愛が重すぎる
「………………」
「………………」
紅い瞳がじっと俺を見つめてくる。
無言の圧力にのどが渇いてごくりと無意識につばを飲み込んでいた。
視線を落とした先にはヤンチャな俺の右手があり、その手はしっかりとアーラに掴まれている。
あれ?
もしかしなくとも怒ってる?
「や、やあやあアーラ。昨日はよく眠れたか? 俺か? 俺の方はおかげさまでぐっすりだったよ。ところでここはどこなのかな? なんだかやたら豪勢な部屋だけど、ひょっとしてここはアークレイ家の屋敷かな? だとしたらあんまりゆっくりしてるのも失礼だし、そろそろ起きないといけないよな。というわけでこの手を放してくれないかな?」
「………………」
アーラは何も言ってくれない。
ただ無言で俺のことを睨み続ける。
「あの……アーラさん?」
「兄様。一体何をしているのですか?」
目と鼻の先にいるアーラがさっきと同じ言葉を繰り返す。
その声にはじとーっと湿った感情が込められていて、思わず身震いしてしまう。
「えーと、朝の挨拶?」
「……ふぅん?」
心なしか視線のジト度が増した気がする。
はい、我ながらあまりにも頭の悪い回答でした。
アーラは泳ぎまくる俺の目をたっぷりと観察した後、目を細めてふっと笑う。
「くふふ。なるほどそうですか。兄様のいた世界の挨拶は随分と刺激的なのですね。でも、お忘れかもしれませんがこの国での朝の挨拶は『おはよう』なんですよ?」
「あ、ああ。そうだったねマイシスター。10年ぶりだったから兄ちゃんついつい忘れちゃってたよ。というわけで、おはようアーラ。気持ちの良い朝だね」
失敗失敗と笑いながら爽やかに言い切る。
嘘です。
実際は脂汗がダラダラ流れてきてて爽やかとは程遠いです。
「はい、おはようございます……それで、話は変わりますが、これはなぁに?」
アーラが掴んでいた俺の手首をギリギリと締め上げてくる。
「ご、誤解でありますっ、マム!」
「おや誤解ですか? はて、私は一体どんな誤解をしているのでしょうか?」
そう言った途端アーラが突然起き上がり、ぐるりと体勢を変える。
布団がめくれて冷たい朝の空気に、ひゃ、ってなった。
「うおっ!?」
予想外の動きに対応できず、俺はそのままマウントポジションを取られる。
目の前に広がる光景と体に圧し掛かる柔らかい感触に、俺の息子は勢いよく起立。
アーラが俺の愚息をそのままキャッチ。
それからギチリと手に力を込めた。
痛い痛い痛いっ!
「ご、誤解……なんだっ……!!」
「ええ。ですから誤解とはなんでしょう?」
「え、えーとっ、そう! あれだ! 俺はただアーラの成長を確認しようとしただけであって、決してエロ目的というわけではなくてだな……!」
「そうですか。ではどうして兄様のここはこんなにも起き上がっているのでしょうか? 口ではそう言いつつも、実際は私の身体に興奮していたのでは?」
「これは、いわゆる朝の生理現象というやつで……!」
彼女の少し硬い手の平が俺の息子を絶妙な力加減で刺激してくる!
超痛気持ちいい……!
「く、ふふ。くふふっ♪」
そんな俺の反応を見て、アーラは愉しそうに笑う。
頬が紅潮して艶めかしく息を荒げている。
こいつ、絶対ドSだ……っ!!
