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第九話

 翌朝は少しいつもより遅れて学校に行った。すると教室の黒板の前に人だかりができているではないか。僕もやじ馬根性で人をかき分ける。するとそこには、相合い傘が描かれており、桑原健也と小野和恵と書かれていた。

「だ、誰だ。こんないたずら書きしたやつは?」

 僕は叫んだ。この時の僕の顔は赤かっただろう。視界に小野さんが入った。小野さんはいつもの元気さがなく、少しはにかむように笑っている。

(笑っている場合かよ?)

 僕は黒板消しを手に持つと、その相合い傘をやっきになって消した。だが、筆圧が強かったのだろう。うっすらと黒板には跡が残って、完全に消し去ることは不可能だった。

「相合い傘より、釣竿の方がよかったかな?」

 高田君の声が背後でした。振り向くと、高田君がニヤニヤ笑っている。いたずら書きをしたのは、どうやら高田さんのようだ。

「へへへ、昨日、見ちゃったもんね。お前たちが落合橋の下で一緒に釣りをしているところを。一本の竿を仲良く二人で握っちゃってさ。ラブラブって感じだったぜ」

 すると教室のみんなはワーッと湧き上がる。ヒューヒューとはやし立てるやつもいる。

 僕は小野さんの方を見た。彼女は顔を少し赤らめながらも、堂々とした態度でいる。

「小野さん、君は平気なのかい?」

 僕は思わず、小野さんに尋ねた。別に小野さんのことが嫌いなわけではない。むしろ好意を抱いている。その好意は昨日の釣りで何倍にも膨れ上がった。しかし、黒板に相合い傘を書かれて、僕は顔から火が出そうだったのだ。

「別に。私たち、釣りをしただけで悪いことしたわけじゃないでしょ?」

「そりゃ、そうだけどさ」

 僕は頭をかきながら言葉に詰まった。こういう時は女の方が平然としていられるものなのだろうか。それとも、小野さんのさばけた性格によるものなのだろうか。

「なるほど、昨日はそういうことか」

 東海林君の声がした。気が付くと横で、東海林さんがニタニタ笑いながら頷いている。

「だからー……」

「いや、おめでとう」

「だからー……」

「言い訳は男らしくないぞ」

「はい……」

 教室中が爆笑の渦に巻き込まれた。

「何か、楽しそうな雰囲気ですね。邪魔しちゃ悪いかな?」

 斎藤先生がいつの間にか、人だかりの輪の中に入っている。

「そろそろ、朝の会を始めてもいいかな?」

 その先生の一言でみんなは席に着いていく。

 先生が何かしゃべる。しかし、それは僕の耳から耳へと抜けていった。僕は斜め前の小野さんを見つめ続けていた。ふと、黒板に目を移す。そこには完全に消えていない相合い傘が、うっすらと残っている。僕は少しそれが嬉しかった。


 放課後、僕は東海林君の背中を追いかけた。

「おーい、待ってくれよ。今日は秘密兵器の実験やろうよ」

 僕の声に東海林君が振り返る。

「今日はデート、いいのか?」

「君までそんなこと言うのか?」

「ははは、冗談さ。じゃあ、後であのため池で実験しようぜ」

 僕はあのザラⅡがどんな泳ぎをするのか、早く見てみたかった。

 僕は急いで家へ帰ると、ランドセルを置き、ため池へ向かった。東海林君が以前、カムルチーを釣った、あのため池だ。

 僕がため池に到着してからしばらくして、東海林君は釣竿を担いでやってきた。ブラックバス用のゴツイ竿だ。リールも太鼓型のベイトキャスティングリールを付けている。例のカルカッタ200だ。

「それで釣るのかい?」

「渓流用の竿じゃあ、あのルアーは投げられないし、うまく操作もできない」

 竿の先には秘密兵器のザラⅡがぶら下がっている。

「ずいぶんと太い糸だね」

 リールに巻かれている糸はブラックバスを釣るにも太そうな糸だ。これでは海で大物を狙うような糸だ。果たして警戒心の強いイワナを、こんな太い糸で釣れるのだろうかと不安になってしまう。

