第六話
その晩、父に明日、笹熊川でルアー釣りをしたいと伝えた。すると父は僕を部屋に招き入れ、何本かの竿を握らせてくれた。
「これなんかどうだ? パームスのシルファーSVS56S。グラスロッドだが、最高の調子だぞ」
既にお酒が回り、気分の良さそうな父親は竿先を手で曲げて、自慢げに言う。
「グラスロッドって?」
「今の竿はだいたいカーボンという繊維で作られているのはお前も知っているだろう?」
「うん」
「ところが、こいつはグラスという繊維を使っている。グラスの方が粘りがあって魚をバラしにくいのさ」
「ふーん」
お酒が入った時の父親の釣りの解説は、少々マニアックになる。
「見ろ、この理想的なベンディングカーブを」
僕には理解できない横文字を並べ立て、一人の世界に入ってしまうのだ。
「ところで明日は秀美ちゃんの息子も一緒に行くのか?」
「うん。それと農家の高田君」
「そうか。秀美ちゃんの息子にもパームスのロッドを使わせてやりたいな」
そう言って父親が手にしたのは、やや長めの竿だ。太さはこちらの方が、やや細いだろうか。
「こっちはシルファーのSGS60S。カーボンロッドだよ。彼はミノーの扱いがうまいから、この竿を気に入ると思うよ」
「でも高い竿なんでしょ? いいの、借りちゃって?」
「ははは、心配するな。でも折るなよ。もう廃盤になっている貴重なロッドだからな」
お酒が入った時の父は気が大きくなる。それに父はどうやら、僕たちに自分の竿を使わせたいようだ。
「わかった。遠慮なく借りるよ」
「えーと、リールはと、健也はダイワのトーナメントS2000iTを使え。秀美ちゃんの息子にはアブのカーディナル33を貸してやろう。古いリールでちょっと使い勝手は悪いが、彼ならば使いこなせるだろう。それにメンテナンスはちゃんとしてある」
カーディナル33は緑色の角張った独特なデザインのリールだ。それに比べてダイワのトーナメントS2000iTは最新型ではないが、白くて現代風のデザインをしている。対照的なリールだった。
「新しいライン(糸)を今夜中に巻いておいてやるし、使うルアーも選んでおいてあげるから、子供は早く寝なさい」
父が持ち出した糸は、それは派手派手しい黄色い蛍光色をしている。果たしてこんな糸で、警戒心の強いイワナやヤマメが釣れるのだろうか。
「この色が不思議かい?」
僕の疑問を見透かしたように父が笑った。
「うん……」
僕は自信なさげにつぶやいた。
「この色は意外と水の中では見えないものなんだよ。それに水の上ではよく見え、ルアーの位置が確認できるから腕も上達するってわけさ」
「なるほど」
僕は父の説明に納得した。今は僕よりずっと腕のいい父の言葉を信じるしかない。
「じゃあ、糸を巻いておいてね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
僕は父の部屋を出て、一階の電話へと向かった。もちろん東海林君に電話をかけたのだ。少し遅い時間だったが、まだ起きているだろう。
電話口に出た東海林君に竿とリールを父親が貸してくれることを話したら、彼は興奮気味に言った。
「本当か? 本当にパームスのロッドとアブのリールを貸してくれるのか?」
電話の向こうから彼の唾が飛んできそうだった。
「ああ、ぜひ使ってくれってさ」
「よーし、明日は釣りまくるぞ」
元気な声が飛び込んできた。電話線が震えているようだった。
その後、僕は自分の部屋に入り、ベッドに横になった。雨戸もカーテンも閉めなかった。
窓の外には転がりそうなほど丸い月が浮いていた。月の光は優しく僕の部屋の中を照らしている。温かく、心地よい光だった。僕は月の光に守られながら眠りについた。
翌朝、僕は目覚まし時計よりも早く起きた。もっと驚いたことは、父親が僕よりも早く起きていたことだ。
