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陽の当たるアパート  作者: なたね由
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2-2

 サンドイッチは確かに美味かった。けれどそれが、朝七時に起きて出掛けるほどの価値があるかと聞かれると首を傾げてしまう。それでも青柳は機嫌良くサンドイッチを頬張り、スティックシュガーを二本入れたカフェラテをちびちびすすっている。傍らには、さっき席に着く前何だかんだと理由をつけて俺に買わせた、食パンといくつかの菓子パンが入ったビニール袋が置かれていた。

「甘くないの、それ」

「ちょうどいいです。そっちは胃、痛くならないんですか」

「なりませんけど」

 パンを選んで買い、喫茶コーナーに入って注文を済ませたところで、店内はじわじわと混み始めたのを見て、早く来て良かったでしょうと青柳は得意げに笑った。

 サンドイッチを腹に収めてからはお互いに塔に話をすることもない。青柳は俺に一言断りを入れてからワイヤレスイヤホンをし、スマホの画面を見つめながらテーブルをとんとんと叩き始めている。何を見ているのか、とも聞けなくてボディバッグからスマホを取り出した。朝、家で画面を見せてもらった記憶を頼りにさっきのバンドの映像を探す。

「ああ、サリンジャーか」

 つぶやくと青柳がスマホから顔を上げた。耳からイヤホンを抜いてはい、と返事をする。声を掛けたつもりはなかったのだけれど。

「ごめん、邪魔した」

「いえ、大丈夫です。知ってるんですか?」

「何を?」

 サンドイッチは大騒ぎするほどの味ではなかったけれど、コーヒーは確かに値段に相応しい。難しいことなんて分からないけれど、普段飲んでいるインスタントに比べるとずっと香りが強くて、そしてずっと苦い。俺もラテか、せめてアメリカンにしておけば良かった。

「バンド名のことでしょう。知ってるんですか?」

「ああ、まあ。読んだことあるし」

「意外です。一弥さん、本なんか読むんですね」

「お前、めっちゃ失礼なこと言うな」

「すみません。……だって家にないじゃないですか、本」

「昔ね、昔」

 あれはいわゆる中二病というやつだったんだろう。生い立ちの所為で他人との距離感が分からなくて、一般的でない恋愛の所為で男同士の普通の付き合い方が分からなくて、中学高校時代はずっと図書室に逃げていた。そこでできた友達は俺とは理由こそ違え、俺と同じように人付き合いが苦手なタイプが多かったから、かなり気楽な関係を築けていたと思う。図書室の中で本を読み、なんとなく顔馴染みになって、好きそうな本の傾向が似ていれば何か勧め合ったりするだけの間柄。お陰で当時図書室で知り合った人間の名前はおろか、顔すらろくに覚えていない。会えば思い出すかもしれないけれど、お互い気づかなければそれまでという関係だ。

 そういう、なんとなく世の中を斜に見ていた連中にとって、件の作家は格好の獲物だったんだろう。例に漏れず自分もあの、中二病の代名詞みたいに語られる長編小説は何度か読んだ。何度か読んで、結局何が言いたかったのかも分からないのに、なんだかいい小説だな、なんて分かったような顔をしていた。その流れで同じ棚に並んでいた、青柳のバンド名である同じ作家の短編集も読んだのだけれど、やはり何が言いたかったのかは分からなかった。

「お前は読んだの?」

「一応。何が言いたいのかさっぱり分かりませんでしたけど」

「俺もそう思う」

「ですよね」

 バンドリーダーの奴が好きなんですよ、と青柳は言った。どれ、と聞くと身を乗り出して俺のスマホを覗き込み右端の男性を指出した。外見でウケるならエサにするというそのポリシー通り、いかにも最近の若い女性が好みそうなルックスをしている。青柳が草食系ならこのリーダーは肉食系だ、と言うと概ね正解です、と青柳がにこにこしている。

「この人、本とか読みそうな顔してないのに」

「読書家ですよ。っていうか、勉強家です。売れるならなんでも取り入れてやるって意気込みがすごいです」

「いいことじゃん」

「俺もそう思います」

 なんだかんだ言っても青柳は自分の属するバンドが好きなんだろう。褒めると本当に嬉しそうな顔をする。その態度がすごく自然で素直で、いい子だなあ、なんて年寄り臭い感想を抱いた。