「ふふふ、心配ご無用。それは釣り方によるからさ」

「釣り方による?」

「そう、水面に糸を付けないからさ。今日からはそのための訓練をみっちりするんだ」

 東海林君の瞳が輝いた。僕は脳天に衝撃が落ちた。

 糸を水面に付けない釣りなんて可能かとも思う。だが、東海林さんの瞳には、不可能を可能にするような力がこもっていたのである。

「ちょっと、あんたたち何やってるの?」

 その聞き覚えのある声に僕たちは振り返った。そこに立っていたのは小野さんだった。

「彼女のお出ましだぜ」

 東海林君がクスッと笑って言った。僕はどう返答していいのかわからなかった。東海林君の前では、素直に感情を表してもいいと思う。だが、やはり気恥ずかしい。

「あんたたち、まだため池でブラックバスを釣っているの?」

 小野さんが興味深そうに寄ってきた。

「違うよ。釜の主を釣る秘密兵器を試すんだ」

 僕がそう言った途端、東海林君が僕をにらんだ。僕は一瞬、ハッとした。釜の主のことは東海林君との秘密だったのである。

「ごめん。彼女にだったらいいだろ?」

「やっと本音が出たな」

「あっ……」

 東海林君の頬が緩んだ。

「何々、釜の主だって?」

 興味津々で小野さんが僕に顔を近づけてきた。僕はその大接近に、思わず身を引いてしまった。東海林君が目配せをした。こうして小野さんも釜の主の秘密を知ることになったのである。

「ねえねえ、私にも手伝えることがあったら言ってよ」

 小野さんはすっかり同行する気だ。

「じゃあ、後でうちにおいでよ。釣るのは東海林君だから、僕たちは取り込み方を考えよう」

「釣っても写真だけ撮ってリリースするからな。なるべく魚を傷つけない方法を考えてくれ」

 東海林君が言った。

「私、編み物できるよ。柔らかい毛糸で、大きな網を作ったらどうかな?」

「それ、いいアイデアかも」

 僕はすかさず、あいづちを打った。東海林君も頷いている。こうして僕らの共同戦線は確実に結束されていった。

「さてと、こいつを投げるぞ!」

 東海林君が勢いよく竿を振った。秘密兵器のザラⅡはため池の対岸目がけて飛んでいく。やはり東海林君はルアーを投げるのがうまい。太鼓型のリールであそこまでの飛距離を出すには、相当な腕が必要だ。

 小野さんも僕も、ザラⅡに注目している。東海林君がリールを巻だし、竿をちょこまかと動かし始めた。

 するとどうだろう。ザラⅡはまるで水面でもがくヒナ鳥のように、ちょこまかと動くではないか。

 東海林君はネチネチとルアーを動かし続けた。すると突然、水面が割れた。

「何だ?」

 竿は絞り込まれ、きしんでいる。リールからも糸は引き出されていた。

「何か掛かったぞ!」

 僕が叫んだ。

「この引きはカムルチーだな」

 東海林君が冷静につぶやいた。魚はもがくように、その身をくねらせている。

「カムルチーって何?」

 小野さんが水面を見つめたまま、興味深そうに尋ねた。知らないのも無理はない。僕だって実物を見るまでは知らなかったのだ。

「ライギョのことなんだけど、知ってるかな?」

「ああ、釣りの本で見たことがある。ドジョウを大きくしたような、変てこな魚でしょ?」

「そうそう」

 そんな会話をしているうちにカムルチーは足元へ寄ってきた。ザラⅡをガップリと口にくわえている。

「こいつも小鳥を襲うって言うからな」

 東海林君がつぶやいた。カムルチーは真っ黒な瞳を虚ろに輝かせながら、僕らを見つめていた。


 その後、小野さんは僕の家に遊びにきた。

 小野さんはていねいに僕の母にあいさつをして家に上がった。僕がいきなり女の子を連れてきたのをみて、母が「あんたもなかなかやるわね」と僕の耳元でささやいた。すると、僕の顔に血が上ったのだろう。

「どうしたの? 顔が真っ赤よ」

 母がおもしろがるように笑った。僕はその背中にアカンベーをする。

「すごい。これ、みんなルアー?」

 父の部屋でタックルボックスを開けた時の小野さんの第一声だ。その数や形に圧倒されたらしい。小野さんは目を皿のようにして、タックルボックスをのぞき込んでいる。

「これなんか、宝石みたい」

 そう言って指さしたのは、貝殻でコーティングされたスプーンだ。本当に宝石のように輝いている。

(これは魚を釣る道具で、女の子を釣る道具じゃないんだけどなあ)

