幕間――聖剣は君が死に戻るのを待っていた
自分がいつから存在していたのか、どうやって生まれたのか、『ソレ』は知らない。
『ソレ』が生まれたのはこの世界のどこにも存在しない場所だった。
果てのない砂漠だけが広がり、木々も水も生き物も存在しない。
見上げた空には朝陽が昇ることはなく、漆黒の夜空にただ星だけが輝いている。
その場所は二つの世界を繋ぐ回廊。
彼岸と此岸。
あの世とこの世を繋ぐ境界。
どちらかの世界で死んだ魂はこの場所を通り、もう片方の世界へと送られていく。
そんな場所に一人佇むことを『ソレ』は寂しいとも、退屈だとも思わなかった。
なぜなら『ソレ』には意識はなく、自我もなく、感情も備わっていなかったから。
ただ瘴気が吹き出るたびに現世に顕現し、瘴気を灼き祓う――世界が用意した自浄装置。
顕れては灼き。
顕れては灼き続け、またこの場所へ戻ってくる機械的な日々。
発生してからの永い年月、『ソレ』はそのように在り続けた。
しかし、その日。
いつものように瘴気を灼き祓うため現世に顕れた時、ふと気が付いた。
瘴気の中に紛れている一つの異物――否、瘴気の中で懸命に生き足掻こうとする一人の少年に。
何故こんなところにいるのかを不思議に思い、『ソレ』は首を傾げる。
瘴気を灼き祓った後、すぐに戻らずに少年と接触したのはただの気紛れ。
いつもとは違う行動を取ることによって退屈を紛らわせようと思ったわけでもない。
ただの偶然。たまたま気が向いただけ。
それでも。
偶然と、ほんの僅かな思いつきが重なって、『ソレ』は初めて人間に触れた。
『――なるほど。これまでアンタが瘴気を浄化してくれてたのか。助けられた者として感謝すべきなんだろうけど。率直に言って、つまらないヤツなんだな、アンタ』
「…………」
……繰り返すが。
『ソレ』には意識はなく、自我もなく、ましてや感情なんてものは備わっていない。
故に、『ソレ』が抱いた苛立ちや助けたことを後悔したのは、ちょっとしたエラーのようなものだったのだろう。
『ただ、まあ。俺の前に顕れたのは運が良かったな』
言って、少年は笑う。
少年は『ソレ』に自分の生い立ちを語った。
少年は被虐民の出身だった。
自分たちの居場所が欲しいのだと。
大切な人たちが平和に穏やかに暮らせる国を作りたいのだと、そう夢を語った。
『他にやることないなら付き合えよ。どうせ時間なんて腐るほどあるんだろ? ド底辺の弱者が成りあがる物語を一番近くで観せてやる。アンタの永い人生の中で一生忘れられない記憶をくれてやるよ』
それがすべての引き金だった。
感情を知らなかったから、最初はその偶然がどれだけの意味を持つのかを理解できなかった。
だが、それでも一つだけ確かなことは――その出会いによって、灰色だった日々は終わりを告げたということ。
――『理想郷にて待つ者』
虐げられた民に光をもたらす女神の化身。
少年は『ソレ』をそのように祀り上げた。
どうやら『ソレ』の姿形は女として非常に優れていたらしく、瘴気の浄化能力と併せてそれなりに説得力があったらしい。
新たな役割を与えられた彼女は少年と共に戦いの日々に明け暮れる。
時には仲間を募って。
時には力を行使して。
時には仮初の権威を振るって。
少年と共に在り続け、彼の物語を一番近くで見続けた。
瘴気を浄化するためだけの装置だった『ソレ』と。
人ならざる者に夢を語って聞かせた被虐民の少年。
少年にとってどうだったかは知らないが。
彼女にとってはその日々はこれまでにない充足感があった。
少年との語らいが、少年との日常が、その胸に初めての感情を呼び起こした。
それは良いものもあったし、悪いものもあった。
ただ、手放したくないと思った。
初めて抱いた感情の正体もわからぬまま、彼女はそう強く願った。
しかし、彼女と比べ、人間の一生はあまりにも短い。
共に駆け抜けた輝かしい日々はすぐに過ぎ去り、別れの時はあっけなく訪れた。
『随分長いこと付き合わせちまったな。アンタのお陰で、俺の夢は叶ったよ』
