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陽の当たるアパート  作者: なたね由
8/13

3-2

 それから結局、何もない。

 相変わらず俺の仕事はやたらと忙しかったりびっくりするほど暇になったり、波を繰り返している。時々貴倉と飲みに行ったり、その輪に何度か杵築さんが混ざったり、その程度の小さな変化があっただけだ。俺は雅樹と顔を合わせるのがやっぱり気まずくて、家を出る時は聞き耳を立て向かいの部屋からドアの音がしないか様子を伺っている。

 変わったことといえば、ライブが近付いた所為で青柳の帰りが遅くなる日が続いていることくらいだ。何を考えているのかは知らないが、遅くなります、帰れません、の報告の合間合間にスタジオらしい場所で撮影したメンバー全員の写真とか、深夜のファミレスでのひとコマみたいな写真が送られてくる。ファンからしたら貴重なオフショットなのではないか、と思いつつそれらをひとつひとつフォルダに分けて保存している。流出したらどうすんの、と聞けば一弥さんにそんな度胸もないでしょうと鼻で笑われた。まったくその通りではあるけれど、なんだか腹立たしかった。

 意味はなかったんだろう、と今になって思う。雅樹と玄関先で出くわしたあの日、青柳が雅樹に対してあんな態度を取ってあんなことをしたのか、本当の理由は分からない。青柳が言った通り、俺がまた雅樹に振られた時みたいに落ち込むんじゃないだろうかと心配していただけなのだろう。だから、そこにきっと意味はない。そこに意味を持たせてしまったのは俺の方だ。何事においても初めてというのは感慨深いものである。つまり、簡単に言うと、そういうことだ。

 こういう時はつくづく相談する相手のいない交友関係の少なさを痛感する。本当にこんな場合、どんな顔をしてあいつと顔を合わせればいいのか分からないのだ。だから青柳がライブ前で、忙しくして家を空ける日が増えたのは俺にとっては好都合だった。

 雅樹ならこの程度ささやかな挨拶だと済ませるだろう。貴倉ならなんて言うだろう、不躾だと青柳に腹を立てるだろうか。俺にとって、そのどちらも正解だとは思えない。なら、青柳なら一体どうするんだろう。本人に聞けばあっさり答えは出るだろうけれど、それができれば苦労もしない。

「本当に頑固なんだから」

 氷の入った飲み物をストローでぐるぐるとかき混ぜて音を立てるのは、美弥の悪い癖だ。行儀が悪いと咎めるとごめん、と謝るもののそれだってものの数十秒しかもたない。とはいえ器用なもので、氷や中の液体を飛ばしたりしないのだから、よほど音がうるさい時以外は注意しないことに決めている。お兄ちゃんは妹に甘すぎるのよ、と養母に呆れた顔をされることも何度かあった。

「頑固かなあ」

「一生涯一人の人だけ好きでいるつもり?」

「誰がそんなこと言ったよ」

 家の近所にサンドイッチの美味いカフェがある、と言ったら美弥は早々に食いついてきた。そもそも折角の休日をこの弁の立つ気の強い義妹と会うことになったのは、俺がうっかり青柳のバンドのライブに行くことを漏らしてしまったからだ。聞けば最近配信サイトで流行り始めた動画を見てすっかりハマッてしまったのだけれど、知った時には既にライブのチケットの販売は終わっていたのだそうだ。メッセージアプリの向こう側から散々お兄ちゃんがハマッてるなんて知らなかった、羨ましい、絶対に感想を聞かせろと言い募られたという話を何の気なしに青柳に話したところ、チケット一枚くらい用意できますよとあっさり言うものだから、俺の方が焦ってしまった。そんなことをしたら青柳がうちに住んでいることがバレるだろうと固辞したのだけれど、一弥さんの妹さんなら大丈夫でしょうからと次の日には青柳の名前の入ったチケットが冷蔵庫のドアにマグネットで貼り付けられていて、当人はメッセージアプリで妹さんによろしくと簡素な連絡を寄越してきた。特に便宜を図れる訳ではないですと青柳は言ったが、これ以上の便宜があるだろうか。これは逆に高くつきそうだと思いながら事の仔細を美弥に伝えたところ、本日の予定となったのだ。

 封筒に入れたチケット代と、実家の近所で評判の洋菓子屋の菓子折りを用意してきたところに、実の兄妹ほどの血の繋がりはないんだなあということを思い知る。それを素直に伝えると、氏より育ちですなどと生意気な口を利いた美弥は、自分の顔の半分はありそうなサンドイッチを豪快に頬張っている。

 よく晴れた日曜の午後、男が男を好きになったなんて、こんなオシャレなカフェでするような話ではないだろうと言ったのだけれど、こういうオシャレなカフェを好むその類の人はいくらでもいる、と美弥は涼しい顔をしていた。仮にそうだとしても、いや、もしそうならなおのことこんな場所でする話ではない。それなりに語尾を濁したり固有名詞を濁したりしてくれているからまあ、マシと言えばマシだけれども。

