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最近は、テレビやメディアで「ナインストーリーズ」の名前を聞くことも増えてきた。それがあのライブ以降のことなのは間違いないだろう。情報サイトを見るとラジオの出演なんかも増えているし、美弥の話によるとネットの番組なんかにも顔出しするような機会も増えているらしい。
だからこそ、衝撃だった。そんなバンドに属する人間が顔に傷をつけて帰ってきたのだ。しかも、なんだかしょぼくれた顔をして。申し訳程度の治療はしているようだけれど、病院には行ったのかと聞けば土曜日なので、としれっと答える。
仕方がないので午前十時を待って家から出るな、出たら叩き出すと青柳に言い含め近所のドラッグストアに走り、店員にいろいろ聞いて氷嚢やら痛み止めやらガーゼやら消毒液やら、しこたま買い込んで帰宅すると青柳は何故か俺の部屋で正座して待っていた。ヤギというより大型犬だ。
怪我人の手当てなんてしたことないから、スマートフォンとパソコンを開いてサイトやら動画やら探しながらなものだから、かなり手間取ってしまった。それでもどうにか傷口にガーゼを張り付けて、氷嚢を持たせて落ち着いたところで、青柳が小さな声ですみません、と言った。
「俺に謝られても困るけど、なんかさあ」
「びっくりさせたかと思って。あと、手当させてしまって。あの、お金」
「別にいいよ。今度俺が殴られたら使うから」
「殴られる予定があるんですか?」
「ねえよ」
しょぼくれた犬か叱られた子供みたいに、青柳は俯いてもう一度すみません、とつぶやく。本人にそのつもりはないのだろうけれど慰められ待ちみたいに見えて、つい伸ばした手が頭を撫でた。撫でられた当の本人は微動だにしない。コーヒーを飲むかと聞けば、口の中が痛いからいらないとのこと。怪我人相手ではあるがとりあえず遠慮する理由もないので、青柳には水、自分にはすっかり冷め切ったコーヒーを用意する。膝を崩せという言葉には流石に従った。
「何があったの?」
「話さないとダメですか」
「話さないなら、ドラッグストア代を請求する」
「払います」
「冗談も通じねえのかよ」
「すみません」
「あのさあ」
殴られた理由までは分からないが、なんとなく原因は理解できる気がする。どうせこの馬鹿正直さで相手の気分を害したのだろう。殴られたと決め付けるのがそもそもの間違いなのかも知れないが、なんとなくそれは間違っていないような気がした。
誰に、と聞くのが正しいか何で、と聞くのが正解か。少なくとも弱っているだろう相手を責め立てるのが良いことだとは思わないけれど、多少威圧してやらないとこいつは絶対に何も話そうとしないだろうし。
「理由は話してくんないワケ?」
「つまんないことです」
「つまんないことで? 顔がウリの一部のミュージシャンが? 顔を殴られてキズモノになったのがつまんないこと? お前、それでメンバーが納得できると思ってんの? 俺なんでこんなマネージャーみたいなこと言ってんの?」
「マネージャーにはまだバレてないですけど多分、怒られると思いますが……メンバーには、大丈夫だと思います」
「なんでだよ。お前の顔がウリだつったの、リーダーなんだろ? そんなのバレたら」
「……彼も、反省してると思うので」
「は?」
「だからその、殴ったのが、その当人、というか」
「……マジかよ」
「マジです」
質の悪い冗談かと思った。あれだけバンドが売れるためなら顔面の良さでも使う、と豪語していたらしいギターの男が、一体何がどうなってその売り物の顔を殴るような事態になるんだろう。恐らく青柳の態度の所為だとは思うのだけれど、普段配信されている動画の様子や青柳から聞く話からは、仲違いするところなどとても想像ができない。
「え、なんで?」
「話さないとダメですか?」
「ダメって言ってるだろ」
「えと、はい。あの、口、痛いんですが」
「知るか」
はあ、と青柳が大きな溜息を吐いた。本当に話したくないのだろう。俺も何を意固地になっているのかは分からないけれど、普段よりもずっと眠そうな青柳を素直に寝かしてやらないのは、ただの意地なんだとは思う。
俺は腹を立てているのだろう。言葉を濁してなかなか理由を話さない青柳と、それ以上に青柳を殴った相手に。
「俺が、悪いんで」