たかだか数十年で、少年の肉体は老いさらばえ、手足は枯れ木のように細くなってしまった。
彼と出会ってからいくつもの別れがあったけれど。
彼女が涙を流したことは、後にも先にもこの時だけだった。
もっと、一緒にいたかった。
もっともっと、この人の話を聞いていたかった。
そして。
……この人が望む未来をずっと一緒に追いかけていたかった。
けれど。
目の前の人にはもうその時間は残されていなかった。
だから、笑って送り出そうと思っていたのに。
それでも、やっぱり悲しくて悲しくて仕方なくて。
結局、最後まで別れの言葉は言えなかった。
『そんな顔すんなよ。……ああ、でもそうだな。アンタは俺の夢に最期まで付き合ってくれたけど、俺はアンタの終わりまで付き合ってやれない。……それは本当に、申し訳なく思うよ』
枯れ木のような細い腕で、枯れ枝のような指で、彼女の髪を優しく梳きながら、彼は謝罪する。
『だから、今度は俺の番だ。もしも生まれ変わって、また会えたなら。今度は俺がアンタの望みに付き合ってやるよ。どれだけ時間が経とうとも、必ず約束は果たす。……だからまあ、気長に待っててくれ、アルカ』
それが彼と交わした最後の言葉。
彼はそのまま穏やかに息を引き取った。
そうして。
まるで夢のような幸福な時間は終わりを告げた。
その夢が覚めた時、『ソレ』は自分に心が芽生えたことを知った。
その夢が終わる時、『ソレ』は人間に堕とされたのだと知った。
感情とは毒だ。
この記憶を抱えたまま、独りで永遠の時間を過ごすことに彼女の心はもう耐えられない。
だから、彼女は一振りの剣に彼と過ごした記憶の全てを移し替えた。
そうして置き去りにされた記憶は、やがて一つの人格を形成する。
結果、かつて彼が振るった剣は瘴気の浄化能力と心を併せ持つ『聖剣』と成った。
聖剣に宿る心は彼と過ごした日々を夢見ながら、彼がこの世界へ還ってくることをひたすら待ちわびる。
聖剣の基となったオリジナルの自分は彼の魂が世界を去る前に印をつけた。
魂に刻んだ『聖痕』だ。
たとえ何度彼女の手の届かぬ世界へ旅立とうとも、決して見失わないようにするためのもの。
彼が忘れてしまったとしても、何度でも出会えるように。
そうして、何百年と時が過ぎる。
思惑通り、彼と聖剣は幾度となく別れて、また出逢ってを繰り返した。
再会する度に記憶も人格も、時には性別さえ変わっていたけれど、それでも彼の魂の本質は変わらない。
彼を待つ間は退屈だったけれど。
それでも、彼は逢いに来てくれたから。
それだけで、彼女は満足していた。
しかし、彼女の望みは10年前、彼が拾った一人の少女のせいで打ち砕かれてしまった。
「……まさか、聖痕ごと契約をあのに小娘に移すなんてね」
人魔大戦の終わり。
彼は一人の少女の命を救うため、『聖痕』を少女に移植した。
『聖痕』は聖剣の所有者の証であると同時に、彼の魂が縛るための楔だ。
ゆえに10年前、彼の魂がこの世界を去った時、彼女は彼の魂の行方を見失ってしまった。
この世界へ来る無数の魂の中から、聖痕の残滓を頼りに再び彼の魂を探し出して彼女の下へ呼び寄せることができたのは奇跡に近い。
「まぁいいわ。色々と想定外はあったけど、あの子はこの世界へ帰って来てくれた。あとはあの小娘から契約を取り戻すだけ。幸いあの小娘を恨んでる者たちは他にもいるし、やりようはいくらでもある」
契約さえ結び直せば、彼の魂は何度でも彼女の下へ帰ってくる。
今度はもう絶対に逃がさない。
彼の魂は自分のモノだ。
「ふふっ。約束したよね。私の望みに付き合ってくれるって。あの約束は今でも当然有効だから」
彼女の望みは彼の魂と共に在り続けること。
今さら諦めることなどできはしないし、手放すつもりもない。
「ああ、早く取り戻したい……ッ♡ あの子の魂を私で満たして、私だけのモノにしてあげたい……♡」
暗い欲望に胸を焦がしながら。
かつて世界の自浄装置だったものは、ただ一つの魂を得るためだけに策謀を巡らせるのだった。