 そんなことを思いながら、僕もスプーンを眺めた。この時、いつも渓流で使っているルアーが、何だか新鮮に思えた。

 やがて小野さんの目はブラックバス用のルアーへと移る。

「あははは、かわいい。何だかオモチャみたい」

 小野さんがおかしそうに笑った。それもそのはず、小野さんが手にしたのは、アライグマの形をした、遊び心いっぱいのルアーだ。

「そうだよね。それでブラックバスが釣れるんだから不思議だよね」

「ブラックバスってアライグマも食べるの?」

 とぼけて小野さんが言う。

「そんなわけないだろ。遊びで作ったルアーなんだよ。ブラックバスの闘争本能をかき立てるように作られているんだ」

「なるほど。高田がケンカを吹っかけてくるのと同じだね」

「くくくっ」

 今度は僕が笑ってしまった。

「ねえ、このカエル、妙にリアルじゃない?」

 そう言って小野さんがつまんだのは、フロッグと呼ばれるカエルの形をしたルアーだった。胴体は柔らかい塩化ビニールでできている。

 生命のまだ宿っていないカエルは、小野さんにいいようにもてあそばれている。脚を伸ばされたり、縮められたりしながら。

「!」

 伸び縮みするカエルの脚を見た時、僕の頭の中にあるイメージが浮かんだ。

「やったよ、小野さん。お手柄だよ」

「えっ?」

 小野さんはなおもカエルをもてあそびながら、ほうけた顔をしている。

「そのカエルの脚、水鳥のヒナの脚に似ていないか?」

「あっ、そうか。これをあの、ひしゃげたタマゴみたいなルアーにくっつければ……」

「そう、本当の秘密兵器になるってわけさ」

 小野さんと僕は頷きあった。


「なるほど、これが本当の秘密兵器か」

 翌日、学校でフロッグの脚を取り付けたザラⅡを見た東海林君がうなった。

「今日の夕方、皆瀬さんがうちに来るんだ。よかったら二人とも来ないか?」

 東海林君が小野さんと僕を誘ってくれた。皆瀬さんにとって、僕たちはお邪魔虫だろうが、大事な作戦会議だ。行かないわけにはいかない。

 放課後、僕たちは連れだって東海林君の家へと向かった。

 東海林君の家ではおじいさんとおばあさんが迎えてくれた。小野さんも僕も深々と頭を下げた。

「おお、よく来たのう。まあまあ、遠慮せずに上がりなさい」

 にこやかに迎えてくれるおじいさんとおばあさん。日本の原風景が残っているような、どこか心が和む光景だった。

「お母さん、村役場の非常勤の仕事を正式に始めたんだ」

 東海林君が嬉しそうに言った。そして、お父さんの遺影の前の水を取り替えると、手を合わせた。小野さんと僕も自然に手を合わせる。

「ふう」

 東海林君がため息をついた。それと同時に黙祷が終わる。

「ふふふ、俺はクリスチャンじゃないけど、この時間だけはクリスチャンになった気分になるんだよな」

 東海林君がつぶやくように言った。仏壇の横に置かれた十字架と聖書は、確かに不釣り合いのようにも見える。だが、決してその存在を誰も否定したりはしない。日本古来の伝統や宗教と、海外から入ってきた伝統や宗教がうまく調和して、そこに存在していた。

 考えてみれば、我々日本人は少なからず誰だってそんなところがあるものだ。七五三でお宮参りをし、毎年クリスマスプレゼントを楽しみにする。そして、多くの人のお墓はお寺にあるいう。日本にはいろいろな神様や仏様が入り混じっていると言う人もいる。

 でも、東海林君はいつか「神様を信じない」と言っていた。お祈りする時もそうなのだろうか。しかし、それは聞いてはいけないような気がした。

 東海林君と僕は釜の主のいる、鬼女沢の話を小野さんに聞かせた。彼女も鬼女沢の名前くらいは知っている。しかし、そこが天然のイワナの宝庫だとは知らなかったようだ。

「イワナかあ。一度、釣ってみたいな。この村では身近な魚なのに、渓流釣りって言うと、何か難しそうなイメージがするのよね」

 小野さんが頬杖をつきながら、目を宙に泳がせた。おそらく、今の小野さんの瞳の中には、まだ見ぬ鬼女沢の風景が映っているに違いない。

「ルアーだったら簡単だよ。竿とリール、糸とルアーがあればできるんだから」

 僕は何とか小野さんをこっちの世界に引っ張りたくて、いかにも簡単そうに言ってのけた。本当は流れを読みながら、リールを巻くスピードや竿の動かし方を変えるなど、難しいことは多いのだが、そこは俊敏な小野さんのことだ。すぐにコツをつかむだろう。