「そういうのは聞いてない。何がどうなったら、商業主義のリーダーが商品を殴ったのかって話を聞いている」
「あんまり悪し様に言わないで下さいよ。普通に俺が悪いんで」
「だからさ」
「昨日は、スタジオで練習があって、最近はちゃんとスタジオ借りて練習できるくらいにはなったんですよ」
「凄いじゃん。で?」
「分かってますから、そんな睨まないでください」
青柳は、本当に心底嫌そうに、ぽつりぽつりと語り出した。叱られた子供が、悪戯をした理由を渋々説明するみたいだ。
発端はスタジオでの練習後の片付け中に起きたらしい。終わったのは空が薄明るくなる頃で、このまま帰るか飯でも食って帰るか、みたいな流れになっていたのだそうだ。そんな雑談の中でなんとなく、キーボード担当の彼女の話になったのだそうだ。確か、今日は彼女が起きて待っていてくれてるから、とか何とか。
「それで、一弥さんのことを聞かれたんです」
徹夜だし、練習疲れもあったし、昔馴染みの気安さもあって、ついえげつない軽口も飛び出す関係なのだそうだ。だからメンバーは全員青柳の片想いのことも知っているし、それが話題に上ることさえもある。そんな傷口に塩を塗り込んでさらに唐辛子を塗り付けるような真似をされたら、俺だったら絶対に許せないと思う。そこは、彼らなりの関係性に所以するものなら、とやかく言う必要はないのだろうけれど。
だから、近況を話したのだという。この間の青柳玄関待機事件も含めて。それを聞いたリーダーは、(青柳曰く)ニヤニヤしながら青柳に言ったのだそうだ。
「なんでか分からないんですけど、その時めちゃくちゃカッとしてしまって、つい」
「何言われたんだよ」
「……その話、今度の配信でネタにしていいか、って」
それにカッとしてしまって、青柳はリーダーの胸倉を掴んでしまったのだ。カッとしたからって、普段絶対そういう行動に出ることは絶対ないのに、と青柳は言い訳みたいな口振りである。
「んで? 掴みかかってどうなったの?」
「一弥さん、マジで俺たちのライブ観てくれました?」
「行きましたし、観ましたけど?」
「アイツ相手に勝てっこないですよ」
有り体に言えば返り討ちにあったのだ。振り払おうとしたのか突然掴みかかられて向こうも腹が立ったのか、振るった拳が綺麗に顔にヒットしてしまってこの有様なのだという。
「でも、今までそうやっていろいろネタにしてきたんだろ。なんで、今になって」
「嫌だったんです」
「まあ、そうだよな。だからキレたんだろ。で、その理由は? 言いたくない?」
「俺には、なんで一弥さんがそんな聞きたがるのかが分からないんですけど」
最初に会った時よりずっと、青柳の表情が分かるようになってきたのは、それだけ俺が青柳を見ていたからなんだろう。見ると、青柳はなんだか泣きそうな目をしている。頬に当てていた氷嚢はいつの間にか膝の上に置かれて、青柳のジーパンに濃い染みを作り始めていた。
不思議なもので自分の気持ちを自覚すると、その表情さえなんとなく愛しいと思ってしまう。不貞腐れた口調も泣きそうな顔も、頭を撫でる手に心持ち、身体を預けるような仕草も。
向こうからしたら青天の霹靂みたいなものだったんだろう。自分に向けられた恋心さえ笑い話のネタにするような人間だと認識している。そしてその価値観を、青柳が今まで甘んじるでもなくただ素直に受け止めて受け入れてきたことも知っている。今回のことだって、青柳が普通に嫌そうな顔でも見せて、やめろよ、と一言告げれば分かったよと爽やかな笑顔で承諾し、それ以上の深入りはしないタイプなんだろう。デリカシーは無さそうだが、後腐れのないさっぱりした人間であるように見えた。少なくとも、動画やラジオや、ライブで見た限りでは。
飼い犬に手を噛まれた、というのは正当な評価ではないだろうが、それが一番しっくりくるように思えた。
「一弥さん?」
「ああ、ごめん」
「考え事するなら、俺部屋に帰りますけど」
「ごめんって」
気が付くと俯き加減だった青柳が、やけに真剣な顔をしてこちらを見ていた。適当に誤魔化して煙に巻きたいのか、ただ本当に答えが欲しいのか、と逡巡した脳の隙間に美弥の声が響く。
どう転んだって自分の勝手でしょう。
まったく、我が義妹はいいことを言う。
「気になるだろ、大事な顔殴られて帰ってきて、理由聞いたらそんな話だって」