「これ、そろそろ健也に合うかな?」
父が外でウェーディングシューズを出していた。ウェーディングシューズとは、底にフェルトの生地を貼った靴のことで、それを履けば川の中でも滑らない。
「お父さん、おはよう」
「ああ、おはよう」
そのウェーディングシューズはフェルトが真新しく張り替えてあった。僕のためにここまでしてくれる父に感謝の気持ちで一杯だった。
「今日はこれを持っていけ」
父は小さなルアーボックスを僕に二つ手渡した。
一つは小魚の形をしたミノーがぎっしりと詰まり、もう一つには金属でできたスプーンというルアーが輝いている。
「ありがとう。お父さん」
僕はしっかりと父の目を見て言った。父はにこやかに笑ってうなずいた。
「朝ごはんの準備、できたわよ」
母親の声がすがすがしく響いた。それにしても今日はいい天気だ。ちぎれた雲が夏祭りの綿菓子のように飛んでは溶けていく。
僕は深呼吸を一回すると、食卓へと向かった。
八幡様の前では、既に東海林君も高田君も集合していた。二人は何やら語り合いながら洗っている。そんな二人を見て、僕はホッと胸をなでおろした。
東海林君はウエーダー(腰までの長靴)を履いている。一方、高田君はアユ釣り用のタイツを履いていた。
「君たち、そんな格好で自転車、こげるのかい?」
「なせばなる、だぜ」
高田君が豪快に笑った。
僕はといえば、短パンにウェーディングシューズと身軽だ。まだ九月といえば残暑が厳しい。この格好が夏の渓流釣りには向いていると自分では思っている。もっとも、蚊やヤマビルなど、吸血虫の類を気にしなければの話だが。
「それじゃ、行こうぜ」
高田君の掛け声で僕たちは、笹熊川の上流を目指して自転車をこぎだした。
勾配の急な林道を普通の自転車でガタガタと走るのだ。前を走る東海林君も高田君もブレて見える。
「ここらで休憩しようよ」
「なんだ、もうネを上げたのか?」
高田君が笑いながら振り返った。僕は自転車を降り、道端に腰掛けた。すぐ下を笹熊川が流れている。
僕は乱れた息を整えるように深呼吸をした。その時、目に入ったのは、山の木々だった。新緑のころは青々としていた葉が、少し色あせて見える。もう少し秋が深まれば綺麗な紅葉が見られるのだろう。
「この辺でも釣れるんじゃないか?」
東海林君が言った。
「そうだな。俺も上流が穴場だって聞いただけで、どの辺とはくわしくは知らねえんだ」
高田君が水面を覗き込んだ。東海林君も僕も後に続く。
笹熊川の流れは太く、水の量も豊かだった。段々になった流れは瀬と淵を交互に作り出し、生命の気配を伝えてくれる。ところによっては、釜のような淵で水が巻き返し、かと思えば、魚さえも留まることができそうにないくらいの急流もある。下流の穏やかな渓相とは違って、自然の牙を剥き出しにした流れがそこにあった。
「ずいぶんと水の量が多いな」
東海林君がつぶやいた。その声もゴウゴウと流れる川の音にかき消されてしまいそうだった。
「この川は豊かだからな。だから魚がいるのよ」
高田君が故郷を自慢するように言った。
笹熊川の水源である笹熊山はブナやナラの原生林で覆われている。ブナやナラの根は水を溜める力があり、それが安定した水量につながっていると父親から聞かされたことがある。都会周辺の山林では、杉などの植林により、鉄砲水が起こることも度々あるそうだ。杉は木材としては良い材料だが、根は水を溜める力がないのだとか。
「よし。じゃあ、ここから釣り始めよう」
高田君が元気良く、自転車に戻った。僕たちも後を追う。
僕は東海林君にシルファーのSGS60Sとカーディナル33を渡した。
「サンキュー。あこがれのロッドとリールを使うことができて嬉しいよ。お前のお父さんには本当に感謝だな」