「それと、丈夫な脚だな」

 東海林君が付け加えるように言った。その点でも、小野さんは申し分ない。

「うーん、何だかできそうな気がしてきた」

「ははは、その意気、その意気!」

 僕は親指を立てて、片目をつぶった。

「ただいまー」

 東海林君の母親の明るい声が響いた。その声を聞いて、僕はホッとした。最初に会った時の、涙を見せていた時の声とはまったく違ったからである。だが、一番ホッとしているのは東海林君の家族と皆瀬さんかもしれない。山奥に潜む、あのモヒカン猿はどんな気持ちだろうかと、ふと、そんなことが頭の中をよぎった。


 作戦会議の前に、東海林君の母親と一緒に現れた皆瀬さんが遺影に手を合わせ、黙祷を捧げた。その背中に東海林君が声をかける。

「お父さんは皆瀬さんの気持ちはわかっているみたいだけど、まだ正式に認めているわけじゃないみたいだったな」

「正、なんてこと言うの!」

 急に東海林君の母親の顔付きが険しくなり、東海林さんをにらみつけた。

「だって、お父さんがそう言っていたんだもん」

「お父さんって、一体……?」

 東海林君の母親は、明らかに取り乱している。

「あの猿のことかい?」

 皆瀬さんが背中を向けたまま尋ねた。

「何せ、鬼女沢だからなあ。そういうことがあっても、おかしくはないかもしれないなあ……」

 皆瀬さんがため息交じりにつぶやいた。

「えっ?」

 僕たちは身を乗り出し、東海林君の母親の顔は真っ青だ。

「正君たちと猿に会ったんですよ。正君はどうやら、その猿にお父さんが取り憑いていると思っているようです。でも、事実そうかもしれない。あの猿の動きは不自然だし、正君と心の中で何かしゃべっているようだった。ひょっとすると、本当かもしれませんよ。何せ、鬼女沢ですからね」

 皆瀬さんは向き直ると、伏し目がちにそう言って、また、ため息をついた。

 東海林君の母親はただただ、驚きを隠せず、口に手を当てたまま固まっている。おじいさんもおばあさんも深刻そうな顔をしていた。一体、鬼女沢に何があると言うのだろうか。

「しかし、何で若いあんたが鬼女沢の伝説を知っておるんだ?」

 東海林君のおじいさんが不思議そうに、皆瀬さんに尋ねた。その伝説はどうやら、今ではすたれてしまったらしい。

「私は前に村史編纂(へんさん)課という部署にいましたから」

「なるほどのう」

 おじいさんが納得したようにうなずいた。

「あのー、鬼女沢の伝説って、何なんですか?」

 僕が恐る恐る尋ねた。すると、皆瀬さんは正座をしたまま、腕組みをして語り始めた。

「ずっと昔の話だけどね。まだ日本がまだいくつもの領地に分かれていた頃、ちょうど、鬼女沢の源流にあたる、鬼女山が国の境だったんだよ。この玉置村は貧しい村でね。年貢が収められなくて、他の国へ逃げ出そうとする者も少なくなかったらしい。だが当時、他の国へ逃げることは許されなかったんだ。関所破りと言ってね、死刑になったんだよ」

「へえー、厳しかったんだね」

 今では日本全国、どこへ行こうが罰せられることはない。東海林君も小野さんも、皆瀬さんの話に、夢中で耳を傾けている。

「玉置村から、隣の国へ逃げる者は平地を避けて、たいてい鬼女山を抜ける。そこで領主は山にくの一、つまり女忍者を置いて、見張り役にしたんだ。そして、他の国へ逃げようとする者を発見した時は、容赦なく殺すよう命じたという。だが、女忍者も人の子だった。そんな任務に耐えられなかったのだろう。あの不見滝の釜に身を投げて、自殺したと言われている。これが鬼女山と鬼女沢の名前の由来さ」

 みんなが息を飲んだ。おじいさんとおあばあさんは頷いている。東海林君のお母さんはうつむいて、固く拳を握り締めていた。皆瀬さんの話はまだ続く。

「その後、女忍者はイワナになったと言われているんだ。あの沢のイワナにね。イワナのくねるような強い引きは、女忍者が苦しみもだえているのだという人もいてね。いつしかあの沢のイワナを釣ることを、みんな恐れるようになったんだ。ひょっとすると、釜の主も女忍者の生まれ変わりかもしれないね。そうだとすると、強敵になるかもしれないな」

