思わぬ遭遇
「はー……。すごい賑わいだな」
その通りの光景を見て、兄様が感心したように呟く。
セリアの屋敷を出てバスに乗ること30分弱。
停留所から少し歩いた大通り。
もうすぐ正午になるこの時間、通りを往来する人々で活気に溢れ、賑やかというよりは喧噪に包まれている。
ラルクスは都市の中央にそびえ立つ大時計塔を中心として、主に戦災被害の少ない古くからの街並みを残す旧区画と、瓦礫を撤去し再開発が進んでいる新区画とに分かれている。
私たちが今いる新区画のこの大通りは観光客向けの店が多く、服飾店や雑貨店、屋台などが軒を連ねていて、道行く人の数も多い。
兄様は物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回している。
そんな子供っぽい仕草が可愛くて、私は思わず笑みを漏らした。
「くふふ」
……ああ、本当に夢みたい。
ずっと望んでいた光景に胸がいっぱいになるのを感じる。
もう二度と会えないと思っていた最愛の人。
その人が今こうして目の前にいることが信じられないくらいに幸せで心が震える。
「兄様、手を離さないでくださいね」
そう言って私は兄様の手をぎゅっと握る。
私が兄様を抱きかかえるという案は結局却下された。
今朝もそうだったけど、どうやら兄様は子供扱いされることを嫌っているらしい。
いや、嫌っているというより恥ずかしがっているのだろうか。
殊更に子供扱いをするつもりはないのだけれど、兄様の見た目に引っ張られてついつい世話を焼いてしまうのは事実だ。
少し自重しなければいけない。
やり過ぎて嫌われてしまっては元も子もないのだ。
「わざわざ繋がなくてもはぐれたりしないって。ていうか離そうとしてもお前の方が離してくれないだろ、アーラ」
兄様は苦笑しながら私の手を振りほどこうとする。
私は逃すまいとさらに強く兄様の手を握りしめた。
……くふふ。
振りほどけないでしょう?
あの頃の私とは違うのですよ。
私がそう目で訴えかけると、兄様は観念したように小さく肩を竦めた。
「おや? 抵抗はもういいのですか?」
「しても無駄だろ。それに手ぐらい別にいいよ。……せっかくのデートだしな」
「デート……!」
兄様のその言葉に思わずドキリとする。
デート。
それは男女が二人きりで出掛けることを意味する言葉。
まさか兄様の方からその言葉が出すとは思わなかったから、私は熱くなった頬に手を当てて体を揺らしてしまう。
そんな私の反応をどう受け取ったのか、兄様はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「……なんですか、その顔?」
「いや、別に? それより買い出しするんだろ。早く行こうぜ」
そう言って兄様は私の手を引っ張る。
……むう。
なんだか誤魔化された気がする。
でも、まあいいでしょう。
兄様の方からデートと言ってくれたのです。
それだけで私は天にも昇るような気持ちになる。
ああ、なんて幸せ!
この幸せを噛みしめるように兄様の手を握り返した。
†
「……アーラ、お前これ完全に迷っただろ」
「……そ、そそ、そんなことない、です」
アーラの目が思いっきり泳いでいる。
ちょっと泣きそうなくらい声が震えていた。
さっきから一向に目的の店に辿り着く気配がない。
いや、まぁ大通りを外れたこの道はやたらめったら複雑だし仕方ないといえば仕方ないのだが……それにしてもこれは酷い。
さっきも3回ほど同じ道をぐるぐる回っていたし、完全にどこにいるのか分からなくなってるだろこれ。
「ち、地図! この地図が解りにくいのがいけないんです!」
そう言ってアーラは出かけに渡されたフェリシア作の地図をぶんぶんと振り回した。
受け取って見てみると、几帳面な字で店の名前や取り扱っている商品、行き方などがシンプルかつ丁寧に書かれている。
……この街の地理に不慣れな俺には少し難しいけど、この街の住人なら大体解るんじゃないか?