さっそくリールをセットした東海林君が竿を振った。それは風を切り、ヒュッという心地よい音を立てた。
「おいおい、ここでブラックバスを釣るつもりか?」
ルアーの道具を見た高田君が慌てたように叫んだ。
「まさか。これでイワナやヤマメを狙うのさ」
東海林さんが笑って答える。
「ルアーでイワナやヤマメを?」
僕がルアーボックスを開いて見せた。高田君は興味津々でそれをのぞき込む。
「よく笹熊川でルアーを投げているやつを見かけるけど、本当にこんなので釣れるのかよ?」
「俺のお父さんは実際に釣っているよ」
「信じられねえな」
東海林君の手がミノーに伸びた。いつかブラックバスを釣ったラピッドというルアーだ。
「俺が証明してやるよ」
そう言うと、東海林君は素早く糸をルアーに結んだ。そして、川原へと降りていく。
高田君も僕も釣り支度に取り掛かった。高田君は餌釣りだ。どうやら餌はふんぱつしてイクラを用意したらしい。ふだん餌釣りをする人たちは、よく石の裏をひっくりかえして、カゲロウの幼虫であるカワムシを採ったりしている。
「なんだ、桑原もルアーか?」
高田君があきれたように言った。
「うん。ちょっと試してみようと思ってね」
僕は少し照れ臭そうに言った。そして糸の先にスプーンを結ぶ。スプーンはその名のとおり、さじの形のようにくぼんでいる。それが水中でヒラヒラと舞い、魚を誘惑するのだ。これで僕は、マス釣り場で一度だけ釣ったことがある。「釣った」と言うより、偶然「釣れた」と言った方が正しいかもしれない。それでも、このスプーンを信じたかった。
高田君と僕が川原に降りた時、東海林君は真剣な目付きでミノーを投げ、巻いていた。竿先をたえずツンツンと動かしている。ブラックバスを釣った時にも見せた、トゥイッチというテクニックだ。このトゥイッチによりミノーは生命が与えられる。
しばらく高田君も僕も、東海林君の釣りを眺めていた。
「ヤマメを狙うなら瀬か流れの中心、イワナなら流れの脇か淵だぞ」
高田君が背後から東海林君に声をかけた。東海林君は無言でうなずいた。
東海林君がミノーを投げる。ミノーは落ち込みの脇に着水した。その落ち込みの脇は流れが巻き返し、ちょっとした淵を作っている。
東海林君が竿を立てて、細かく振った。リールはほとんど巻いていないようだった。
「ヒット!」
東海林君の竿が大きくしなった。竿はグイグイと何度も絞り込まれ、糸の先に生命がついていることを教えてくれる。
「なんだか、ヘビがとぐろを巻くような引きだ」
東海林君がリールを巻ながらつぶやいた。
「そりゃ、イワナの引きだ。ヤマメはもっとビュンっていくぜ」
「おっととと!」
東海林君の顔がこわばった。
「どうした?」
僕が駆け寄った。ふだんクールな彼が慌てる姿を見ることなど、めったにないからだ。
「流れの中に逃げ込みやがった。こいつはスリリングでおもしろいぜ」
東海林君の口元が緩んだ。どうやら魚との駆け引きを楽しんでいるらしい。その横顔は根っからの釣り好きの顔だ。
しばらくすると口にガップリとミノーをくわえた魚が、足元に寄ってきた。かなりの大きさだ30センチはあるだろうか。
「おお、すげえ、でけえ!」
高田君が驚きのあまり、大声で叫んだ。
網など持っていなかったため、東海林君はそのまま魚を岸辺にずり上げた。川原の石の上で跳ねる魚は、30センチはあろうかという、大きなイワナだった。背中の虫食い模様といい、体の側面の白い斑点といい、綺麗な魚体だ。ヒレもピンと伸びて、まるで自分の存在をアピールしているようにも見える。
「いきなり尺物かよ。しかもルアーで」
高田君が感心したように言った。
尺物とは30センチを超えるサイズの魚を指す。一尺が30センチなのだ。
振り返ってみると、高田君の口はポカーンと開いたままだ。
