何一つ後悔のない人生だったよ
静かな問いかけだった。
けれどそれ故に余計な雑味を取り除いた純粋な問いだった。
聖王としての人生への後悔。
それは俺自身何度も考えてきた問いでもあったが、
「あるわけないだろう。そんな後悔。あの最期に俺は納得している。かつての人生に後悔なんて何一つとして無かった」
その問いに、俺は即座に応える。
即答だった。
確かな自信と自負をもって、俺は断言する。
それを聞いて、セリアの表情は険しいものとなった。
「迷いなく言い切るんだな。……何故だ? 陛下の最期がどういったものだったかは聞いている。それまでの苦難と犠牲に見合う結末だったのか? 道半ばで。夢見た景色を見ることも出来なかったはずだ。なのにその生涯に後悔は無いと、どうして言い切れる?」
セリアが俺を見つめながら問いを重ねる。
俺の心の内を覗き込むように、じっと見据えて。
それから、ぽつりと。
零すように呟いた。
「……実を言うとな。私は後悔しているよ。私は……私たちは陛下に祈りとか願いとか、そういう余計な荷物を背負わせ過ぎたんじゃないかって。幼かった私はあの頃、世界で一番不幸なのは自分たちだと本気で思ってた。でも齢を重ねて、多少なりとも見聞を広めて解った。私たちのような境遇の者は世界では決して珍しくなかった。仮にあの時、陛下に切り捨てられたとしても、きっと世界には然したる影響はなかっただろう」
悲しいことだけど、とセリアは眼を閉じて、しばし押し黙る。
それは本人の言葉通り、過去の記憶を省みて、悔やむような仕草だった。
「貴方は切り棄てるべきだったんじゃないか。かつて貴方が背負っていた者たちをいくらかでも。そうすれば貴方は生きて、自身が救った世界をその眼で見ることが出来ていた。そうは思わないのか?」
「自分たちのことさえ切り棄ててもよかったと言うのか、君は」
「まさか。陛下がそのような決断を下していたのなら、私たちはどんな手を使ってでもその決断を覆すよう努めたはずだ。……ただ私は、陛下に生きて帰って来て欲しかった。救ってくれた陛下に対して感謝を伝えたかった。その相手がいなくなって宙ぶらりんの想いだけがしこりのように残った。これは、そういう感傷だ」
「……………」
セリアの問いに対し、俺は考える。
なるほど。
例えばあの時、アウローラのことを見捨てていれば生き残ることは確かに出来ただろう。
けど、そんな選択肢は思い浮かびもしなかった。
まあ、これは当時の俺が切羽詰まっていたからっていうのもあるが、結局どんなに考えたところでそんな選択は採らなかったと思う。
だって、そんなのは俺を信じて託してくれた想いを裏切ることに他ならないのだから。
「切り棄てられるものかよ。そんな簡単に棄てられるモノなら、はじめから背負っちゃいない。確かに、棄てたものはある。あの場所に辿り着くために切り棄てなければならないものがあって、俺はそれらを棄ててきた。それは他の誰でもない俺自身の罪だ。けど……だからこそ、この手に残ったものだけは何があろうと手放すわけにはいかなかったんだ」
「……その結果、己が死ぬことになっても後悔は無かったと?」
「そうだ。あの頃、戦っていた誰もが皆、何かを抱え、そして命を懸けていた。抱えたまま命を棄てろと命じたこともある。その俺が命を懸けないで、一体誰が納得できるって言うんだ?」
俺は自ら選んで戦場へ赴いた。
魔獣に閉ざされたこの世界を変えたかった。
大切な人たちに新しい景色を見せてやりたかった。
死んでいった者たちの想いに報いてやりたかった。
だから王になって、戦うことを選んだ。
その結果死んだとしても、その責任は俺自身にある。
アーラやセリアたちが背負うものでは断じてない。
「なぜ迷いなく言い切れるのかと訊いたな、セリア。それは俺が、俺の人生を精一杯生き切ったという自負があるからだ。迷いが無いなんて当たり前だ。自分が選んだ生き方に疑問を持つような惰弱な王に、どうして世界を変えることが出来る?」
義務感だけが原動力だったら迷うこともあっただろうし、きっと最期には後悔もしただろう。
けど、カイラードはそうじゃなかった。
多くの人たちに支えられたし、背中を押してもらうこともあった。
でも、最初の一歩を踏み出したのは俺自身の意志だった。
己の心に従って、自分が信じる道を生きた。
もしかしたら、失ったものの方が大きくて、得られたものの少ない釣り合いの取れない人生だったのかもしれないけど。
それでも、
「良い人生だったよ。全霊で挑んで、戦って、駆け抜けた。最期を看取ってくれる者もいた。夢見た景色を見ることが出来なかったのは確かに残念だけど……それでも、良い人生だったよ」