「ねぇ兄様。私は別に怒っているわけじゃないんですよ?」
そう言ってアーラが俺の息子から手を離すと、今度は俺の頬を撫であげる。
身体の上に圧し掛かる柔らかい肌と熱を持った吐息にぞくりと背筋が粟立った。
抵抗しようにも俺たちの体格は10年前と逆転していてビクリとも動かない。
「むしろ嬉しいんです。どんな形であれ、兄様が私に夢中になってくれるのは。今後ともぜひ私だけを見てください。他のことなんか目に入らないくらい」
アーラの指がゆっくりと俺の身体を滑っていく。
この身体にできた無数の傷跡をなぞっていくように。
そしてアーラの指が俺の胸元で止まる。
そこには俺がこの世界へ戻る原因――死因となった胸全体に広がるひと際大きな傷跡があった。
それまでの雰囲気とは一転してアーラは悲しそうに言う。
「こんなにも傷だらけになって……。きっと、兄様はあちらの世界でも無茶をしてきたのでしょうね」
「……そうかもな」
アーラの言葉に肩をすくめて苦笑する。
まぁ、あっちにいた時はガムシャラであんまり自覚はなかったけど。
今改めて思うと相当無茶をしたよな。
それこそ10歳なんていう若さで早死にするくらいに。
「兄様、私は兄様の存在を喧伝するつもりはありません。成り行きでアークレイ家には知られることにはなりましたが、兄様にはこの街で普通の子供として穏やかに過ごしてほしい。もちろん兄様のことは私が護りますし、兄様が望むものはすべて用意しますから」
「……それ、俺にヒモになれって言ってる?」
「有り体に言えばそうです。理想を言えば私が外で稼いできますので、これから先兄様には家でずっと大人しくしていてほしいですね」
「いや、それはちょっと……」
引きこもりも追加とか。
ダメ人間街道まっしぐらじゃん。
「まぁ流石にこれは了承されるとは思っていませんよ。ですからせめてもの妥協案です。危ないことはしない。厄介ごとには首を突っ込まない。もちろん一人で戦場に立つなど言語道断です。約束してくれますね?」
「うーん……」
指を3本立てて言ってくるアーラに首をかしげる。
まぁ、それくらいなら。
「言っておきますが、これすら約束してくれないなら兄様を監禁することも私は辞さないですよ?」
「愛が重すぎる!」
「当然でしょう? そうでもしないと兄様はすぐに無茶をするんですから。本当なら今すぐ誰の目も届かない場所に閉じ込めたいくらいです」
「……………」
にこりと笑顔で言うアーラに押し黙ってしまう。
今のこいつなら本当にやりそうだからタチが悪い。
降参とばかりに俺は両手を頭の上にあげた。
「……わかったよ。お前の言う通り、しばらくは大人しくしてるさ」
「しばらく……ですか?」
「約束は出来ないよ。今のところ積極的に危ないことをする予定はないけど、必要となったら俺はたぶん動くよ。どうやら俺のバカは死んでも治らなかったみたいだから」
「…………」
「そう睨むなって。なるべくアーラが心配することはしないようにするから」
俺の返答はアーラの満足するものではなかったんだろう。
不満そうにこちらを見下ろしながら唇を尖らせている。
見た目クール系美女のこういう表情はキュンキュンくるね。
やがてこれ以上の譲歩はないと判断したのか、アーラが不承不承といった感じで溜息をつく。
「……わかりました。兄様の頑固さは折り紙付きですからね。今はそれで納得しておきましょう」
「悪いな」
ほっと安堵の息を吐いた俺の胸板にアーラがぽすんと額を乗せてくる。
「けど、本当に気を付けてくださいね。あんまりにも無茶するようなら縛り付けた後に部屋に閉じ込めますから」
「……それは怖いなぁ」
「嫌なら自重してください。私はもう兄様が傷つくところなんか見たくありません」
「はいはい。……あー、それにしても傷跡結構大きく残っちゃったなぁ。これじゃ女の子にあんまり裸は見せられな―――」
い、と言い終わる前に空気が変わった。
というか凍った。
アーラの両腕が俺の身体をがっしりと拘束し、無表情でじっと俺を見つめている。
あ、あれ? なんか地雷踏んだ?
「―――兄様、一体どこの女の前で裸になるつもりですか?」
冷たい声と共にアーラの眼差しが鋭くなる。
まるで獲物を狙う狼のような瞳。
その目に射抜かれた瞬間、ぞくっと悪寒が走った。
「いやいやいや!? 例えばの話だって! そもそもこの世界に戻ってきたばかりなのに、そんな相手いるわけないだろ!」
必死に弁解する俺にアーラは冷徹な笑みを浮かべた。その笑みが何よりも恐ろしい。
「兄様のことですから。昔から女の扱いには慣れていたでしょう。この世界に戻ったばかりでもすぐに誰かを引っかけると思っていまして」
「人聞きの悪いこと言うな! 俺は女性に対しては誠実であることを心掛けている」
「本当に誠実であるならば同時に複数の女に手を出さないと思いますが?」
うぐっ! それを言われると弱い。
確かにそういう事実はあったかもしれない。だがそれには色々と事情があったというか……!
