第八話
鬼女沢沿いには小径がある。その小径をたどっていけばよいのだが、不思議なことにモヒカン猿は野山を行かず、小径を歩いた。まるで僕たちを先導するように。
「どうやら、あの猿は不見滝まで我々を案内するつもりらしい」
額に汗をかきながら、皆瀬さんがつぶやいた。小径の傾斜は結構きつい。
「不見滝?」
「鬼女沢の魚止め滝だよ。森に覆われて、音しか聞こえず、なかなか見えないから不見滝という名前が付いたらしい。落差30メートルはある、大きな滝でね。そこの下には大きな淵になっている」
魚止め滝とは、魚が遡れない滝のことで、そこから上流に魚はいない。もっとも、人間が持ち込まない限りの話だが。鬼女沢には漁協も放流事業を行っていないので、おそらく不見滝から先に魚はいないだろう。
「それに……」
「それに?」
「滝の側に又吉さんというじいさんが住んでいてね。そのじいさんがくせ者なんだ」
「どんなおじいさんなの?」
「俗に言う世捨て人さ」
「世捨て人?」
「そう。滝の側で魚を獲ったり、山菜を採ったりして自給自足の生活をしているんだ。そんな人でも村人だからね。毎回、村の広報や選挙の投票用紙を届けるのが大変なんだよ」
「ふーん」
「それに性格も頑固ときてるから、手に負えないよ」
皆瀬さんは汗をふきながら笑った。東海林君はただ夢中になって、モヒカン猿の背中を追いかけている。
すると、急に視界が開けた。目の前に広がる大きな滝と、すべてを飲み込むかのような大きな滝壺がそこにあった。
東海林君の目はモヒカン猿を追った。しかし、猿は薮の中へ身を潜めると、すぐに見えなくなってしまった。
その滝壺の脇に小さな掘っ建て小屋がある。どうやらそれが又吉じいさんの家らしい。
皆瀬さんは又吉じいさんの家らしき掘っ建て小屋に向かって歩きだした。
「ごめんください。皆瀬です。又吉さん、いますかー?」
皆瀬さんが大声で叫ぶと、「おう」と威勢のいい声が返ってきた。そして、奥からいかにも仏頂面をしたおじいさんが出てきたのである。
「何じゃ、また木っ端役人か。今日は何の用じゃ」
「いや、特に用はないんですけどね。この子たちと釣りに来まして」
東海林君も僕も、無愛想なおじいさんに軽く会釈した。
「最近のガキどもは、西洋かぶれの道具で釣りなんぞしよる。世も末じゃわい」
どうやら又吉じいさんは、ルアーがお気に召さないらしい。
「ところで木っ端役人、こいつらに釜の主の話をしとらんだろうな?」
「いえ、まだ」
「かかか、まあ、したところで、ガキに釣れるような代物じゃあないて」
又吉じいさんが僕たちを見下しながら、豪快に笑った。東海林君は少しムッとした表情をしている。
「釜の主って何ですか?」
東海林君が敵意のこもった声色で尋ねた。
「もしかすると、お前さんがその西洋の道具で釣ろうってえのか? 無理だ、無理だ。やめとけ。わしが五年越しで狙っても釣れねえ大イワナじゃ」
「大イワナ!」
「そうよ。身の丈、三尺近くはあろうかっていう、稀に見る大イワナじゃ。わしは見た。あれは水鳥のヒナが滝壺で羽を休めた時じゃった。しばらく滝壺に身を浮かばせていたヒナの下に忍び寄る黒い影。次の瞬間、ヒナはイワナの胃袋の中よ」
「す、すげえ!」
水鳥のヒナを丸呑みにするイワナの姿を想像するだけで、僕の心臓が高鳴った。それは恐れに近いものがあったかもしれない。イワナは警戒心が強い一方で、非常に貪欲な魚だ。よくヘビなどを食べる話は耳にする。
「ひひひ、恐れ入ったか。さあ、ガキの出る幕じゃねえ。帰った、帰った」
又吉じいさんは両手で僕たちを払うようにする。
「おもしれえ……」
東海林君がつぶやいた。
「釣らせてもらおうじゃねえか。その釜の主とやらを」