「………………」
「……うぅ。そんな目で見ないでください」
まぁ、『代償』によってアーラの色覚は一般に比べて極端に弱くなってしまった。
通りの景色もきっと同じように視えて、普通の人間より道に迷いやすいのはしょうがないんだけど。
「まぁ迷ったものは――」
「迷ってません!」
「……オーケー。お前は迷ってない。ちょっと道を間違えただけだよな、うん」
涙目でこちらを睨みつけてくるアーラに、俺はそっと目を逸らして溜息を漏らす。
見た目はクール美人に成長したのに意地っ張りなのは子供の頃のままか、こいつ。
「まぁいいや。とりあえず引き返して大通りの方に出よう。そこで誰かに道を訊けば何とかなるだろ」
「うぅ……はい」
アーラは渋々といった様子で頷いた。
このままアーラに任せていたら日が暮れても目的地に着かない気がするので、今度は俺が先導して歩くことにする。
細かい道順は分からないけど、おおよその方角は把握してるし大丈夫だろ。
アーラの手を引き、俺は来た道を引き返そうと踵を返す。
その時だった―――
「……ん?」
不意にアーラと繋いでいる方とは逆の手を引っ張られる感覚がした。
振り返ってみると、そこには俺の服の袖を小さく掴む少女の姿があった。
歳は今の俺より少し下……8、9歳くらいだろうか。
肩口で切り揃えられたふわふわの金髪。
可愛らしい顔立ちなのに袖を掴むその力は存外に強く、俺が立ち止まっても離してくれる気配はない。
「……小娘。誰の許可を得てその人に触れている?」
突然現れた少女に俺は戸惑ったが、アーラの方はそうではなかった。
地を這うような低い声で問いかけるアーラの目には明確な敵意が宿っている。
……お前、こんな小さな子にそこまで敵意むき出しにするとか沸点低すぎだろ。
しかし、少女はアーラの態度に怯んだ様子もなく、じっと俺を見つめていた。
「俺たちに何か用かな? ひょっとして君も迷子か?」
怯えさせないように、努めて穏やかな声でそう問いかける。
しかし、少女はアーラと同じで俺の問いには答えない。
代わりにまるで心の奥底を覗き込むようにじっとこちらを見てくる。
……なんだか胸がざわざわして落ち着かないな。
一体なんなんだ?
そんな風に思っていると、ふと少女の手が俺の頰に触れる。
その瞬間、視界が暗転した―――
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それは10年前、俺が最期に見た光景。
―――厚い雲が空を覆っていた。
深くて冷たい森の奥。
木々は折れ、無残に抉られた大地が、そこで起きた戦いの激しさを物語っている。
戦いの爪痕残るその森を、深々と舞うように降りしきる淡雪が覆い隠していく。
生きとし生けるもの全てを染め上げる白の花弁。
目が眩まんばかりに輝くその世界に、傷つき倒れ伏す自分と、泣きながら俺に縋りつく紅い髪の少女がいた。
まだ年端も行かぬ小さな身体。
俺を守ろうと必死で戦って、その結果世界への熱と色彩を失ってしまった女の子。
……そうまでして俺を守ってくれる必要なんてなかった。
だからせめて、これから先の人生は争いのない穏やかな世界で生きて欲しかった。
そんな俺の思いなど露知らず、少女は泣きながら俺に縋りつく。
置いていかないで、と何度も繰り返しながら―――
*****************************
「―――兄様ッ!」
名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなって辺りを見回す。
そこはついさっきまでいた大通りからやや外れた裏道。
繋いでいたアーラの手は俺の腰にがっしり回されていて、今俺は彼女に抱きかかえられている。
アーラは俺の意識が戻ったことを確認すると安心したようにほっと息を吐く。
それから、敵意を通り越してもはや殺意を抱いた視線を前方に叩きつけた。
「貴様ッ……! 今この人に何をしたッッ!!」
アーラの怒号が轟く。
あまりの剣幕に少女の肩が一瞬竦み上がった。
けれど、それでも少女は相変わらず感情の読めない瞳で俺たちを見据えている。
一体なんだったんだ、あのビジョンは?