「お父さんが猿に取り憑くくらいだから、ひょっとすると……」

 東海林さんがそうつぶいた時だった。

「そんな、あの人が猿に生まれ変わるだなんて、そんな……」

 真っ青な顔をした東海林君の母親が、崩れるように前のめりに倒れた。それをおじいさんが支える。

「正、それは本当なのか?」

 おじいさんの目はいつになく厳しく、真剣だった。

「冗談でこんなことが言えるかい。あの猿はお父さんだった。ちゃんと俺に話しかけてきたんだぜ。それにあの山奥で、お父さんはまだ生きているんだ。生きているんだよ!」

 東海林君の瞳には力がこもっていた。誰もその気迫に言い返すことなどできないでいる。小野さんは、何が起こったのかわからないようで、ほうけた顔をしている。

「ああっ、そんなことって、そんなことって……」

 東海林君の母親が取り乱しながら、頭をかいた。それをおじいさんが支える。

「しっかり、しっかりせい。あいつは死んだ。死んだんじゃ!」

 ただ、皆瀬さんは東海林君の話を否定せず、頷いていた。

「いつか、落ち着きますよ。今日はゆっくり休むといい。明日も仕事ですからね」

 皆瀬さんは東海林君の母親の肩に、そっと手を添えた。その手が温かそうだった。

「僕らは帰ろうか?」

 小野さんも気まずい空気を察したのだろう。僕のその言葉に小野さんが頷いた。これ以上は、子供の出る幕ではないような気がしたのだ。とりあえず、作戦会議はお預けだ。

 帰りの道で、小野さんにあのモヒカン猿のことについて話をした。すると小野さんも「ふーん、不思議なことがあるものね」などと言って、否定はしなかった。ただ、二人とも東海林君の母親のことが心配であったのは言うまでもない。自然と小野さんも僕も無口になった。出るのはため息ばかりである。

 既に陽はとっぷりと暮れていた。


 翌朝、東海林君は疲れた顔で登校してきた。そこへ小野さんと僕が駆け寄った。

「昨日はあれから、お母さん大丈夫だった?」

 小野さんも心配そうに尋ねる。

「ああ、俺もいろいろ聞かれたけどね。何とか今日も、仕事に行ったよ。家にいるより、外に出た方がいいんじゃないかな」

 東海林君がクマを作った目でニッコリ笑った。

「君もあまり無理するなよ」

「ありがとう。後で今日の授業の内容を教えてもらえれば大丈夫だよ」

 どうやら、東海林君は昼寝をするつもりらしい。既に目はうつろだ。

「じゃあ、今日の放課後は復習と作戦会議ね」

 小野さんが笑った。机に伏せた東海林君からは、もう寝息が聞こえていた。

 小野さんと僕は顔を見合わせて、クスッと笑った。

 それからしばらくしてだった。高田君がバケツに入った魚を持ち込んだのは。

「ブラックバスじゃないか!」

 五年生の男の子の声で、教室中が騒然となった。そう、高田君が持ち込んだ魚とは、ブラックバスだったのである。その声にさすがの東海林君も、ムクッと体を起こした。みんながバケツの回りに群がる。

 高田君はバケツを覗き込んでは、東海林君や僕の方を見ながら言った。

「昨日、ため池でミミズを餌に釣りをしていたら、こいつが釣れてよ。なんだか、こいつを見ていたらお前らのことを思い出しちまってな。殺すのもかわいそうでよ。飼ってみようと思って持ってきたんだ」

 その口調はどことなく、自慢げに、そして優しげだった。

「それは無理だな」

 東海林君がつぶやいた。

「えっ?」

 一同が東海林さんを見る。

「ブラックバスは『特定外来生物』に指定されていて、法律により個人で飼うことは禁止されているはずだ。水族館なんかは別だけどね」

 東海林君が淡々と言った。みんなはポカーンと口を開けたまま、何も言えないでいる。

「じゃあ、このブラックバス、どうすればいいんだ? ため池へ戻せば、また大人たちに殺されるぞ!」

 高田君が焦れたように叫んだ。

「でも、水を抜いて殺されたはずのブラックバスがどうして、まだいたのかな?」

 僕にはその疑問の方が大きかった。

「いつかお前のお父さんが言っていただろう。自然の生物は人間よりも強いって。きっと卵が底にあったんだろうな」

「そうか……」

 恐るべきは自然の生命力だった。確かに人間によって持ち込まれた生命かもしれないが、自然に放たれた瞬間から、人間の意志の介入を嫌い、現在までつながれてきた生命の営みが、今、目の前のバケツの中にあった。確かに自然を意のままにしようと思うのは、人間のおごりなのかもしれない。

