それは仄暗い悦びだった
「アウローラ。次は海の方へ行ってみたい」
兄様がそう言ったのは街が夕暮れに赤く染まり始めた頃だった。
あれから私たちは新区画の大通りを進みつつ買い物を続けた。
露店や土産物屋に立ち寄ったり、道行く人から呼び止められて商品の試供品をもらったりと色々あったけど、必要な物は一通り買いそろえた。
あとは買ったものの内いくつかをアパートへ届けてもらうよう手配すれば、今日やるべきことは終わりだ。
私は兄様の言葉に微笑みながら頷く。
兄様が望むなら当然ながら私に否やはないのだ。
新区画の繁華街から海の方へ進んでいくと、段々と街の雰囲気が変わってくる。
道路は整備されているものの、通りの左右に軒を連ねる建物や店の数々はいわゆる商店街や市場といったものに変わり、道行く人々も観光客よりも地元民らしき人が多くなってくる。
それらを横目に眺めながら歩道を進んでいくと、やがて私たちは目的の場所に到着する。
海沿いにある海浜公園だ。
今の時間帯は人は少ないが、昼間のこの公園にはたくさんの観光客や地元の人々が訪れ、海岸を散策したり屋台で買った食べ物を食べたりと思い思いに楽しむ。
そしてそこから少し離れた場所、海に面した広い砂浜に私たちは立っていた。
寄せては引いてを繰り返す波が砂浜を濡らし、海からの冷たい冬風が私たちの間を通り過ぎていく。
その感覚がなんだか寂しくて、私は繋いでいた兄様の手をぎゅっと握る。
兄様はそんな私の仕草を仕方ないなとでも言うように笑いつつ握り返してくれた。
波の音と互いの呼吸音だけが聞こえるこの空間がとても心地良い。
兄様はただ黙って水平線の兄様方に沈みゆく夕日を眺めている。
……あぁ、本当に愛おしいなぁ。
私は兄様の姿を目に焼き付けようと瞬きすら惜しむほど兄様を見続ける。
このままずっと兄様を見つめていたいという気持ちと、その瞳に私だけを映して欲しいという独占欲が混ざり合って胸の中でぐるぐると渦巻く。
そんな私の視線に気づいたのか兄様はこちらを向くと苦笑を漏らした。
「そんなに見られると流石に恥ずかしいんだが。俺の顔に何かついてるか?」
「いえ。ただ……何となく兄様が思い悩んでいるように見えたので。何か気がかりなことでもあるのですか?」
誤魔化し半分、本音半分で私は答える。
これは先ほどから思っていたことだ。
あの妙な小娘とシスターに出くわしてから、兄様は少し様子がおかしかった。
街に買い物に繰り出していても時折物思いに耽っている様子だったし、今もこうして海を見つめている兄様の表情はどこか憂いを帯びているように見える。
私の問いかけに兄様は一瞬驚いたような表情を浮かべると、やがて「まいったなぁ」と肩を竦めた。
「そんなに解りやすかったか、俺?」
「いいえ。兄様は昔から抱え込むのが上手ですから。だから、少しでも気になることがあるなら言ってほしい。私にできる事なら何だってしますから」
そう言って私は兄様を真っ直ぐに見据える。
……我ながら必死過ぎるのは自覚しているけど、それでも兄様が悩んでいるのであれば力になりたいという気持ちに嘘偽りはない。
だから遠慮しないで何でも言ってほしいし、どんな願いだって叶えてあげたいと思う。
兄様はしばらく私をじっと見つめた後、やがて小さくため息を吐く。
「別に勿体ぶるような話でもないんだ。ただ、さっきあのスピカって子に視せられたビジョンがちょっとな」
「――わかりました。今すぐあの小娘を殺してきます」
「まてまてまてまて。早まるなおい。俺はそんなこと望んでないから」
兄様は慌てた様子で私の腕を掴み引き止める。
……むぅ、解せない。
たとえ直接的な害はなくとも、あの小娘は兄様の心に土足で踏み込んだのだ。
それはある意味、肉体を傷つけるよりもずっと重い罪だと思う。
能力の制御が出来ていなかったなど言い訳にもならない。
故意だろうと過失だろうと罪は罪だ。
それなのに、なぜ兄様はそれを咎めようとしないのか?