何故俺は突然あの時のことを思い出したのか……。
まるで自分がにあの子に何かされたみたいじゃないか。
いや、実際そうなのだろう。
この少女が何かしたからこそ、俺はあの光景を白昼夢みたいに見ることに―――。
「お前……」
「―――スピカッ! 何をしているのですか!?」
そんな俺の思考を遮るように澄んだ……けれど張り詰めた声が耳朶を打った。
声がした方を見ると、黒い修道服を着た女がこちらに駆け寄ってくるのが見える。
ウェーブがかったライトグレーの髪をゆるく括った妙齢の女。
胸に提げた聖天教のシンボルである剣十字。
修道服には所々汚れが目立ち、顔から焦燥が滲んでいる。
どうやら相当急いで来たらしい。
目が不自由なのか、その女は両目を覆うように眼帯をつけていた。
顔の上半分が見えないからはっきりとは分からないが何となく美人な気がする。
おまけに修道服では隠し切れないぐらいにバインバインだ。
うむ。実にけしからん。
ぜひベッドの上でお仕置きさせてほしい。
……というか、ん? この女どこかで見たことあるような……?
「……シスター」
俺が記憶を探っていると、いつの間にか眼帯の女は少女と俺たちの間に割って入っていた。
スピカと呼ばれた少女は、女の方を向いて呟く。
どうやら兄様女がこの少女の保護者らしい。
女は少女を守るように背後に庇い俺たちに相対する。
「……申し訳ありませんでした。何があったのか分かりませんが、どうやらこの子が粗相をしたようで……」
女は俺たちに頭を下げると、謝罪の言葉を口にした。
「ふざけるな! 何が粗相だ……ッ! そんな言葉で片付けられてたまるか! 貴様、そのガキが何なのか知っているな!? この人は今そのガキにッ……」
「アーラ、いい」
激昂するアーラの言葉を遮って、落ち着くようにポンポンと俺を抱えている手を叩く。
正直、まだ状況を把握しきれていないし、気になる点はあるが……多分彼女たちに敵意はない。
それなら、ここで大事にすることもないだろう。
「俺は平気だ。身体にも異常はない。だからいったん落ち着け、アーラ」
「でも……ッ」
「――アーラ」
激昂するアーラを宥めるためにもう一度名前を呼ぶ。
アーラは納得してなさそうだったが、それでも悔し気に唇を噛んで黙り込んだ。
それを確認して、俺は改めて眼帯女の方に向き直る。
「さて……シスター? 貴女がその子の保護者ですか?」
俺の問いかけに、眼帯女は頷く。
「……ええ。私はアンジェラ。見ての通りこの街の教会の修道女をしています」
「そうですか。俺はソラ。こっちはアウローラです」
「……ふんッ!」
俺が軽く紹介すると、アーラは不機嫌そうにそっぽを向いた。
いや、だからお前……そんな態度だと話が進まんだろうに。
「そちらの女性……エヴァーフレイム卿のことは存じ上げております。聖騎士の存在を知らぬ者はこの街におりませんから。それでその、」
「あー、身構えなくて大丈夫ですよ。騒ぎを大きくする気もないし。ちなみにその子に会ったのはついさっきです。道に迷ってて大通りに戻ろうとした時にその子が俺の服を掴んできたんですよ」
「……そうでしたか。それはご迷惑をおかけしました。ですが、エヴァーフレイム卿はあまり納得がいってないようですが……」
「――当たり前だ。出会い頭に何かしてくるような連中にどうして心を許すことができる。本来なら斬り殺されても文句は言えんぞ」
アーラはいまだ警戒を解いていない。
実害も無かったし俺としてはそんなに気にしてないんだが……まぁ仕方ないか。
「……それについては真摯に謝罪を。詳しい事情は話せませんが、その少年が受けたのは少なくとも肉体に後遺症が残る類のものではありません。この子に罪がないとは言いませんが、咎を受けるべきなのはこの子から目を離した私です。どうか寛大なお心でご容赦を」
そう言ってシスターは深々と頭を下げる。
どうやらこのシスター、悪い人間ではなさそうだ。
スピカという女の子にも特に悪意や敵意を感じなかったし。
「だから騒ぎを大きくする気はないって。そっちも訳ありみたいだし、これ以上は何も聞きませんよ。それよりお詫びというなら少し道を教えて欲しいんですけど。大通りへの道って『こっちの道』で合ってますか?」
「いえ、それでは逆方向に行ってしまいます。大通りへ行きたいのであればそこの道を真っ直ぐです」
そう言ってシスターは大通りへの道を指差す。
なるほど。
今俺はわざと逆方向を差したのに、彼女は迷うことなく間違いを指摘した。
俺たちと女の子の間に割って入った時といい今といい、眼帯をつけているにも関わらずこの女は周囲の状況を把握できている。
ただの修道女、なんてことはない。
間違いなく彼女には何かしらの背景がある……が、まぁそれは今はいい。
これ以上、彼女たちの事情に深入りする必要は今のところないし。
「分かりました。ありがとうございます。それじゃ俺たちはこれで……」
そう言って俺が踵を返すと、「まって」と小さな声がかけられた。
振り返るとスピカという女の子が相変わらずぼんやりとした表情で俺を見ている。
……まだ何か用があるのだろうか?