 ガラガラ。

 教室の扉が開いた。斎藤先生が近寄って、バケツの中を覗き込む。みんなは「ブラックバスだ」と囃し立て、ヤンヤヤンヤの大騒ぎとなっている。

「先生、俺が釣ってきたんだ。飼っちゃだめですか?」

 高田さんが上目づかいで先生を見る。

「うーん。これはブラックバスに似ているが違うぞ。貴重な『カワスズキ』だ。とても貴重な魚だから、一週間だけ学校で飼って、その後は元のところに逃がしてあげましょう」

 さすがは斎藤先生だ。懐が広い。もちろん『カワスズキ』などいう魚は存在しない。それでもブラックバスを『カワスズキ』と呼び、一週間だけ飼うことを許可してくれた先生の度量には感服した。

 メダカが消えた水槽には、こうしてブラックバスとウグイが同居することになったのである。ブラックバスよりウグイの方がやや大きい。これならば、ウグイがブラックバスに食べられる心配はあるまい。

「大丈夫だよ。僕たちが黙っていれば、大人たちは気づかないさ」

 僕はそっと高田君に耳打ちした。高田君がニコッと笑った。


 放課後、高田君は野球もやらずに、急ぎ足で下校した。養鶏場で獲れるドバミミズをブラックバスの餌にするのだとか。

 小野さんは毛糸で網を編むために、やはり早々と家に帰った。昨日、皆瀬さんが海釣り用の網を買ってきてくれたので、それに合う大きさに編んでもらうのだ。

 東海林君と僕は、フロッグの脚を付けたザラⅡのテストをため池で行う。果たして、ヒナ鳥に見えるだろうか。少し心配だ。

 家に帰って、ランドセルを放ると、僕は急いでため池へ向かった。

 少し遅れて、東海林さんが来た。

「ふふふ、俺たちの秘密兵器を早速、試そうぜ」

「ああ」

 見つめ合った僕たちの瞳には、まだ見ぬ釜の主こと、大イワナが既に浮かんでいる。

 東海林君がていねいだが、素早くルアーを結ぶ。

「いくぞ!」

 大きく竿を振りかぶったかと思うと、次の瞬間には、秘密兵器は対岸目がけてフルスイングで飛んでいった。ポチャリとルアーの着水音がした。波紋が消えるまで、しばらく待つ東海林さん。そして、ネチネチとヒナ鳥がもがくような演出をする。

 脚の付いたザラⅡは、わずかな距離でオーバーな動きを演じながら、徐々に手前へと近づいてくる。

 足元から3メートルくらいのところだっただろうか。そこでもう一度、動きを確認しようと、ネチネチと動かし続けた時だった。

 突如として水面が割れ、夕映えに銀色の魚体が跳ねた。ザラⅡは弾き飛ばされ、足元近くまで飛んできた。

「す、すげえ」

 東海林さんが息を飲んだ。

「今のは何?」

「ブラックバスだよ」

 僕は先程の一瞬の光景を見たことがある。それは父親が持っている、開高健という人が書いた「オーパ!」という本の中に載っていた写真とそっくりな光景だったのだ。

 その写真はトクナレという魚がルアーを弾き飛ばす写真で、強烈な印象を僕に与えた。あの写真と同じ興奮が身近なため池で味わえるとは、思ってもみなかった。それにしても、まだため池にルアーを弾き飛ばすほどの大きなブラックバスがいたとは……。

「この秘密兵器には、とてつもない能力が隠されているかもしれない」

 東海林君がうなるように言った。

 僕の脳裏にはまだ、先程のブラックバスが跳ねた姿が焼き付いていた。興奮がまだ収まらないのだ。

「なあ、『オリジナル・ザラ』っていうルアーがあるから、このルアーの名前、『オレタチノ・ザラⅡ』にしないか?」

 東海林君が笑って言った。

「それってダジャレ?」

「悪いか?」

「ううん。いい、いい、サイコー」

 僕は東海林君の口からダジャレが飛び出すとは思わなかったので、正直なところ、ちょっとびっくりしたのだ。もっとクールなやつだと思っていただけに、より親しみが湧いて、嬉しかった。