東海林君の目は熱く燃えていた。この目は竜山湖で大きなブラックバスを掛け、ファイトしていた時の、あの目だ。おそらく、彼の中で何かのスイッチが入ったのだろう。それは大イワナへの挑戦状でもあり、又吉じいさんへの挑戦状でもあった。
「かかかっ。笑わせてくれるわ。わしが五年がかりで狙っても釣れんのだぞ。西洋かぶれのガキどもに釣れるわけがなかろうが」
それから僕たちは滝壺へ向けてルアーを投げ続けた。東海林君と僕は距離を置き、違う角度から攻める。皆瀬さんと又吉じいさんは、そんな僕たちを黙って見ていた。
「ヒット!」
東海林さんの声が響いた。竿が大きくしなっている。かなりの大物だ。距離は開いていても、リールからジリジリと糸が引き出されていくのがわかるくらいだ。東海林君は竿をためながら、懸命に魚の引きに耐えている。
皆瀬さんが腰を上げた。東海林君に駆け寄る。もちろん僕も駆け寄る。
「違うな。あいつじゃねえ」
又吉じいさんがボソッとつぶやいた。
何度か巻いては引き出され、引き出されては巻いてを繰り返すと魚は寄ってきた。40センチをはるかに超える大きなイワナだ。皆瀬さんは渓流ダモ(網)を手に取ると、素早くイワナをすくい上げた。
「いやー、主には及ばないまでも、立派な大イワナだ」
皆瀬さんが東海林君を誉め讃える。しかし、東海林君の顔は晴れやかではない。
「くくく、そのくらいのイワナならゴロゴロいるぜ。珍しくはねえ」
又吉じいさんは意地悪そうに笑った。東海林君がにらみ返す。
「どうせ釣れねえけどな」
そう前置きして、又吉じいさんが言った。
「釜の主は朝マズメと夕マズメにしか姿を現さないのよ」
マズメとは魚の最も食いが立つ時間帯のことで、早朝と夕方を指す。
それでもあきらめ切れないのか、東海林君は黙々とミノーを投げ続けた。
僕も重めのスプーンを使って、滝壺を這うようにリールを巻く。
ふと、滝の上に目をやった。するとそこには、あのモヒカン猿がいたのである。まるで、僕たちの釣りを見守るかのようにして、ジッと見つめていたのだ。
(やはり、あの猿は東海林君の……)
そんな思いがしてならない。モヒカン猿の視線は僕よりも、東海林君に注がれているような気がしたからだ。
結局、その日は釜の主は姿を現さなかった。夕マズメまで狙うには、ここはあまりに遠すぎる。林道の終点に自転車を置いてきた僕たちは、暗くなる前に切り上げなければならない。
「また、絶対に来ますよ」
東海林君が又吉じいさんをにらんで言った。
「ああ、もう来なくていいぞ」
又吉じいさんは手で追い払うような仕草をして笑った。東海林君が下唇を噛んだ。
下山した僕たちは、また川を下り始めた。東海林君は何もしゃべらない。既に陽は傾きかけていた。山の夕暮れは早い。自然と急ぎ足になる。
そんな時、ふいに僕たちの前に、あのモヒカン猿が現れた。
モヒカン猿はジッと東海林君を見つめる。威嚇するわけでもなく、ただジッと見つめているのである。
この時、僕は思った。この二人の間には、二人にしかわからない、空気の糸のようなもので結ばれているのだろうと。
見つめ合っていたのは、一、二分くらいだったと思う。だが、その時間の濃さはまるで、農場のしぼりたての牛乳のようだった。それだけ凝縮された濃密な時間だったと僕には感じられた。
東海林君と見つめ合った後、モヒカン猿はまた茂みの中へと姿を隠した。
「おい、あの猿、じゃなかった、君のお父さんは何て言っていたんだい?」
僕は思い切って、東海林君にそう尋ねてみた。
「ふふっ、『お前と協力して、あの釜の主を釣ってみせろ』だってさ」
東海林君の口元がフッと笑った。そして、目は異様に光っている。釣り人だけが放つ、独特の光だ。
「君は猿と話ができるのかい?」
皆瀬さんが口をポカーンと開けて尋ねた。まるで、目の前で手品でも見せられたかのようだ。
「あの猿ね、こいつのお父さんなんですよ」
「はあ?」
