女にはない。
「だから、邪魔を、するなッーーー!!」
駆ける勢いそのまま、ダンッ! と一際高く飛び上がった時、
「オオオオォォォォォォォォォォォォ―――――ッ!!!」
木々の間から飛び出してきた狼に似た黒い獣が女に向かって牙を剥きだしに襲い掛かる。
「ちッ――!」
舌打ち一つ。
女は空中で体勢を変え、獣の牙を躱す。
そして回転した勢いそのままに獣を地面に蹴り落とした。
「ゲボァッッ!?」
叩き落された獣は肺に溜まった空気と一緒に血反吐を吐き出す。
女の蹴りと落下の衝撃でいくつかの骨は砕けたが、それでも獣生きていた。
獣は全身の力を振り絞り立ち上がろうとしたが、頭上から飛来した大剣に頭蓋を刺し貫かれ、今度こそ息絶える。
「ああ、次から次へと鬱陶しいッ……!」
樹上の枝へと着地し、女は苛立たし気に辺りを見回す。
眼下では魔物たちが涎を垂らしながら女を囲むように包囲を縮めていた。
ここは『人魔大戦』終結の地――『魔の森』。
『魔王』の魔力が色濃く残る場所であり、終戦から10年が経った現在でも一部瘴気の浄化が追いつかず魔物たちを発生させ続けている魔境だ。
魔獣は本能的により濃度の高い魔力を求める。
女が纏う上質な赤色魔力は、さながら誘蛾灯のように魔獣たちを引き付けていた。
「……もういい。余計なちょっかいをかけてこなければ見逃してやったけど、」
心底面倒そうにため息を吐く。
女を囲んでいる魔獣たちは全てが『下位』。
魔獣として最低位。
力も弱く、知能も文字通りの獣並。
それゆえに見誤っていた。
目の前の女と自分たち。
どちらが獲物で、どちらが狩られる側なのかを。
「皆殺しにしてやるッ……!!」
女は腰に佩いた短剣を鞘から引き抜く。
それは華麗な装飾が施された黄金の短剣。
柄頭には『Ⅸ』の刻印が刻まれている。
「―――起きろ。『第九の剣軍』」
手にした短剣に一気に魔力を叩き込む。
瞬間、剣身に刻まれた魔術式が起動した。
眼前から放たれる尋常ならざる魔力に気づいたのか、魔獣たちは即座に後退を試みる……が、もう遅い。
「展開」
紅い稲妻が虚空を奔った。
稲妻は幾筋にも別れ、収束し、徐々にその質量を増していく。
やがて稲妻は鋼の重みと頑強さを兼ね備えた『剣』へとその姿を変えた。
その数は百。
1本1本が目前の魔獣たちを超える魔力を秘めた必殺の剣軍だ。
具現化された大剣の群れはまるで意思を持つかのように隊列を組み、逃げる魔獣たちに照準を合わせる。
そして、
「―――死ね」
号令一下。
女の言葉と同時に、百の剣軍が怒涛の勢いで射出された。
音を置き去りにした速度で飛来する剣軍は彼我の距離を一瞬でゼロにする。
「ッッッ!? ―――――――――――」
断末魔さえも閃光が掻き消す。
剣軍は逃げ惑う魔獣たちを一切合切蹂躙し、木々を薙ぎ倒しながら進んでいく。
1本1本が強大な威力を持つ剣軍を防ぐ術を魔獣たちは持たず、成す術もなくその身体を穿たれ消し飛ばされる。
十秒後……轟音が収まった頃、百の剣軍の数は魔力の粒子となって霧散した。
粉塵が晴れたそこに残ったのは、さながら絨毯爆撃を喰らったかのような荒地だった。
魔獣たちの肉片がそこかしこに飛び散った凄惨たる光景。
女と魔獣たちの戦いは、瞬く間に女の圧勝で終わりを告げた。
だが、女はその戦果に一切の関心を示さない。
その光景を一瞥することなく、先へ進もうとして、
「―――はっ。相変わらず品のない殺し方ね、アウローラ」
「ッ!?」
背後から掛けられた少女の声。
どこか侮蔑を含んだその声に女――アウローラは咄嗟に振り返るが、そこには誰の姿もない。
けれど、確かに聞こえたその声に、アウローラは無意識に皮手袋を着けた左手を握りしめた。
「………アルカディア」
幻聴ではない。
久しく聞いていなかったというのに、その声の主が誰であるかをアウローラは一瞬で理解した。
この道を進んだ先に、彼女がいる。
「………っ」
恐怖で身体が震える。
魔獣の群れに囲まれても感じなかった怖気がアウローラの全身を駆け巡った。
それでも、進まないわけにはいかない。
アウローラは奥歯を強く嚙みしめ、震える心を必死に抑えて夜の森を再び駆け出した。