4-1
青柳のバンド──ナインストーリーズという──のライブの後、俺は確かに雅樹への片想いにケリをつけたし、青柳への気持ちについてもきちんと向き合った。そのつもりでいた。
「久住さん、今週帰り遅いですけど、大丈夫ですか?」
ほい、という声と一緒に衝立の向こうから個包装のチョコレートがひとつ、机に落ちてこつんと音を立てる。発射地点を見ると衝立から隣の席の女性スタッフが顔を覗かせていた。パソコンのモニタの時計を見ると、時刻は午後九時を示している。溜まりに溜まったメッセージを処理していたら、いつの間にかこんな時間になっていたらしい。フロアを見回すと半分以上は灯りが消えていた。
「北島さんこそ、もうこんな時間じゃないすか」
「私は残業、久々ですもん。貴倉さんが忙しいらしくて」
「あの人、仕事押し付けて帰ったんすか?」
「まあたまにはね、そういうこともありますって」
北島さんは俺の入社時からいろいろと俺の世話を焼いてくれた人だ。背が低く童顔な人で、年齢の割に落ち着いた人だと思っていたら、雅樹とほぼ同じ年だと貴倉から聞いてひっくり返りそうになった。貴倉曰く、既婚者でお子さんまでいるのにそういう風に見られることをかなり気にしているらしく、年齢の話題は通常とは逆の意味で禁句らしい。そんな話を聞いてしまったものだから、できるだけ丁寧に、なるべく年下っぽい態度で接していたら懐いてくれる後輩だと思ってくれたようで、以来北島さんにはずいぶんと可愛がられている。
「どうりで、最近遊んでくれない訳だ」
「君たち、ちょっとつるみ過ぎじゃない?」
「よくないっすかね」
「部署の子たちが嘆いてたよ。二人ともあんまり飲み会に参加しないから」
「ああ、そういうこと」
投げ込まれたチョコを手に取ると、昼間にコンビニで見た期間限定のフレーバーのものだった。助かる、と言うと何がさ、と北島さんが笑う。そういえば三時くらいに遅い昼飯を取ってから、コーヒー以外に口にしていなかった。早速包装を剥いて口に放り込むと、待ち兼ねていたように腹の虫が鳴く。
「もう帰れば? 急ぎがあるなら手伝いますけど」
「いや、キリがいいと言えばいいんで、大丈夫」
「私も、帰ろうかな。あんまり残業するとほら、うるさいでしょう、最近」
「そうっすね」
気が進まない。気は進まない、が、いつまでも会社に居残ると北島さんの言う通り、上から注意が入るかもしれない。ここ最近人の仕事を引き受けてまで残業しているのも、明日でも構わない仕事を片付けてしまうのも、その気の進まなさが原因なのは、自分でも分かっていた。
青柳への気持ちには向き合ったつもりでいたけれど、まだ青柳と向き合う覚悟はできていなかったらしい。ライブの後、雅樹と閉店まで飲んでよたよたしながら二人で同じアパートまで帰った。帰宅したらやっぱり綾木はまだ帰っておらず、それを寂しいと思う俺がいた。青柳への気持ちはきっと間違いじゃないし、前回の経験を踏まえて早急に本人へ伝えて対策を練るべきだ、とも思ったのだ。
そしてこのていたらくである。俺の予想通り、始発の動く時間になってから帰ってきた青柳は、お世辞にも調子が良いとは思えない顔色のまま、いい気分で眠りに就いた俺を叩き起こし、朝ごはんを食べますかとへろへろの声で言った。そんなのいいからさっさと寝ろと部屋に叩き込んだのが一週間程前だろうか。その週の月曜からずっと残業続きである。それも、さっきの通りする必要のない残業を続けている。
「久住くん? もう出られます?」
「あ、大丈夫っす」
それでもいつもより人が多い気がするのは、今日が金曜日だからだろう。社会人には金曜日だからさっさと帰りたい、というタイプと金曜だからいくら残業してもいい、というタイプがいると思うけれど、今日に限って言うなら俺は前者だった。
雅樹に片想いをしていた時はあんなにも、顔を合わせることが、言葉を交わすことが嬉しくて楽しかったのに、どうしてだろうか。方向性を固めた途端、青柳と顔を合わせることが気恥ずかしく思えてしまった。顔さえ合わせなければ同じ屋根の下に、青柳がいるという事実と気配には安心する。
青柳は青柳で、ライブの後からそれなりに忙しくしているらしい。ライブの評判が良かったのだろう。遅くなる日や帰れない日も、この一週間にあったらしい。そんな時はいつも通り、律義に連絡を寄越してご飯はきちんと食べてください、と親みたいなことを言っていた。
駅に着いて北島さんと別れ、いつも通りの通勤電車へと乗り込む。金曜の夜の電車は浮かれた人間と疲れた人間が入り混じっていい具合に混み合い、妙な熱気が狭い箱に満ち満ちているから、気分が悪くなる。今日は忙しくしていたのか、青柳からの連絡もないからまっすぐ家に帰ろう、と思った。北島さんがくれたチョコの所為で胃が動いたのか腹は確かに減っているが、どこかに立ち寄って何かを食べようという気持ちにはならなかった。帰れば冷蔵庫か冷凍庫かに、青柳が作り置いてくれた何かがあるだろう。それを食べてシャワーを浴びれば、意味のない残業の疲れもあってゆっくり眠れるだろうし。