僕の言葉に皆瀬さんはすっかり、混乱しているようだ。
東海林君は皆瀬さんの方を向くと、ニヤッと笑って言った。
「おじさん、俺のお母さんのこと、気になっているでしょ?」
皆瀬さんの顔が急に赤くなった。それは夕陽に照らされて赤く見えただけではない。
「な、何を言い出すんだ。急に」
「だって、お父さんが言っていたもん。お父さん、おじさんのこと『いいやつだ』って言っていたぜ」
皆瀬さんが指で頬をかいた。目線は宙を泳いでいる。
「まったく、まいっちゃうなあ。君たちには……」
その日は、皆瀬さんのワゴン車に自転車を積み、家まで送ってもらった。東海林君の家が母子家庭ということもあり、母親を心配させないためにも東海林君の家へまず向かった。
東海林君を介して、あのモヒカン猿から聞いた話を聞けば、皆瀬さんにはそれなりの下心があるように思えたのだが。
「まあ、すみません。わざわざ送っていただいて。それに、皆瀬さんにはお世話になりっぱなしで……」
東海林君の母親が丁寧に頭を下げた。東海林君も僕も、皆瀬さんに頭を下げる。
僕が見るに、東海林君の母親はここのところ、見違えるほど元気になった。息子が村に慣れ、安心したのだろうか。それに、改めて綺麗な人だと思った。こんな人が母親だったら、東海林君も鼻が高いに違いない。しかし、東海林君は一見すると取っ付きにくいが、常に母親を気遣い、大切にする優しい人だ。僕はそんな東海林君が大好きだ。彼との友情は、僕にとってかけがえのない財産のようなものなのだ。
「いや、たまたま釣りで一緒になりましてね。でも子供たち同士であまり山奥まで行くのは危ないから、今度からおじさんが付いていってあげるよ」
なるほど、子供をダシに使えば、東海林君の母親にも近づけるという寸法か。僕はそんなことを邪推した。
「まあまあ、こんなところでもなんですから、お茶でも」
皆瀬さんも僕も東海林君の家に上がることにした。僕は電話を借りて、家に電話を入れた。
考えてみれば、僕が東海林君の家に上がるのはこれが初めてかもしれない。
「お父さんの遺影ってどこだい?」
すると東海林君の母親が「こっちよ」と案内してくれた。そこにはブラックバスを抱えて笑う、東海林君の父親の写真が飾られていた。言われてみれば、その目はどこかあのモヒカン猿に似ているかもしれない。
遺影の脇には十字架と聖書が置かれている。それが横にある、古びた木目の仏壇と違和感なく融合しているところがすごい。亡くなった人を奉るというのは、仏教にしても、キリスト教にしても、荘厳な印象をもたらすものだ。
僕はその写真に向かって自然に手を合わせた。背後でも静かに黙祷を捧げる皆瀬さんの気配がする。厳粛な時間だった。
東海林君の父親に黙祷を捧げると、おばあさんがお茶とナスの漬物を出してくれた。
皆瀬さんは早速、ナスの漬物に箸をつけている。
「いやー、おいしいですね。こんな物を毎日食べられて幸せだなあ」
「ほほほ、あんた、まだ独り身かえ?」
おばあさんが笑いながら尋ねた。
「ええ、私は隣の持立市の出身でしてね。この村の安アパートで一人暮らしをしているんです。だから、こういうもの、めったに食べられないんですよ」
「正も懐いとるようだし、うちの秀美をもらってくれんかのう?」
皆瀬さんが飲みかけたお茶をブーッと吹き出した。そしてゴホッ、ゴホッとむせる。
「お母さんったら!」
東海林君の母親が血相を変えて、おばあさんをにらんだ。皆瀬さんはお茶が変なところに入ったらしく、まだむせている。
「いいんです、いいんです。秀美さんも旦那さんを亡くされた後で、ゆっくりと先のことなんか考える暇なんかなかったでしょうから」
皆瀬さんが手を振りながら答えた。
(何だ。もうアタックしていたのかよ……)
僕は心の中でつぶやいた。
「それはそうと、村役場の非常勤職員の話はどうですか?」