「真面目な話、良かったと思ってるんだよ。兄ちゃんが雅樹ちゃんに振られたこと」

「いいワケあるかよ」

「あるよ。不毛だもん、不毛。兄ちゃんの人生が頭皮なら今頃不毛の禿げ頭だよ。たかだか四半世紀生きただけのひよっこがさあ、生涯この人しかいないみたいな顔してさあ」

「その話し方やめろよ、お前母さんに散々怒られただろ。品が無いって」

「まあ、実際品はあんまり無いんだけど」

「せめて外面くらい取り繕えって話だろ」

「兄ちゃんみたいに?」

「どういう意味だよ」

 兄妹らしく、美弥は俺に対して遠慮はない。彼女からすれば俺が維持している線引きみたいなものが歯がゆいのも理解しているが、俺からすれば彼女の踏み込み方が時々不安になることがある。本当の兄妹というのは、本当にこんな関係なのだろうか。そんなことを言ったら美弥は、世間様のことは知らん、うちはうち、と一蹴してくれるのは分かっていても。

「知らない人と住み始めたって聞いて、びっくりしたんだよ。兄ちゃん、友達いたんだって」

「友達くらいいるし」

「分かってる。そういうことじゃなくてさ、なんか……こう、分かるでしょ」

「ああ、まあ、分かるけど」

 相手に深入りするかしないか、という話だろう。言いたいことは分かる。

 養父母が俺の嗜好や生き方に対して理解があったのは、俺の生い立ちのことがあるからだろう。よく覚えてはいないし家族も俺の耳には入れたがらなかったが、俺の両親が死んだ経緯にはいろいろとややこしい問題があったらしい。高校生になって詳しく調べてみようかと図書館で新聞や過去の雑誌を漁ったけれど、見出しも記事も扇情的すぎて嫌になってすぐにやめた。そりゃあそうだ、夫の不倫が原因で妻が無理心中を図ったその日に、愛人の方も入水して死んだなんて面白いネタ、週刊誌が放っておく訳がない。それならいっそ、昔のことなんて何も知らない振りをして久住家の長男として生きていくべきだ、と思った。養父母には、知らないこととはいえ迷惑を掛けてしまったと、事実を知ったその日のうちに謝罪したが、悪いのはお前の両親であってお前じゃないと叱ってくれたことには感謝しかない。

 そういった経緯があって、他人よりも身内に深入りするのが怖い反面、適度な関係を保てる相手に弱かった。そんな中で雅樹はまさに格好の標的だったのだ。血の繋がりもないけれど感覚的には家族に近い。仲良くはしているけれど家族ほど踏み入っても来ない。身勝手だとは分かっていても、雅樹がそういう位置にいてくれたからこそ、卑屈になりすぎずぐれもせず、美弥の言う通り外面くらいはまともな大人になったのだ。

 青柳のことを思う。結局、俺は何も変わらない。雅樹に依存していたものを、拒絶されたからと青柳に乗り換えただけじゃないのか。

「だからさ、絶対恋なんだって。そう思うと自分勝手も仕方ないことだと思うよ」

「お前ならそう言うと思った」

「流石兄だね、分かってるじゃん」

 恋なら身勝手も許されるのだという美弥は、本当に真っ当に育っているなとしみじみ思う。

 俺が過去の自分に起きた出来事を知った日。塾から帰宅して涙目で叱られる俺と涙目で叱る両親を見た美弥は、唐突に兄ちゃんのアイスちょうだい、と言った。反抗期の真っただ中で、俺はおろか両親とすらろくに口を利かなかった美弥がそんなことを言い出したものだから、俺は俺で普通に嫌だけど、と返してしまった。俺の返答を聞いた美弥はまったく普段通りに笑い、ケチ、と言って自室に戻って行った。ただいまが先じゃないのかとか、ケチも何も俺のアイスだとか、そういう考えを巡らせているうちに養母がお腹減っちゃった、と言い出してなし崩し的にこの問題は解決した。

 あれは美弥なりに気を使った結果だったのだろう。だからこそ、事情は分からないまでも切迫した空気の俺たちを目にして、反抗期の自分を曲げてまであんなことを言ったんだろう。当人は本当にアイスが食べたかっただけ、とは言っていたけれど、美弥は子供の頃から聡明で、真っ当で、シンプルだった。そんな風だから、俺が引きずり続ける初恋の相手が雅樹なのだと知っても、本当に当たり前のように「あの男はやめといた方がいいよ」と眉をひそめて真剣にアドバイスをくれたのだ。

 いつだったか、世の中のすべてのことに正解はない、と美弥は言っていた。本人からしたら恥ずかしすぎる黒歴史らしいけれど、だからこそどんなこともすぐには否定しないそのシンプルさを、俺は素直に素晴らしいと思っている。

「お前はいいね、シンプルで」

「何それ。馬鹿にしてる?」

「褒めてるよ」

「まあいいじゃない。一回、ゆっくり肯定的に考えてみなよ。頭ごなしに否定するんじゃなくてさ」

 美弥の言う通り、青柳のバンドのライブが終わったら、少し落ち着いて話をしてみようと思った。きちんと話をして、できれば落ち着くまでずっとうちに住んでいて欲しいと伝えよう。あれが故意でも事故でもどちらでもいい。問題なのは、あんなことで青柳が俺の前からいなくなってしまうことだけだ。そんなことを懸念してしまうくらいに、青柳と切れたくないとは思い始めている。

「ライブ、楽しみだね。あたしは友達と行くけど、兄ちゃんは?」

「一人だよ」

「そっか」

 美弥の前に置かれた皿からいつの間にかサンドイッチは消えていた。

 関係に名前なんて付けなくていいと、俺は思っている。美弥は恋だと言ったが、別にそうじゃなくたって構わない。ただ今、あの部屋で一人になることだけが怖かった。

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