 それから、空になった皿を前にそれぞれの頼んだ飲み物を少しずつ減らしながら、青柳から自分のバンドの話を聞かせてもらった。ほとんどのメンバーとは高校時代からの付き合いだということ。本当はボーカルをやれと言われたけれど目立つのが嫌で断り続けたこと。ベースは難しかったけれど、覚えるのは楽しかったこと。文化祭で初めてステージに立った時のこと。文化祭の後、自分を含めたメンバーがモテ始めてみんな喜んでいたのに、自分はそれが少しも嬉しくなかったこと。

「バンドってモテたくて始めるんだと思ってた」

「同じこと言いますね。偏見です。俺は、誘われて、不可抗力です」

「お前、流されやすそうな性格してるもんな」

「流れた方が楽だって思ってるだけですよ」

「ってことはアレか、モテるのが面倒ってことか。世の中の非モテに聞かれたら命がいくつあっても足りないぞ」

「そういうことじゃないです。本当に全然嬉しくなかったんですよ」

「だから、面倒だからってことじゃなく?」

「違います。嬉しくないだけです。その時は好きな人がいたので」

「意外」

「何がですか」

「恋愛とかに積極的なタイプじゃないと思ってた。前に言ってたさ、家を追い出されたカノジョ? にもさ、どうせ青柳君は何考えてるか分かんない! って言って追い出されたんだと思ってたし」

「半分正解です」

「どこがどう半分なんだよ」

「何考えてるか分からないし、俺のこと特別好きでもないだろ、って言われました」

「何が半分なんだよ、正解じゃん」

「いえ、半分です」

 マグカップから顔を上げると、青柳がやけに真剣な顔でこちらを見ている。ものすごくイケメンか、と言われると青柳は決してそういうタイプではない。でも物腰が柔らかく決して声を荒らげたりしないような安心感がある。仮に青柳の口から自分はモテるんです、と言われたとしてもムカつくなあ、とは思っても否定する気にはならないな、と思った。

「高校の時好きだったのは、今のバンドのリーダーやってるヤツです」

「ん?」

「俺のこと追い出した恋人も、男ですよ」

「え、ああ。ああ、そういうことか」

「やっぱり、そんなに驚かないんですね」

 マグカップに口を付け、青柳が残念そうな表情になった。おかわりする? と聞くとそうですねと穏やかに頷きながら俺の手からメニューを受け取る。まだ十時を過ぎたくらいだというのに店内は既にほぼ満席で、空の皿とカップを前に居座り続けるだけの面の皮は俺にはない。

「俺に驚く権利ないじゃん」

「権利くらいはあるでしょうよ」

「そうだけど、青柳だって知ってるだろ、俺のこと」

「知ってなきゃ住ませてくれなんて頼みませんよ」

「いや、その理屈は全然分からんけど」

 隅から隅までメニューを見たくせに、オーダーを取りに来た店員さんには同じものをください、などと言う。

 それはそうと、さっき青柳の口からとんでもないことを聞いた気がした。

「なあ、高校の時好きだったって」

「言いました。もちろん、本人にも伝えてます」

「マジか」

「マジです」

「それなのによくバンド続けてられるな」

「言ったでしょう。アイツは売れるんなら何でも取り入れるんです」

「それ、お前にコクられた話もネタにしてるってこと?」

「違います。多分、あのバンドにとって俺は欠かせない要素だってことだと思いますよ。まあ、もしかしたらいつか告白ネタも使うかもしれないですけど」

「……嫌じゃないの」

「役に立つなら、別にそれでいいです」

 運ばれたカフェラテに、青柳はやっぱりスティックシュガーを二本入れる。顔に似合わず甘党なことは今日初めて知った。確かに時間を共有し始めたのはつい最近だけれど、同じ家に住んでいるのに青柳はまだまだ知らないことで埋め尽くされている。