皆瀬さんが赤い顔をしながら、東海林さんの母親に尋ねた。
「ええ、その話でしたら、お引き受けしようかと思いまして」
その途端、皆瀬さんの顔がほころんだ。
「本当ですか。そりゃ、良かった。来週明けにでも早速、課長に報告しておきます。いやー、本当に助かりますよ」
皆瀬さんが照れを隠しながら笑った。そんな皆瀬さんを東海林君は薄笑いを浮かべながら見ている。
母親が元気に働く姿が見たいのだろうとも思う。だが、それ以上に皆瀬さんと母親の関係が気になっているはずだ。僕が東海林君と同じ立場だったら、心境は複雑だろう。何せ父親の死後、間もなく、母親が男性と付き合おうというのだから。それを気にさせないのは、あのモヒカン猿の存在なのだろう。
「それじゃあ、私はこれで……」
皆瀬さんが席を立った。みんなで皆瀬さんを見送る。皆瀬さんがワゴン車に乗り込む間際に東海林君が言った。
「これからもよろしくお願いします。それと、お父さんに認められるといいね」
「えっ?」
皆瀬さんが拍子抜けしたような顔をした。東海林さんの母親もハッとしたような表情をして「正!」と叫んだ。だが、東海林さんはニターッと笑っている。皆瀬さんはそんな東海林君に、爽やかな笑顔を返した。
「来週の土曜日、また不見滝の釜の主に挑戦しよう。それまでに作戦を考えておいてくれ」
「まかせておいて」
東海林君が親指を立てて、片目をつぶった。その仕草もまた、爽やかだった。
そして、遠ざかるテールランプを見送った。
「僕もそろそろ帰るよ。今度、釜の主を釣る作戦会議を開こう」
「OK。あの頑固ジジイの鼻を明かしてやろうぜ」
東海林君の表情は活き活きしていた。
月曜日の放課後、東海林君と僕は二人で作戦会議を開いていた。もちろん、釜の主を釣る作戦会議である。
「トラウト用のルアーってスプーン、ミノー、スピナーくらいだもんな。あんまりバリエーションがないな」
東海林君がぼやくように言った。
「確かにサイズや重さの違いくらいだね。それに比べてブラックバスのルアーはバリエーションが豊富だよね」
僕は東海林君に同調する。
「何しろ、水鳥のヒナを飲み込むくらいの化け物が相手だからな。それに、あの頑固ジジイに攻め立てられてスレッカラシになっているだろうしなあ」
「三尺って言ったら、90センチくらいだよ。一尺が30センチだもん。湖だってそんな化け物サイズのイワナは珍しいと思うんだよね」
「水鳥かあ。水鳥ねえ」
東海林君は腕組みをして目をつぶった。深く考え込むような顔をしている。
僕だって同じだ。あまり良い頭ではないが、それでもフル回転させて、何とか、まだ見ぬ釜の主を釣り上げる方法を考えているのだ。ともあれ、今までの我々の常識ではかなう相手ではなさそうだ。普通の渓流釣りの概念を打ち破る必要がある。
「仕方ない、お互いもう少しアイデアを考えて練り直そう。禁漁まであまり日がないからな」
そうだ。机の上で考えていても仕方がない。アイデアとはひょんなところから飛び出したりするものかもしれない。
その日、東海林君は先に帰った。自分のタックルボックスを眺めてイメージを練り直すのだとか。
僕は校庭でぼんやりと、みんなが遊ぶ姿を座って眺めていた。
「何、深刻そうな顔しているの?」
僕に話しかけてきたのは小野さんだった。
「あ、ああ、別に」
「さっき、東海林君とヒソヒソ話をしていたでしょ。釜の主とか水鳥とか」
「何でもないよ」
釜の主の話は東海林君と僕との秘密だ。そうおいそれと他人に話せる内容ではなかった。だから、小野さんへの返事は少しつっけんどんだったかもしれない。
「この前のメダカのこと、まだ怒ってる?」
急に小野さんが声の調子を変えて聞いてきた。いつものはつらつとした声ではなく、どことなく女の子らしい声だ。振り返ると、小野さんの顔は泣きそうな程、不安な表情をしている。こんな小野さんを見るのは初めてだ。