だから、胸を張って逝くことができた。
悔いは無かった。満足だった。
「……………」
セリアはそんな俺の言葉を聞いて、しばし押し黙る。
それからソファの背もたれに背中を預け、深い溜め息をついた。
天井を見上げたまま、彼女は静かな口調で言う。
「良い人生だった、か。……参ったなぁ。最初は陛下の名を騙る愚か者の化けの皮を剥いでやるぐらいのつもりでいたんだが……」
セリアはそこで言葉を切り、再び俺を見る。
その顔にはどこか吹っ切れたような表情だった。
セリアは短く言うと、ソファからゆっくりと立ち上がる。
それから窓を開いて無言でバルコニーへと出ていく。
「……おい?」
訳も解らず、とりあえずセリアの後を追う。
「こちらへ」
吹く風は穏やかで、気持ちの良い朝の中。
セリアはバルコニーに設えられた柵の手前で手招きしてくる。
言われるがままセリアの隣まで行き、柵の向こうを見る。
そして、その光景に俺は立ち尽くした。
「―――――」
朝陽に照らされた海は、まるで宝石みたいにキラキラと輝いていた。
ラルクスの街並みは、その海と一体化するように広がっていた。
まるで一枚の風景画のような美しい光景に目を奪われる。
ただ美しいだけじゃない。
今は人が少ないけど、生活感がそこに確かにあって、生きている人間の存在を感じられた。
「ああ……」
全身が感動によって震えた。
知らない内に眼から涙がボロボロと零れ落ちる。
自分が死んだ時でさえ涙なんて流さなかったというのに。
10年前の、この都市の荒廃を今でも鮮明に思い出せる。
前世で生きてきた中ではほんのわずかな時間。
けれど、かつての俺が最後に心穏やかに過ごした場所。
その都市が、今こうして見事に蘇っている。
――『ラルクスの奇跡』か。
なるほど。
確かに、傍から見たら奇跡のように映るだろう。
けれどこの光景は、この10年を必死で生きてきた住人たちの努力と意志の結晶だ。
セリアやラインハルト――この地に生きる全ての者たちが、死んでいった者たちの想いを継ぎ、尽力してくれたからこそできたものだ。
それが、嬉しい。
この光景は世界のほんの一部でしかないことは解っている。
でも、たとえほんの一部だったとしても、俺たちが戦った意味は確かに在ったのだと。
散っていった戦友たちの想いは後世へと受け継がれ、この景色を創り出したのだと。
それを知ることが出来たのが、ただ嬉しい。
「――この光景を、誰よりも貴方にこそ見て頂きたかった」
セリアは視線を遠くの空へ向けたまま、口を開く。
彼女の横顔へと視線を向けた。
セリアは空を真っ直ぐ見詰めている。
その瞳には、微かに涙が浮かんでいた。
それからセリアは視線を下ろし、俺を見る。
「人魔大戦を終わらせ、この世界を救った偉大なる英雄。『聖王』カイラード=ロア=エイドラム=ヴァン=アルカディア様。ずっと、貴方にお礼を言いたかった」
セリアは俺の前に跪く。
そして恭しく俺の右手を取り、額を押し当てる。
それは忠誠の証。
臣下が王へと捧げる、最大級の感謝と敬意を伝える『礼』だった。
「御身のおかげで我らは救われた。御身は確かに我らとの約束を果たしてくれた。御身が道を切り拓いてくれたおかげで、我らは今をこうして生きることが出来ているのです。心より感謝申し上げます、我らの王。父ラインハルトの代わりに。そして何よりこの世界に生きる一人の人間として。私たちに生きる明日を与えてくれたことを」
セリアは目を閉じて言葉を紡ぐ。
そこにはきっと万感の想いが籠められていた。
俺はセリアの言葉を静かに聞き届ける。
一言一句を聞き逃さず、心に刻みつけるように。
「……こちらこそ礼を言わせてくれ。セリア=クルス=アークレイ」
握られた逆の左手で涙を拭う。
彼女の想いに真っ直ぐ向き合うために。
「お前たちこそ、よくぞ約束を果たしてくれた。よくぞこの光景を生み出してくれた。この感動を、俺は決して忘れることはないだろう。この景色はお前たちが戦い、勝ち取った結果だ。この未来へ辿り着くための道の礎の一つになれたことを誇りに思う」
セリアが顔を上げて俺を見る。
その綺麗な瞳からは涙が堪えきれずに零れていた。
けれど彼女は柔らかく微笑んでいた。
そして、深々と頭を下げる。
俺はそんな彼女の手を取ったまま願う。
共に戦い散っていったかつての仲間たちが、このような光景をどこかで見ていることを。
彼らの魂が安らぎに包まれていることを。
空を見上げる。
澄み渡る青空がどこまでも広がっている。
その晴れやかで清々しい光景に俺は笑った。
10年という時を隔てた再会は、こうして幕を閉じたのだった。