「……えっと、どうかした?」
「………」
スピカは無言でじっと俺の目を見つめてくる。
……なんだろう。
何か言いたいことがあるのは分かるけど、それを口に出せないでいるみたいな?
俺はスピカが話し始めるまでじっと待つ。
アーラもシスターも黙って彼女の言葉を待っている。
やがて、スピカはゆっくりと口を開いた。
「……さむくなったら、もどる。そっちはきっと、さむいから」
スピカはそう言うと、小さな手でシスターの裾を掴んだ。
そんなスピカに引っ張られながら、シスターはこちらに目礼をしてそのまま来た道を戻っていった。
「……」
二人の姿が見えなくなってから、アーラが声をかけてくる。
「……今の、どういう意味だったんですか?」
「さぁ、なんだったんだろうな? 俺にもよく解らなかった」
なんとなしにアーラの頭にポンと手を置いて撫でてやる。
相変わらずサラサラで触り心地が良い。
アーラは気持ちよさそうに目を細めていたけど、やがて心配そうにこちらを見つめてくる。
「あの小娘、恐らく『異能者』です。このまま放置しておいて良いのですか?」
「だろうな。まぁ珍しくはあるけど、罪を犯したわけじゃないし別に目くじら立てることじゃないだろ?」
異能者。
生まれつき特異な能力を宿している存在の総称で、この国では悪魔の末裔と迫害されてきた者たちだ。
しかし、疎まれ怖れられたその力も人魔大戦で多くの戦果をあげて以降は世界的にその存在を容認されている。
中にはそれを利用して犯罪行為に手を染める輩もいるから一概に良いとは言えないけど。
まぁ、あのスピカという少女からはそんな雰囲気を感じなかったけどな。
「結局あの小娘に何をされたのですか? 身体に異常はなくとも気分が悪かったりは……」
「平気だよ。ちょっと昔の記憶のビジョンを視せられただけだ。あのシスターの言った通り後遺症が残るほどのものじゃない。ちょっと頭がぼーっとするくらいだ」
「昔……ですか? それは一体いつの?」
「……まあ、何というか。10年前の、お前と別れた場面だな」
正直にそう言うと、アーラはたちまち怒りに表情を歪ませる。
「あの小娘ッ……! よりにもよってそんな記憶を! やはり斬り捨てておけばよかった……!」
アーラはそう吐き捨てると、足早に二人が去った方へ歩いていく。
「待て待て、落ち着け、アーラ。異常はないと言っただろ。それに多分あの子も悪意があってやったわけじゃない。能力のコントロールがまだ上手くできてなかったんだろ。だからそう怒るな」
「けど……ッ」
「いいんだって。それより早く行こう。思ったより時間を食っちまった」
そう言って俺はアーラの手を引く。
アーラはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて諦めたようにため息を吐いて大人しく俺の手を握り返す。
……それにしてもあのスピカという女の子が言っていた『そっち』という言葉。
どう考えても物理的な方角ってわけじゃあないよな。
生き方とか、在り方とか。
あの子はそういったものを指し示す意味でその言葉を使ったのだろう。
『そっちはさむい』
不吉な予言じみたその言葉が、しこりのように心に残った。