「いや、怒ってなんかいないよ。あの時は僕もムキになり過ぎた。ごめんよ」
僕はごく普通に笑って、そう言った。すると、小野さんの表情が急に晴れやかになり、「はあ」というため息が漏れるのが聞こえた。
「実はね、私も釣りをしたいなって思って、高田に相談したら、『女に魚が釣れるか』ってバカにされたのよ。それで悔しくてさ。でも、実際に釣ってみたら面白いじゃない。あのウグイ、初めて釣った魚なんだ」
「そうだったんだ。高田のやつに一泡吹かせたかったんだね」
「まあね」
小野さんが僕の隣に座った。教室の机よりも、もっと距離の短い、ごく間近の距離。まるで服というか、肌と肌が密着しそうな距離だ。
この時、不思議と僕の心臓はドッキン、ドッキンと高鳴っていた。手の指やつま先の末端まで脈打っている感じがする。それに、耳から頬、頭の中までが異様に熱い。
「ねえ、桑原は最近、ルアーをやっているんでしょ?」
「うん。東海林君と渓流によく行くよ」
「今度、私の釣りにも付き合ってよ。一人で釣るのもなんだしさ」
「えっ?」
僕の心臓がまたバクンと大きく脈打った。
「私は餌釣りだけどね。一緒に釣りをしてくれる人がいたらいいな、って」
「そりゃ、いいけどさ」
「じゃあ、明日の放課後、笹熊川の落合橋で集合ってことで。よろしくね、先生」
小野さんは僕の手をポンと叩くと、立ち上がり、元気に小走りで駆けていった。僕はその姿を呆気に取られながら見送った。
その晩、僕は居間で家族と語らっていた。
「まあ、釣りデートなんて、あんたらしいじゃない」
母は上機嫌で笑った。
「デートなんてものじゃないよ。ただの釣りだよ、釣り」
僕は急に気恥ずかしくなり、弁解をした。
「でも、それがきっかけになるってこともあるぞ」
父までが冷やかす。
「小野さんって、あの活発な子でしょ? いいじゃないハキハキしていて。ちょっと、のんびり屋さんのあんたにはちょうどお似合いかもよ」
「もう、お母さん、やめてよ。そんなんじゃないってば話題変えようよ、話題」
僕は両手を振り、二人の暴走を止めようとした。
「そういえば、お父さんも私と付き合う前、釣りに誘ったわよね。ニジマス釣り」
母は思い出モードに入っている。
「そうだったなあ。イクラの餌はよかったけど、お母さん、ブドウ虫が触れなくてね。お父さんが餌を付けてあげたんだ。健也、お前も明日はちゃんと餌を付けてあげるんだぞ。ところで何を釣るんだ?」
「うーん。決まっていないけど、ウグイかオイカワかな」
そういえば、小野さんと何を釣るかまで相談をしていなかった。初心者が釣るとなれば、ウグイかオイカワが妥当なところだろう。
「じゃあ、餌はサシだな」
父親がニヤッと笑った。サシとは要するにウジムシだ。釣り具店に行くと、小袋におが屑を入れて売っている。この村では釣り具を売っている杉本商店で買うことができる餌だ。
「それこそ、サシの正体を言ったら嫌われちゃうよ」
「て言うことは、やっぱり小野さんのことが好きなんだ?」
母が茶々を入れた。父が笑う。僕はむくれながらも、こんな会話ができる家族であって本当によかったと思う。
家族のだんらんが一段落して、僕は父の部屋へ行った。タックルボックスを見せてもらうためだ。いろいろなルアーを見て、あの釜の主を釣るルアーのヒントが欲しかった。
「勝手に見ていいよ」
父はそう言いながら、パソコンに向かっていた。どうやら、会社から仕事を持ち帰ってきたらしい。父の目はパソコンに釘付けだった。難解な数字の羅列と、僕には解読不可能な文章がそこには並べられている。僕も大人になったら、こんな仕事をするのだろうか。それでも父は愚痴ひとつこぼさずに仕事をこなして、僕たち家族の生活を支えてくれている。父の背中を見ていると、大人の背負った重みがヒシヒシと伝わってくるようだ。