「ふふふ、お前のアドバイスが効いたのさ。対岸の落ち込みの脇でルアーを潜らせて振ったら、狙いどおりにイワナが食いついたんだ。ブラックバスもいいけど、渓流は流れがあっておもしろいな。流れの中に突っ込まれると一瞬、ヒヤッとするぜ」
東海林君が照れたように笑った。
「対岸の落ち込みじゃ、俺の竿は届かないな……」
高田君は自分の竿と流れを交互に見つめながらつぶやいた。
「ルアーにはルアーの、餌釣りには餌釣りの良さがあるんじゃないかな?」
僕がそうと、東海林君も高田君も僕の方を向いた。
「そうだな」
そう先につぶやいたのは高田さんだった。
「このイワナ、お前にやるよ。家族へのおみやげにしろよ。俺は釣りを楽しむだけで十分だからさ」
東海林君が高田君に言った。彼にはポールさんにブラックバスをプレゼントした記憶が鮮明に残っていたのだろう。
「俺を見くびるなよ。数ではルアーなんかより、餌釣りの方が有利だぞ」
高田君が鼻息を荒くした。
「まあまあ、こんなところで言い争っていても仕方ないだろう? 東海林君だって悪気があったわけじゃないんだから」
「わかってるよ。しかし俺も正直、ルアーを見直したぜ。今までこんなもので魚が釣れるわけがないって半分バカにしていたんだ。でも、目の前でこんな大物をあっさりと釣られたんじゃ、認めないわけにはいかないもんな」
高田君は心底感心したように言った。
東海林君が少し照れたように笑ったかと思うと、急に真顔になった。
「俺も正直なことを言うと、この村に来るの、本当は嫌だったんだ。都会での生活に慣れていたからな。でも今はすっごく好きだぜ」
「そう思えば、お前はもう村人だ。俺たちの仲間よ」
高田君が笑いながら手を差し伸べた。東海林君も手を差し伸べる。二人はしっかりと、力強く握手した。東海林君が本当の村人になった瞬間だった。おそらく今度の月曜日に学校に来た彼は、今までとは違うだろう。
ビチビチ。
足元でイワナが跳ねた。
「いけね」
東海林君が慌てて針を外し、イワナを流れの中へ返そうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ。逃がしちゃうのか、それ?」
高田君が慌てたように叫んだ。
「俺は釣りを楽しむだけだからね。それに魚籠も持ってきていないし」
「だったらもらうよ。おかず、おかず」
高田君が大きなイワナを手でムンズとつかんで、竹の魚籠に押し込もうとする。
「ちゃんと俺が釣ったって言うんだぞ」
「わかってるって。ルアーのすごさを父ちゃんにも教えてやるぜ」
そんな二人の会話が微笑ましかった。
「もうすぐ禁漁だな」
東海林君が寂しそうにつぶやいた。
笹熊川は十月になるとイワナやヤマメを釣ることができなくなる。魚たちの産卵の季節でもあり、それを保護するためだ。
「なーに、冬には冬の遊びが一杯ある。俺たちがいろいろ教えてやるから、心配するな。さあ、どんどん釣ろうぜ」
山から吹きおろす風が木々の葉をサワサワと揺らした。豊かな水が流れる音と交ざって心地よい。
東海林君はテンポ良く、どんどんと上流に向かって釣り上っている。見れば高田君の竿の届かない範囲を狙っているではないか。彼なりに高田さんに気を遣っているのだろうか。
高田君はじっくりと仕掛けを流している。
僕も赤と金のスプーンに願いを込めて、流れの中へと放った。
じっくりと落ち込みの脇を引いてくる。すると金色の輝きの後ろに、黒い影がヌーッと近づいてきたのが見えた。
次の瞬間、のされるように竿先が曲がった。ずっしりとした重量感が手元に伝わる。
「こっちもきた!」
僕は必死にリールを巻いた。その魚は何度か流れに突っ込んだものの、意外とあっさりと足元に寄ってきた。
「何だこりゃ、ウグイじゃないか」
その声に高田君が駆けつけた。
「うわっ、でっけえウグイがルアーをくわえてらあ」