私が納得できずにいると兄様は苦笑しながら口を開く。
「これに関しては本当にいいんだ。進んで視たいモノじゃなかったのは確かだけど、おかげで思い返すことができた。……俺が反省しなくちゃいけないこと」
「反省なんて。兄様が悔やむ必要なんて全くありません。兄様はいつだって自分に出来ることを必死に為してきた。あんな無礼な小娘のために心を乱す必要などないでしょう」
兄様の言い分に対する不満とあの小娘への苛立ちで私はつい語気を荒げてしまう。
そんな私の態度に兄様は苦笑した後、静かに首を横に振った。
「反省と後悔は全然違うよ、アーラ。失敗であれ成功であれ、どんなことにも反省っていうのは必要なんだ。次に活かし、より良い結果を掴むためにはな。まぁ死んだら次も何もありはしないんだけどな、ははっ」
そう言って、兄様は楽しそうに笑う。
兄様にとっては何気ないジョークだったんだろう。
でも、私はそれに何一つ笑えなかった。
「……今の言葉は不愉快です、兄様。そんなこと、冗談でも言わないでください」
「……そうだな。うん、悪かった。まぁそんなわけで色々と思い返すことができて良かった。俺は前世での人生に後悔はないけど、反省すべき点はたくさんあったんだなって。……なぁ、アーラ。あの時、お前言ってたよな。『置いていかないで』って。俺のいなかったこの10年、お前はちゃんと笑えていたか?」
私の瞳を見つめながら兄様はそう問いかけてくる。
色も形も何もかもが変わってしまったのに、その瞳に込められた強さや慈愛はあの頃と何一つ変わらない。
私が大好きだった真っ直ぐな眼差し。
「――――――」
……ずるい、と思う。
そんなの答えられるわけがない。
兄様は私にとって生きる理由そのものだった。
だから10年前、兄様がいなくなってから、どうやって生きればいいのか分からなくなった。
おそらくは人が生きていくためには原動力みたいなものが必要なんだと思う。
夢とか希望とか、生きがいとか。
そういうものを失くした空っぽの私はあの日からずっと、生きながらにして死んでいるようなものだった。
アルカディアの言う通り、ただ無駄に命を消費していただけの10年間。
こうして再会を果たすまで、私が笑えていたはずがないというのに。
「……あの時、兄様は私に生きろと命じた。だから私は生きるしかなかった。兄様の命令を果たすためだけに私は今日まで生きてきたのです」
結局出てきたのは、そんな遠回しな否定の言葉。
そんな私の答えに兄様は、そうか、と静かに言葉を漏らした。
……あぁ、ごめんなさい。
決して兄様を責めているわけじゃないのに。
兄様がいない世界に取り残された私が、それでもなお生きようとしたのは兄様のことを心から愛していたから。
兄様が遺してくれた優しい命令を無かったことにしたくなかったから。
そう言いたかったけど、兄様の哀しそうな表情を見て言葉が詰まる。
いつの間にか夕日は水平線の兄様方へ沈んでいたようで、空も海も暗い青へと染まっていた。
まるで今の私の心境を表しているかのように。
そう。
私は兄様の、今にも泣きだしそうな瞳を見て、胸が張り裂けそうなほど苦しくなったけど……それと同時に仄暗い悦びを感じていた。
兄様が私を想ってくれている。私のために悲しんでいる。
その事実がたまらなく嬉しくて―――興奮する。
……ああ、私は本当に歪んでいる。
兄様は私が笑っていることを望んでくれているというのに。
私のために哀しむ兄様の姿を、私は何よりも愛おしいと思う。
兄様への愛が深まるほど、私の心は黒く染まっていく。
その黒い衝動に突き動かされるままに、私は兄様の唇を無理矢理奪った。
「―――んむッ!?」
突然の出来事に兄様は目を見開いて驚いた表情を浮かべている。
だけど、私は構うことなく兄様の口内に舌を入れて蹂躙する。
歯列をなぞり、上顎を優しく撫でてやると兄様はビクビクと身体を震わせる。
その可愛らしい反応が楽しくて、しばらく堪能した後私たちはゆっくりと唇を離した。
名残惜しむように銀色の橋がかかり、やがてプツリと途切れる。
それがなんだか勿体なくて思わず舌で舐めとる。
……あぁ、なんて甘美な味。
この10年、ずっと渇望していたものが今この手の中にある。
もっと、もっと兄様に触れたい。
兄様の全てが欲しい。
そんな欲望が次から次へと溢れ出てくるのを止められない。
だから私は再び兄様に口付けようとする。
けれど、私の唇は間に差し込まれた兄様の掌によって受け止められてしまった。
「……兄様?」
「誰か来る」
兄様は背後を振り返りながら短く答えた。
その言葉に周囲への警戒を引き上げた。
肌がひりつく感覚と兄様の低い声に熱に浮かされていた私の心は急速に冷えていく。
物々しい兄様の雰囲気に可能性は低いと思いつつも、問いかける。
「……一般の観光客や地元の住民なのでは?」
「そうかもしれない。まぁ、だとしても俺たちの周りに人がいなくなるまで近づいて来なかったところを見ると、まともな相手じゃないかもな」
「つまり、私たちはずっと付けられていた、と?」
「多分セリアの屋敷を出てからな。確信はなかったし勘違いかとも思ったけど、どうやら予想は当たったみたいだな」
そう言って兄様は凝らすように暗闇を睨みつける。
そうして暗がりの中から数名の人影が姿を現した。
「見ろよ、アーラ。団体様のお出ましだ。こういうのをフラグ回収って言うのかな?」
緊張を感じさせない、どこか面白がるような声と態度で兄様は言う。
……この状況でそういうこと言うのはさすがに不謹慎だと思います。