僕はトラウト用とブラックバス用のタックルボックスを開けた。確かにトラウト用のルアーはサイズの違いのみで、あまり代わり映えがしない。おそらく、釜の主はありきたりのルアーでは釣れないだろう。
僕はブラックバス用のルアーに目を移した。そこには様々な形のルアーが並んでいる。特に個性的なのが、トップウォータープラグと呼ばれる、水面で使うルアーだ。変てこな形をしていたり、プロペラが付いていたりと、見ているだけで楽しくなる。
(そういえば、釜の主は水鳥のヒナを襲ったんだっけ)
それを考えると、トップウォータープラグの選択はあながち間違っているとは言えないだろう。しかし、どれを見ても鳥に似ているルアーなどない。
「ねえ、お父さん、仕事中にごめん。鳥に似ているルアーってない?」
翌朝、僕は早々と学校に行き、東海林君が来るのを待った。僕のランドセルの中には秘密兵器が隠されているのだ。昨夜はタックルボックスとにらめっこをしながら苦労した。それでも、僕なりに考えあぐねた結論なのだ。
そうこうしているうちに、小野さんが教室に入ってきた。
「おはよう」
僕は明るく声を掛けた。小野さんは僕の側まで来ると、小さな声でささやいた。
「おはよう。じゃあ、落合橋ね」
「うん。必ず行くよ」
ちょっと小野さんの顔が赤らんで見えたのは気のせいだろうか。
続いて高田君や、他のクラスメートが登校してくる。
(遅いなあ、東海林君)
すると、目の下にクマを作った東海林君が現れた。
「どうしたんだよ、その顔?」
「昨夜、あいつを釣る方法を考えたけど、思いつかなくて一睡もできなかった」
東海林君は倒れ込むようにして、椅子に座った。
「大丈夫か? おい、僕が一応、考えてきたぞ!」
僕がそう言うと、スーパーのイワシの目のようだった東海林君の瞳が、急に輝き出した。
僕はランドセルの中をまさぐった。そして、うやうやしく秘密兵器を取り出す。
「おおっ!」
東海林君が叫んだ。
「ザラⅡか。なるほど考えたなあ。こいつなら水面でネチネチ操れる」
ザラⅡとはトップウォータープラグの中でも、ペンシルベイトと呼ばれる種類で、タマゴを細長くしたような形をしたシンプルなルアーだ。そのシンプルなルアーが竿の操作により、左右にスライドするような動きを見せるらしい。それを水面下から見れば、鳥がもがいているように見えるだろうと思ったのだ。
「今日の夕方、ため池で早速、これを試そうぜ」
東海林君が血走った目が、さらに血走る。
「悪い。今日は予定があるんだ。明日にしてくれないか?」
「わかった。俺も今日は休むわ。あー、でもこれ見たら少し安心したぜ。授業中に寝ちゃうかも」
「いいんじゃない。たまには」
そう僕が言った時には、既にいびきが聞こえていた。
太陽が西の空に傾きかけた頃、僕は落合橋で小野さんを待っていた。
「ごめん。待った?」
逆光の中を駆けてきたのは、はつらつとした小野さんだった。その爽やかなまでの健全さの中に、どことなく漂う異性の香りが僕を刺激する。自然と心臓の鼓動は高鳴った。
(デートじゃない。ただの釣りじゃないか)
そう自分に言い聞かせるが、体は正直なものだ。顔から湯気が出そうだった。考えてみれば、女の子と二人きりになるなんて、これが初めてかもしれない。
「僕も今、来たところだよ」
そんなことはない。だいぶ前から待ち焦がれていたのだ。
「ねえ、釣ろう、釣ろう」
釣竿を担ぎ、はしゃぐ小野さんを横目に、僕は川原への踏み跡を先に行く。斜面は急だったため、手を差し伸べた。小野さんの手が僕の手をギュッと握った。ふだん元気で男勝りの小野さんだが、この時ばかりは、すがるような力で僕の手を握ったのだ。そして、その手は温かかった。
「よし、ウグイやオイカワを狙おう」
「釣っても、もう学校の水槽には入れないね」