赤と金のスプーンの一本針をがっしりとくわえて、ウグイは僕の足元に横たわっていた。
「こいつも尺近くはあるんじゃねえか?」
ウグイの銀色の魚体を高田さんが撫でる。秋から冬にかけてのウグイは「寒バヤ」などと呼ばれ、塩焼きや田楽などでおいしく食べられる。特にイワナやヤマメ、アユなどが禁漁を迎えた後は、タンパク源として昔から重宝されているらしい。
僕はウグイの口から針を外した。
「どうする? これも持ってく?」
「うーん、大物だけどウグイはいらないや。でも何でウグイがルアーで釣れるんだ?」
高田君が首を捻った。僕は父とブラックバスを釣りに行った時、「コイやウグイも他の魚を食べる」と聞かされたことを思い出した。
「ウグイも他の魚を襲うことがあるらしいよ」
「えーっ、まさか、ウソだろ?」
高田君は目を丸くして叫んだ。彼が信じられないのも無理はない。僕だって未だに半信半疑だ。それでもウグイはルアーに果敢にアタックしてきたのだ。これは疑いようのない事実だった。
僕は大きなウグイを元の流れへと返した。
「おーい、高田ーっ! 今度はヤマメだ!」
上流で東海林君の叫ぶ声が聞こえた。
高田君と僕は東海林君の元へ駆けつけた。東海林君の足元には、25センチ程の美しいヤマメが横たわっていた。体の側面には大きなパーマークという、ヤマメ独特の楕円形の美しい模様がある。尾びれは少し赤く染まっていた。
「綺麗なヤマメだなあ」
僕が見とれていると、東海林君がプライヤーで三本針を外した。それを高田さんに渡す。
「悪いなあ。ヤマメはうまいんだよな。川魚じゃ、アユといい勝負だぜ」
高田君は嬉しそうにヤマメを魚籠に入れた。そう言う高田君の魚籠には、先程の大きなイワナの他に20センチ程のイワナが二匹入っている。いつの間にか釣っていたのだ。やはり数釣りでは餌釣りに分があるのだろうか。
「さあ、どんどん釣ろうぜ」
高田君の顔から笑いが漏れる。僕は少々焦っていた。ボウズ(一匹も釣れないこと)は逃れたものの、せっかく笹熊川の上流まで来て、ウグイ一匹とは情けない。
僕は東海林君を追い抜かして、その先の落ち込みの脇にスプーンを投げた。赤と金の金属は複雑な流れに揉みくちゃにされながら、沈んでいく。神経を釣り糸の先のルアーに集中させ、軽く竿を振ってみた。おそらくスプーンは巻き返しの底で、魅力的なダンスを踊っているに違いない。
すると、そのスプーンを押さえ込むようなアタリが、明確に僕の手元に伝わった。僕はすかさず合わせを入れる。すると、グネグネとした感触が伝わった。先程、高田君が言っていたイワナの感触だろうか。その魚はもがくように身を捩りながら、底へ突っ込み、複雑な流れの中へ逃げようとする。しかし、柔軟で粘り気のある竿は、それに追いつくように耐え、魚をあしらってくれる。僕はブラックバスや50センチのニジマスを釣った経験があるほどだ。このくらいのことでは、もう慌てなくなっていた。
落ち着きながらリールを巻く。すると足元に寄ってきたのは、30センチに満たないくらいのイワナだった。虫食い模様の背中と、ヒレの端が白いのが上から見た時のイワナの特徴だと父が言っていたっけ。
僕はイワナを岸辺にずり上げた。
「やった。イワナを釣ったぞ」
それは初めてルアーで釣った、自然渓流の魚だった。
「これでまた、父ちゃんの骨酒の材料が増えたわけだ」
嬉しそうにイワナを受け取った高田君がつぶやいた。どうやら高田君は親に随分と気を遣っているらしい。今回の釣りも家族サービスの一環のようだ。まさしくキャッチ・アンド・イート、漁業本来の釣りである。
ちなみにイワナの骨酒とは、イワナを素焼きにし、そこへ熱く燗をした酒を注いで飲むもので、小学生の僕たちには、ちょいとばかり早い飲み物だ。聞いた話では、イワナからダシが出て、非常においしいものらしい。