そんなことを考えていたから、コンビニにも寄らずに歩いて帰ってしまった。寄り道をしないのならバスを使うのが正解だったのだろうけれど、この時間バスの本数はぐっと減っているから、バス停で余計な時間を使いたくなかった。それ以上に耳から流れ込む音楽が心地良くて、余計なことに遮られるのが嫌だった。
心構えはすべきだったのだと思う。青柳からの連絡が無かったからと言って、あいつが家にいないとは限らない。軽い気持ちで今から帰る、何かいる? とか何とか、連絡の一本でも入れておけばあの狭い家の中だとしても、不用意に顔を合わせる心配もなくて、ちゃんと気構えをして言い訳をして、いつも通りの顔をして平静を装って自室に逃げ込むことだってできた。
これは、完全に俺の落ち度だ。そうだけど、だからと言って、まさかドアの前に落ちているとは思わないだろう。その、青柳本人が。
ドアを背にして眠っていたのか、俺が上げた頓狂な声に顔を上げて一弥さん、と青柳がくぐもった声で俺を呼ぶ。
「近、所迷惑、だろ」
「声震えてますよ」
「当たり前だろ。めちゃくちゃビビったわ。何してんだよ」
「待ってました」
「中で待ってろよ。もしかして、鍵忘れたとかか? それなら連絡してくれたら──」
「まだ、聞いてないので、俺」
「何を」
今まで歩いてきた時間で忘れていた空腹と、喉の渇きを自覚する。そうしたら疲労感が一気に押し寄せてきた。膝が震えたのは、きっと疲れの所為で、青柳の切羽詰まった表情の所為ではない、断じて。
「ライブの感想です。あれから、一弥さん忙しそうだったから」
「……とりあえず、入ろ。マジで近所迷惑だから」
「っていうか」
唐突になる腹の音に気付いたのか、苦笑いを浮かべながら青柳がポケットから鍵を取り出し、慣れた仕草でドアを開く。まだたった一ヶ月と少ししかここに居ないクセに。
「あの人に気付かれたくないんですか?」
家の中に引っ張り込まれ、実に丁寧に静かに閉じられたドアから、鍵が回るかちゃりという音がする。ふらついて倒れかけた俺の腰を支える腕は、思っていたよりも強くて、そういえばベースってそこそこ重いよな、とか、機材とか自分で運ぶって言ってたな、とか余計なことばかりを考えてしまう。暗い部屋の中でも分かるくらいの距離で、青柳の鼻から漏れた息が俺の唇をくすぐった。
「何言ってんだよ」
「違うんですか?」
「こんな時間だし、あんなとこで、うるさいし迷惑だろ」
「本当にそれだけ?」
「お前、酔ってんの?」
「酔ってません。正気です。答えてください」
「いや、だから近所迷惑なだけだって何度も」
「一弥さん」
青柳の額が俺の肩にもたれ、その重みでふらつき壁に身体を預ける形になる。追い詰められたのに、気になったのは壁と俺の身体に挟まれた青柳の右手指のことだった。怪我でもしたらことだ、と。
そんな俺の心配をよそに、青柳は猫みたいに俺に額を押し付けて緩く穏やかな息を吐いている。
「……すみません」
「いや、ワケ分かんないよ、お前。酔ってるなら早く寝ろよ」
「だから、酔ってませんって」
「一体何なんだよ……」
今考えると失敗だった。俺とそれ程身長の変わらない青柳が、身体を丸めて俺に体重を預けてくるその様子が頼りなくて、ついその背中に腕を回してしまったのは、青柳を慰めたいという純粋な気持ちからだけじゃ無かった。青柳が何に拗ねて機嫌を損ねているのかは分からないけれど、寄りかかる体温は心地が良い。雅樹のことを気に掛けるようなその言い草から、もしかして青柳も俺のことを想っていたりするんじゃないか、これは嫉妬なんじゃないかなんて、甘すぎる希望的観測を持ったりしてしまったのだ。
だから、突き放された時は壁に後頭部をぶつけた瞬間は痛み以上に、何が起きたか理解が出来なかった。目を開くと俺の両肩を掴んだ青柳が、明らかに困惑の表情を浮かべていた。
「青柳?」
「すみません、一弥さん、疲れてるのに」
「いや、うん、まあ、それはそうなんだけど」
「やっぱり俺酔ってるみたいで、すみません。寝ます。一弥さん、なんか適当に食べてください。本当にすみません」
「なんだよ、お前何か変だぞ」
「酔ってるみたいです。だから、その、すみません。おやすみなさい」
こんなに慌てていたって青柳は礼儀正しい。勢いよく自分の部屋に飛び込んだクセに、玄関と同じようにドアは丁寧に閉めるから音なんてほとんど立たない。何度かノックしてみたけれど応答はなく、そうなると無理矢理押し入るような真似をする程の度胸はなかった。
「いや、マジで何なの……?」
これは何らかの罰かと思うくらいの仕打ちだ。確かに今日はまだ顔を合わせたくないとは思っていたし、家のドアの前に青柳が座り込んでいたのを見た時は心臓が止まるかと思った。でも、こんな邪険に扱われる理由も思い当たらない。もしかして青柳も俺のことを、なんて浮かれた自分が恥ずかしくなる。
だって、青柳の口からはアルコールのにおいなんてしなかった。最初に本人が言った通り、青柳は少しも酔ってなんかいなかったのだ。