小野さんが少し照れたような笑いを浮かべた。どうやら、まだメダカの一件を気にしているらしい。
「たくさん釣れたら、甘露煮だっていいんだぞ」
「あー、食いしん坊」
「あははは……」
小野さんは釣り支度にかかった。まだ初心者ということもあって、手際がよいとは言えない。僕は小野さんの仕掛け作りを手伝うことにした。
「桑原って、さりげなく優しいよね」
小野さんがポツリとつぶやいた。
「えっ?」
「私、知ってるんだ。東海林君が転校してきた時、桑原が先生にいろいろ頼まれていたこと。でも、桑原ならば言われなくても、声を掛けていただろうなって思ってさ」
小野さんは僕のことをどんなふうに見ているんだろうかと思った。確かに先生に言われなくても、ため池で釣りをしている東海林君には声を掛けていたかもしれない。しかし、僕は自分で自分のことがわかるほど出来た人間ではない。
「僕って、優しいのかな? これでも結構、短気だぜ」
僕は先日、メダカの一件で言い争いをした、自分の姿を思い返していた。
「誰だって短気なところはあるわよ。私だって短気だし。でも桑原は優しいよ。それにいつも自分で考えて、正しいと思うことを実行しようとするもん。すごいよ」
小野さんの目には、僕はそんなふうに映っていたのかと正直なところ、驚きを隠せなかった。自分ではそんなに強い人間だなんて思っていなかったからである。
「僕はそんなに強い人間じゃないよ」
「でも、思いはあるでしょ?」
「まあね」
「それだけで立派だよ」
僕は生まれて初めて「立派だよ」なんて言われた気がした。
「そんな、ほめられたもんじゃないよ」
僕は照れながら言った。
「うちの親がいつも言っているの。『人は自分が評価するものではない。他人が評価するものだ』って」
小野さんが顔を上げて、ニッコリと笑った。僕は気恥ずかしさと嬉しさが入り混じって、ぎこちない笑いを返したと思う。
仕掛け作りは完了した。僕は用意していたサシを餌箱から取り出し、針に刺した。
「あっ、それサシでしょ?」
「知ってるの?」
「うん。本で読んだの。サシってウジムシなんだってね」
「気持ち悪い?」
「ううん。だって、この前のウグイもサシで釣ったんだもん」
やはり小野さんは男勝りである。ウジムシをものともしない。これは気が合いそうだ。そんな気がした。
小野さんが竿を振った。そこはやはり初心者だ。川の流れをうまく読めていないし、竿の扱いも不自然だ。時折、ウキが糸に引っ張られて、変な動きをする。
今日、僕は釣りをするのをやめた。僕も人に教えるほどの腕ではないが、こうなったら小野さんへの個人レッスンだ。
「違うよ。流れをよく見て」
「そうそう、流れに乗せて竿を送って」
小野さんの背後に回り、細かく指示を出す。そのうち、焦れったくなって手が伸びた。
小野さんと一緒に竿を握る。心臓の鼓動がまた高鳴った。竿の素材はカーボンという繊維でできている。カーボンは電気を非常に通しやすい。いつか先生が「人間の体の中にも電気が流れている」と言っていた。だとしたら、僕の心臓の鼓動も小野さんに伝わっているだろうか。
ウキがクッと水中に沈んだ。二人は息を合わせたかのように、竿を立てる。生命の振動が竿に伝わった。
川面から抜き上げられた銀色は、小野さんの手のひらに収まった。15センチ程の雄のオイカワだった。
「オイカワの雄だよ」
「へえー、よく雄と雌の区別がつくわね」
「オイカワの雄は尻ビレが大きいのさ。産卵の時期になると綺麗な色になるよ」
「これはメダカを食べない?」
小野さんが不安げな表情で、僕の顔を覗く。
「大丈夫。食べないよ」
「よかった。じゃあ、うちの水槽で飼おうかな」
小野さんが無邪気に笑った。僕はその笑顔に気をよくしてサシを付け直す。
陽はだいぶ傾きかけていた。夕映えの中に、長い竿がしなった。