「これ飲んだら出ましょうか。……腹減りましたし」

「さっきパン食っただろ」

「一弥さん、あれだけで満腹になるんですか。そんな少食でしたっけ」

「いや、満腹ではないけど」

「このまま帰ります? 帰って昼飯作ったらちょうどいい時間になるんじゃないかなって。それともちょっと歩きますけど、美味いラーメン屋見つけたんで行きませんか?」

「ちょっと待て」

「はい」

 家にいる時はとにかく大人しく邪魔にならない男なのに、今日はやけに饒舌だ。

「お前、本当にそれでいいの」

「どっちでもいいですよ。帰った方が良いなら飯、作りますし」

「そうじゃなくて」

「いいんですよ」

 青柳は実に穏やか過ぎる、穏やか過ぎて逆に感情の乏しい柔らかい笑顔で頷いた。察しのいい人間ではあるから、きっと俺の言いたいことも理解したんだろう。その上で構わないのだ、と言ったのなら。

「悲しくならないか」

「時々は。でも、俺がこんなだって分かっても、俺が必要だって言ってくれるのは、嬉しかったですよ」

 ラーメンにしますか、家で炒飯にしますか、と青柳が言った。どっちも中華じゃん、と俺が答えるとそれならプロに任せようと快活に笑う。運ばれたばかりの飲み物をできるだけゆっくり飲んでからラーメン屋に向かえば、ちょうど昼時前に着けるだろうと言う青柳は、その感情を心の底から間違いないものだと受け止めているように見えた。

 利用されているだけじゃないか、とは言えなかった。今日そのバンドを知ったばかりの俺には分からない何かがあるんだろう。それでも、振られてもなお役に立てるのが嬉しいと言える青柳は、未練たらしく初恋を引きずる俺からしたら、達観を通り越して悟りを開いた僧侶か何かに見える。

「なんか、楽しいですね」

「何がだよ」

「俺こんなだから、コイバナってしたことなかったので」

「だろうなあ」

「だから羨ましかったんですよ、俺。あの日居酒屋で、一弥さんが楽しそうに友達と話してるの聞いちゃった時は」

「あれから気を付けてるんだぞ。あんな店でも人の話聞いてるヤツ、結構いるんだなって思って」

「聞いてたのが俺たちで良かったですね」

「まあ、それはそうだけどさ」

 苦いコーヒーに辟易して頼んだキウイのスムージーはヨーグルトの割合が多くて、この後ラーメン屋に行くのなら頼まなければと悔やんでいると、目の前の青柳もなんだか渋い顔をしている。どうした、と聞くとさっきよりコーヒーの味が濃いと言い出した。そういえば家でもコーヒーを飲んでいるところなんて見たことはない。

「なんでカフェラテなんて頼んだんだよ」

「コーヒーは飲めないけど、飲めるようになりたいなって思ったんですよ」

「それも、そいつの影響?」

「はあ、まあ、有り体に言えば」

「有り体に言わなくたってその通りだろ。この話、そいつにしてやれよ」

「何の話ですか?」

「コーヒーを飲めるようになりたくてカフェラテ頼んだけどやっぱり苦くて飲めなかったって話。多分、ウケるぞ。可愛いって」

「俺だけウケてもバンドがウケなきゃしょうがないんですけどね」

 まだ好きなのか、それとももう割り切っているのか、青柳の気持ちは分からないけれど、そのリーダーの話をする時は心なしか浮かれているようにも見える。そういう健気さを愛おしいと思う人間は多くいるだろうに、青柳はそういう人には興味を持たないのだろうか。

 持てる訳がないのは分かっている。自分に重ねるのもおかしな話だけれど、例えば自分の長所や褒められるべきポイントを誰かに好ましいと思われても、ありがたくもなんともない。そういう風に思われたいのは不特定多数の中にいる誰かにじゃない。

「一弥さん、それと交換してくれませんか」

「いいよ。あと、次頼むならカフェオレにしとけ」

「カフェオレとカフェラテって違うんですか。俺、カフェオレのかっこいい言い方がカフェラテだと思ってました」

「……その話もそいつにしてやれよ」

「分かりました」

 メモしておきます、とスマホの画面を見つめる青柳の健気さを、それでも俺はなんだか愛しいものだな、と思った。

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