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妻の顔

作者: 春名功武

 男の妻が、不慮の事故にあい死んだ。男を愛妻家と知る者は、後追い自殺をするのではないかと心配していたが、そうはならなかった。


 妻が死んで4日経った頃である。男の脳内の、視覚情報処理機能にバグが起こったのだ。


 朝、男は会社に向かう為に家を出る。最寄り駅まで歩いていると、大勢の者が駅に向かっている。会社員や学生や顔ぶれはさまざまであるが、男の目にはどれも妻の顔に映っていた。目から入ってくる人間の情報が、妻の情報に書き換えられて脳に伝わっているのだ。最初は混乱していたが、そこは愛妻家である。今はすっかり受け入れて、この異常事態を楽しんでさえいた。


 情報が書き換えられるのは首から上だけで、体型や服装はその人のままであった。生前の妻はコンサバ系ファションであったが、ガーリー系ファションに身を包んだ可愛らしい妻や、パンク系ファッションの激し目の妻を見る事が出来るのは、面白いものである。通勤時間帯だと、セーラー服を着た妻も歩いている。何だか若かりし頃の妻を見ているようで、甘酸っぱい気持ちになる。とはいえ男の目に映っている妻の顔は30代なので、学生には見えないが。


 老若男女すべての人間の顔が、妻に見えていた。公園でゲートボールに白熱している老人たちも、自転車に子供を乗せて保育園に向かう父親の顔も、自転車の前の席に座る子供も、後ろの席に座る子供も、みな妻の顔に見えていた。通勤時間帯にいつも同じ場所ですれ違う、プードルを散歩する愛犬家の顔も妻の顔であったが、プードルの顔は妻の顔ではなかった。人間限定のようだ。渋谷に行くと、ギャル男風ファッションを着たチャラい妻に出くわすし、繁華街で肩がぶつかり「何処見て歩いているんだコラ」と凄んできたチンピラも妻の顔なのだ。この時は笑いそうになるのを堪えるが大変だった。タンクトップを着た筋肉隆々の妻が歩いているのを見たときは、さすがに男も吹き出してしまった。


 駅に着きホームに上がる。通勤ラッシュという事もあり、大勢の人でごった返している。その全ての人の顔が、男の目には妻の顔に見えている。電車の到着を待ちながら、男はあちらこちらに視線を巡らせ、妻の顔をした人たちを見るのが楽しみなのだ。男は妻の顔が好きだった。透明感のある色白の肌、ぱっちりとした二重の瞳、ツヤのある唇、すっと通った鼻筋。それらがバランス良く配置された典型的な美人顔。タイプの顔がこんなにもごった返しているのは、男にとっては至福の時間と言えた。

 列に並んでいる男が、斜め前に立つ妻の顔をチラチラと見ていると、妻がとつぜん振り返った。目がばっちり合ってしまう。男は慌てて逸らすも、目が合った事が嬉しくて、もじもじとした態度を取ってしまうが、実際に目が合ったのは中年男性であり、変な目で見られてしまう。


 電車に乗り込む。車内はすし詰め状態。都会で働く会社員にとっては、通勤ラッシュや満員電車はストレス以外の何ものでもない。身動きが取れないし、息苦しいし、汗臭い。地獄だ。だけど男の目には、360度どこを見渡しても、妻、妻、妻、妻…なのだ。妻専用車両。顔がほころびそうになるが、満員電車でニヤニヤしていたら、良からぬことをしようとしているんじゃないかと思われかねないので、注意しなければならない。兎にも角にも、好きな顔に囲まれた満員電車は、ノーストレスであった。


 会社の最寄り駅に到着する。オフィス街という事もあり、電車の扉が開くと、大勢の妻の顔をした会社員たちが流れ出て行く。男も降りようと、車内にいる妻たちを掻き分けながら、扉の方に進む。やっとの思いで、ホームにたどりつき、ほっとして振り返ると、車内には妻たちの姿が並んでいる。車内に残った妻たちとはここでお別れだ。少し寂しい気分になるが、男の周りにはまだまだ大勢の妻たちがいる。妻を乗せた電車が走り出す。「じゃ行ってくるよ」と男は呟き、大勢の妻たち共に改札に向かう。


 改札を出ると、男は会社に向かい歩き出す。会社が入っているビルは、オフィス街の外れにあった。男の周りにいた妻たちは、各々の勤め先に向かって、散り散りばらばら去って行く。何だか寂しい気分になる。あんなにも大勢いた妻たちが、ひとりまたひとりといなくなっていく。それは唐突にやってくる。周囲から足音がパタリと消える。男は辺りを見渡すが、妻たちは何処にも見当たらない。独りぼっちである事を思い出す。襲い掛かってくる悲しみを振り払うかのように、男は全速力で走り出す。どこかに妻はいないか。妻はいないか。妻に会いたい。早く妻に会いたい。


 会社が入ったビルが見えてきた。誰でもいいのだ。人にさえ会えば妻に見えるのだから。男が慌ててビルに入っていくと、まず目に飛び込んできたのが、妻の顔をした警備員のおじさんだった。男は妻に会えた溢れんばかりの喜びを抑えきれず、警備員さんを抱きしめる。「え、ちょっと、何なんですか」戸惑う警備員さんに、男は取り繕う事はしなかった。言い訳のしようがなかったのだ。「いつもご苦労様です」とだけ言って、その場を後にする。