「まぁ兄様が昔から女たらしなことは知っていましたし、今更それをどうこう言うつもりはありませんが。私がいるのにそこらの女に手を出されるというのは面白くないですね」
そう言ってアーラは俺の首に手を回し、そのまま唇を押し付けてきた。
唐突にキスされる。
「んむっ!?」
戸惑う間もなく舌が入ってくる。ぬるりとした感触に背筋がゾクゾクする。
舌先で歯列をなぞられ、甘噛みされると全身の力が抜けていくような感覚に陥った。
「ん……ちゅ……」
アーラは俺に覆いかぶさり、さらに深く舌を絡ませてくる。
彼女の唾液が俺の中に入ってくる。
それを拒むこともできず、そのまま飲み込んだ。
「ぷはっ……」
ちゅぽ、という音とともに顔が離れる。
銀色の糸が俺たちの間に橋を作った。
「くふふ、可愛い」
「お、おまっ……!」
文句を言おうにも酸素不足とアーラの匂いで頭がクラクラする。
そんな俺を見てアーラが妖しく微笑んだ。
「……ねぇ兄様、私はもう子供じゃないんですよ?」
俺の胸に手を置きながら、アーラは艶かしい吐息と共に言う。
その様は完全に大人の女のソレで、俺は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「だから、ね? いいですよね……?」
「い、いいって……」
何がいいのだろうか。
長いまつ毛に縁取られた紅い瞳が情欲に濡れる。
彼女の艶やかな髪が顔に広がる。
絹みたいな肌触りだった。
「待て。いったん待とう、アーラ。なんか知らんが俺が悪かった。俺もこういうのは嫌いじゃないが、俺たちの関係はどっちかっていうと兄妹みたいなもんだったろ? 倫理的なあれがあるだろ? だからいったん待って、落ち着いて話をしよう。お兄ちゃん、こういうデリケートな問題は話し合いが必要だと思うんだ」
「嫌です。待ちません」
アーラさん即答。
まずい。
目がマジだ。
セクハラはともかく、さすがに本番行為はNGだと俺のなけなしの倫理観も告げている。
このままだと朝から18禁的な領域が展開されてしまう!
「あ、アーラ? こういうのはもっとこう自分を大切にしてだね? こういうなし崩し的なのはどうかなーって……」
「往生際が悪いですねぇ。大丈夫。私も初めてですが、きっと天井の染みでも数えてる内に終わりますよ……♪」
それ男が言うやつぅぅ……ッ!!
アーラはうっとりした表情で再びゆっくりと顔を近づけてくる。
……ああ、父上母上。
どうかお許しください。
どうやら俺の貞操はかつて妹のような存在だったお姉さんに食べられるという、よく解らないシチュエーションの中で散り……
「貴女方は朝から一体何を始めようとしているのですか」
不意に声がかかり、アーラの動きがピタリと止まる。
声のした方へ振り返ると、そこには部屋の入口で呆れた顔で佇む美人なメイドの姿があった。
突如現れたメイドにアーラが不機嫌そうに食って掛かる。
「……何って、ナニだよ。ていうかお前、邪魔するのもいい加減にしろよ。普通この状況で部屋に入ってくるか?」
「何がナニですか。人の屋敷で厚かましい。そもそも頭のネジが地平線に吹っ飛んだ貴女に普通を語る資格はないと思いますが?」
「放っておけ。わざわざ小言を言いに来たのか? ここにお前の仕事はない。邪魔だからさっさと出ていけ」
「いえ、残念ながら仕事があるから来たのです。セリア様からそろそろいい時間だから起こしてこい、と」
「……ちっ。あの女。つくづくタイミングの悪い」
アーラが心底忌々し気な表情で舌打ちを一つ。
……この二人、ひょっとして仲が悪いのだろうか。
そんなことを考えていると、メイドさんがじっと俺の方を見つめてくる。
視線が合うと、メイドさんはスカートの裾を持ち上げ優雅にカーテシーをしてきた。
「お初にお目にかかります。私は――――」
「あれ? ひょっとしてフェリシアか?」
思わず彼女の言葉を遮って声をかけてしまった。
メイドさん――フェリシアが瞳を大きく見開き固まってしまう。
やっぱりそうだ。間違いない。
あの薄い青色の髪と瞳。
昔ラルクスで会った、いつもセリアの後ろを引っ付いていた気の小さそうな女の子だ。
そういえば彼女はアークレイ家の縁者だったか。
「……驚きました。正直、半信半疑でしたが……私のことが分かるのですか?」
「まあ仕事柄、人の顔と名前を覚えるのは得意だったからね。それより……君がいるってことは、やっぱりここはアークレイ家の屋敷なのか?」
ここがアークレイの屋敷ということは、セリアが招いてくれたのだろうか。
経緯はわからないけど、とりあえずラルクスには着いていたらしい。
フェリシアは俺の質問を受けて、ほんの少しだけ複雑そうな顔をした後、表情を消す。
そして、
「はい。ここはラルクスを治めるアークレイ家の屋敷です。異邦のお客様。我が主、セリア=クルス=アークレイ様がお呼びです。恐れ入りますが身支度を整えた後、ご足労願います」
ひどく緊張したような声で、そう言った。