「よっしゃー、『オレタチノ・ザラⅡ』で釜の主を釣り上げるぞーっ!」

 東海林君が雄叫びを上げた。

「おーっ!」

 僕がこぶしを振り上げる。

 遠くで「クワッ!」という動物の鳴き声が聞こえた。おそらく猿の鳴き声だ。それは、あのモヒカン猿に違いあるまい。


「天気予報をお知らせします。発達中の熱帯低気圧は今後も北上を続け、夜半には台風十号となる見込みです……」

 その夜、僕は嫌な気分で天気予報を聞いていた。

「台風よ、逸れろーっ!」

 僕はテレビの画面に向かってほえた。

「仕方ないじゃない。自然が相手なんだから」

 母もそう言うが、内心は穏やかじゃないはずだ。実は両親もまた、釜の主を僕たちが釣り上げることを楽しみにしているのだ。

 プルルルルル……。

 そんな時、電話が鳴った。

 僕は東海林君だと思って、慌てて受話器を手にした。

「もしもし、桑原?」

「小野さん?」

 声の主は意外にも小野さんだった。

「ヤバイよ。天気予報、聞いた?」

「うん。台風が来そうだね」

「台風が来たら、渓流は無理だよね?」

「そりゃ、無理だ。鉄砲水は危ないからね」

 笹熊川も鬼女沢も上流部に行けば行くほど川幅は狭まり、切通しも多くなる。そのようなところでは急な増水による鉄砲水が危ない。

「禁漁まで時間がないよ」

 小野さんの声はあせっていた。じれる様子が受話器越しに伝わってくる。

「でも、命には代えられないよ」

「そりゃ、そうだけどさ。悔しいじゃん……」

 受話器の向こうで、唇をかみ締める小野さんの姿が見えた。

 もし、今回の釜の主釣りが中止になれば、それは僕だって悔しい。いや、それ以上に、東海林君が悔しがるだろう。今度の土日が今シーズン最後のチャンスなのだ。

「ところで、網はできた?」

「もちろん、バッチリよ」

「よっしゃ!」

 今はできるだけの準備を入念に進めるしかない。

「じゃあ、ついでにテルテル坊主も作っておいてくれよ」

「ふふっ、わかったわ」

 プププ……。

 受話器に電子音が流れた。

「いけね、キャッチだ。ごめん、切るよ。明日、学校でね。おやすみ」

「うん、おやすみ」

 僕は電話をキャッチホンに切り替えた。

「よう、俺だ」

「東海林君かぁ?」

「おい、『かぁ』はないだろ、『かぁ』は……。実は小野さんとラブラブな電話でもしてたりして……」

 僕は一瞬、心臓がドキンとした。東海林君は何て勘の鋭いひとなのだろうか。

「冗談言うなよ」

「ははは、悪い、悪い。実は天気予報のことでな」

「僕も電話しようと思っていたところなんだ」

 それにしても、東海林君の声はどこかあっけらかんとしている。台風が心配ではないのだろうか。

「さっき、お父さんに会ったんだ」

「えっ、じゃあ、あの……?」

「里まで下りてきたんだ」

「そうか……。それで?」

 僕はてっきり、あのモヒカン猿が東海林君に釜の主釣りの中止を諭しに来たのかと思った。だが、次の瞬間、東海林君からは意外な言葉が飛び出たのである。

「台風は逸れるぜ」

「えっ?」

「聞こえなかったのか? 台風は逸れると言ったんだ」

「何だって? 本当か、それは?」

「ああ、お父さんが言っていた。動物には野生の勘が働くらしい。よく、ナマズが暴れると地震が起こるって言うだろう」

「そ、そうか……!」

「大船に乗ったつもりでいろだってさ」

「わかった。早速、小野さんにも知らせてやらなきゃ。彼女、心配していたから……」

「やっぱり、電話していたな」

「あ……」

 モヒカン猿の予言は当たった。熱帯低気圧は発達し、台風十号となったものの、進路を東寄りに大きく変え、日本列島に上陸することはなかったのである。船のカサゴ釣りならばいざ知らず、渓流ならば問題はない。


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