「責任感じてるってことですか? メンバーに勝手に色々しゃべっちゃったのはすみません。でも」
「俺、ちょっと嬉しかったんだよ」
この数ヶ月で二度も失恋を体験するかもしれないという懸念はあった。たった数ヶ月で慣れ切った青柳のいる生活の快適さを手放さなければならない可能性への不安もあった。それだけでも十分に俺の勝手なのに、今更やりたいようにやったからって、何が悪いんだ。これは完全に開き直りだけれど、開き直らないと言えそうにないことでもある。何もわざわざこんな爽やかな土曜の朝に、しかも殴り合いで怪我して帰ってきたような人間に、とは思わないでもないけれど。
本当に嬉しかったのだ。自分がフラれたことさえネタにしても構わないと言っていた青柳が、俺をネタにしていいかと言われたことに憤るなんて。そんな話を聞いてしまったら、もしかして、というささやかな期待を抱いてしまっても仕方がないと思う。
「お前が、そんな風に俺のこと庇ってくれたの。嬉しいなと思った」
「そうなんですか?」
「俺やっぱ、お前のこと好きだな」
声も手も震えていたかもしれない。それでも平静を装ったのは、万が一に備えた俺の卑怯な逃げ道の確保だ。軽く流されたり気まずい顔をされたら、なるほど友人としてということか、と落としどころをつけるための。
「そうですか」
だから青柳がそう答えた時、引き続きできるだけ平気な振りをして頭に撫でる手を離すつもりだったのに、思ったよりも強い力で手首を掴まれて思わず目を合わせた。
「青柳?」
手のひらが青柳の頬に触れる。俺の手の甲に重ねられた青柳の手が妙に温かい。目を細めた青柳が、柔らかく穏やかに笑った。
今度は台本通りじゃない、と思った。確かにそこには必然性があったし、そうなることは間違いないとも思った。でも、あの夜のように何らかの力に強いられたような不自然な自然さではなかったし、だからこそ、無理に取り繕う必要もない。かろん、と氷嚢の中で溶けた氷が青柳の膝の上で音を立てる。
「それは、俺も嬉しいですね。殴られた甲斐がありました」
「馬鹿言え」
唇が触れる瞬間、青柳が小さなうめき声を漏らした。痛んだのは腫れた頬か切れた唇か、顔を離すと情けないですね、と悔しそうにつぶやく。その様子が愉快で昼はラーメンでも食いに行くか、と言うと流石に怒りますよ、とますます不貞腐れる。軽口のやり取りは変わらないのに、呼吸みたいな自然さで交わすキスや体に添えられる手の親密さに、ああ、こういうことか、と意味もなく納得してしまった。
「そういえば、菓子折りとか持っていく? 騒がせてすみません、って」
「俺が謝ったから別に要りませんよ。うらみっこなしです」
「それならいいけど」
「一弥さんは気にしなくていいんです」
今日は何をしますか、と穏やかな声で青柳が言った。今日も、明日も、こいつはうちから居なくならない。そう思ったら一気に力が抜けて、ベッドの縁に凭れかかってしまった。一人暮らしには十分過ぎるけれど決して広いとは言えないこの部屋は静かで、少しずつ息が楽になっていくのが分かる。
「やっぱ俺、ラーメン食いたいな」
「だったら宅配にしてください。俺、違うもの頼みますから」
「何なら食えんの?」
「知りません」
今日はこの間やりそびれたおすすめのホラゲーをお前にやらせてやる、と言うとあからさまに嫌な顔をした青柳が分かりました、と頷いた。ゆっくりと顔に影が落ちて視線が重なる。遠慮のない触れ方をされているのが心地良くて小さなあくびを漏らした俺に、青柳が苦笑いする。
「少し眠りますか」
「うん」
「俺も寝てもいいですか」
「ここでか?」
「ダメですか?」
ベッドから布団を床に引きずり下ろす。不思議そうな顔をする青柳を尻目に床に落とした布団に転がり、一緒に落ちてきた掛布団を被り隣を叩くと、今までに見たことないような緩んだ顔で笑った青柳が隣に潜り込んできた。
こんな風に誰かと眠るのは初めてだというのに、体温も、においも、空気も、初めてとは思えないほどしっくりと馴染んで、一気に眠気が襲ってくる。
おやすみなさい、と青柳の声がした。二人で並んで仰向けになって、指先だけが触れ合ったま瞼を閉じる。
窓は締め切ったままなのに、部屋の中には初夏のにおいが満ちていた。カーテンの隙間から差し込む陽の光が照らす部屋の中で。