 男は、以前よりも精力的に仕事に取り組むようになった。前まではプライベート重視で、仕事に重きを置いてなかった。同僚からは、妻を亡くした悲しみを紛らわそうとしているのだと思われているようだけど、実際はそうではなかった。オフィスには大勢の妻がいるのだ。仕事が出来る男だと思われたかった。誰でも好きな子の前では、カッコ付けたくなるものだ。


 せっせと業務をこなしていると、男のデスクに課長がやってきた。部下をこき使う事を何とも思わない自己中心的な上司だ。案の定、厄介な仕事を丸投げしてくる。

「この書類、今日中にまとめてくれ」

「え、今日中ですか?」

 終業時間1時間前である。引き受ければ残業決定だ。

「そうだが。出来そうにないか?」課長は、まるで困った顔を浮かべている。

「いえ、出来ます。是非、私にやらせてください」

 困った顔をした妻を、ほっとけるわけがないだろう。


 残業を終え、電車に揺られて自宅の最寄り駅まで帰ってきた。夕食がまだだったので、飲み屋に立ち寄ることにした。飲みたい気分だった。それに、家に帰ったところで妻はいない。妻が死んでからまっすぐ家に帰ることもなくなった。家よりも外にいた方が、あちこちに妻がいるので、寂しさを紛らわす事が出来た。


 男が飲み屋のカウンターで飲んでいると、隣の席に座った女性と何気ない切っ掛けで、話をするようになった。女性も男と同じように、寂しさを紛らわそうとやってきていたので、意気投合するのに時間は掛からなかった。

「あなたっていつもそうなの」唐突に女性が艶めかしく言ってきた。

「え、何がだい」

「さっきから私の顔ばかり見てるいからさ。そんなに見られると恥ずかしいよ」

「あ、ごめんよ。君の顔があまりにも素敵だから、つい見とれてしまうんだよ」

 男の目には、ほろ酔い気味の美しい妻の顔が映っていた。

「何よそれ」

 まんざらでもない様子の女性はしかし、どう見ても美人とはいえない顔立ちをしていた。


 お酒も進み、良い雰囲気になり、一夜限りのアバンチュールもありえる流れであった。久しぶりに妻に触れる事が出来るかもしれないと、男は感慨深かった。妻ではなく妻の顔をした別の女性ではあるが。

 その時、男は背筋がゾクッとする。背後から突き刺さるような強い視線を感じるのだ。ゆっくりと振り返った男は、椅子から転げ落ちそうになる。そこには飲み屋の客が数人いるだけなのだが、男の目にはそのどの客の顔も妻の顔に見えているわけで。女性を口説いているところを、妻に見つかってしまったような感覚に陥ってしまう。冷静に考えれば、何の接点もない飲み屋の客が、男を睨みつけるわけがないのだが、男はあわあわと取り乱し始める。挙句の果てに、女性を置いて、そそくさとお店から出て行く。


 家に着くと風呂に入ってラジオを聞き寝る。テレビではなくラジオだ。男は、妻が死んでから、テレビ番組を観る事が出来なくなった。テレビの出演者の顔が、みんな妻の顔に見えるからだ。バラエティー番組のMCをする妻、クイズ番組でクイズを答える妻、街ブラする妻、激辛料理を食べる妻、大食いをする妻、ワイプに映る妻、ドッキリにかけられ落し穴に落ちる妻、熱湯風呂に入る妻…どれも気恥しくて観ていられないのだ。


 バラエティーだけではなく、ドラマだってそうだ。とくに恋愛ドラマはいけない。妻の顔をした女優が、別の男に恋しているところなんて、ドラマであっても嫉妬に駆られてしまう。 


 男は漫画好きで、妻が生きていた頃は、よくテレビアニメを観ていたのだが、アニメションであっても、登場人物の情報が、妻の情報に書き換えられて、脳に伝わっているので、アニメも観る事が出来なかった。妻の顔をしたヒーローが地球を占領しようとしている悪党と戦っているところなんてヒヤヒヤするし、妻に海賊王を目指すと言われても、やめてほしいとしか思えなかった。


 そもそも、全ての登場人物の顔が妻の顔なので、誰が誰なのかさっぱり分からず、ストーリーについていけないのだ。


 ラジオがちょうど良かった。ベッドに横になり、ラジオに耳を傾けていると、いつの間にか寝てしまう。男は夢を見ていた。もちろん妻とデートをする夢だ。夢の中でも妻なのだ。


 ただ、男は知らないのだった。死んだ妻は愛妻家の夫を心配して、天使に頼み込んで亡霊として地上に戻してもらった事を。


 亡霊となった妻は、男に取り憑いていた。何処へ行くにも、男のそばには亡霊の妻がいた。男が飲み屋で感じた強い視線は、亡霊となった妻のものだった。しかし男が感じられるのはそこまでだった。残念な事に、男には霊感がなかった。亡霊となった妻の姿は見えないのだ。すぐそばに愛してやまない妻がいるというのに、全くもって見えないのだ。老若男女の全ての人間の顔が妻に見えるのに、亡霊となった妻だけは見えないのだった。


 男の枕元に立つ妻の顔が残念そうに歪む。

「何で肝心の私が見えないのよ。もう~、うらめしや」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 悲劇的な異常事態ではありますが、 それを前向きに楽しんでいる主人公の姿が印象的でした。 とはいえこの状況は亡くなった奥さんからすると歯がゆいでしょうね。 とても近いのに会うことはできないと…
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