「結構、魚影が濃いな」
東海林君がつぶやいた。
「当たり前よ。この川は漁協が管理しているんだ。放流量も半端じゃないらしいぜ」
高田君が自慢げに言って退けた。
「てことは、そのイワナも養殖物?」
高田君の親は農業のかたわら、アユ釣りもよくやっているので、漁協とも仲がよい。僕は素直に聞き返した。
「まあ、そういうことになるかな」
「なんだ、天然物じゃないのか」
僕は少しがっかりした。あの竜山湖で釣ったニジマスとイメージが重なった。
「そうは言ってもよ。最近は釣りブームだろ。みんなで釣りをしていたら、魚がいなくなっちまうんだよ。都会から来る連中なんて、ちっこいのまでかっさらっていくんだぜ」
下流部でもよく、都会のナンバーの車を見かける。釣り人の中には稚魚までも、根こそぎさらっていく連中もいるのだろう。そうすれば、確かに川は死に絶える。魚の生命を途切れさせないためにも、釣り人の要求に応えるためにも、養殖した魚を放流することは必要なのだろうか。
「でも、こんな上流部まで放流しているんだな」
僕は太く、自然の色を濃く残した流れを眺めながらつぶやいた。
「この川の漁協は熱心だからな。釣り客が来れば、遊魚券でもうかるし、村の温泉宿に宿泊客が泊まるだろう?」
高田君は村の経済事情にも精通しているようだった。
「なるほど。ここでもイワナやヤマメ、そしてアユは人間が生きる道具ってわけだな」
東海林君が皮肉っぽく笑った。
「まあ、そう言うなよ。お陰で俺たちも釣りを楽しめるんじゃねえか」
ブラックバスだけではなかった。こんな小さな村でも、生命は人間の利害関係に利用されもてあそばれているのかと思うと、少し複雑な気分になった。
「俺、先に行くよ」
高田君は大石を飛び越えて、その向こうへと消えた。その時だった。
「うわっ!」
高田君の叫び声が聞こえた。
「どうした?」
東海林君も僕も大石を飛び越える。そこで見たもの。それは野生の猿の大群だった。
猿の群れは、僕たちをにらみつけながら、キーッキーッと金切り声を上げ、威嚇している。歯茎を剥き出しにして、敵意をあらわにしている奴もいる。数では圧倒的に猿の方が多い。形勢は僕たちの方が不利なのは明らかだった。
「どうしよう」
うろたえる僕に高田君が手で制した。
「目を逸らすな。にらみ返すんだ。目を逸らすと襲ってくるぞ」
その言葉に僕の心臓は爆発しそうだった。
東海林君をチラッと横目で見ると、直立不動のまま猿たちをにらんでいる。
キキーッ。
ボス猿だろうか。体格のよい猿が一際大きな声を上げた。猿たちは確実に僕たちとの間合いを詰めてくる。
剥き出した犬歯。鋭い爪。ともに頑丈そうだ。
(もう、ダメだ!)
そう思った時だった。
クワン!
他の猿を一蹴するほどの大きな鳴き声が、どこからともなく響き渡った。
僕たちの後ろで樹の枝がガサッと揺れた。
何と、僕たちの前に躍り出たのは一匹の大きな猿だった。モヒカン刈りのような独特なたてがみが印象的な猿だ。群れのボス猿と、そのモヒカン猿は見つめ合い、にらみ合った。緊迫した時間と空気が流れる。
モヒカン猿の背中には、何者をも寄せ付けない気迫が満ち溢れていた。
どのくらいにらみ合いが続いただろう。ついにボス猿が踵を返した。それに群れが続く。どうやら僕たちはモヒカン猿に助けられたようだ。
「はあーっ、助かったあ……」
僕の足から力が抜けた。我ながらだらしがなかったと思うが、その場にヘタリこんでしまったのである。
高田君と東海林君は立ったまま、そのモヒカン猿を見つめていた。
モヒカン猿がゆっくりとこちらを振り返った。その瞳はどこか優しく、僕たちに慈しみの眼差しを向けてくれているかのようだ。
モヒカン猿は東海林君を見上げた。すると、納得したような表情をして、また樹間へと消えた。
「すげえ、猿だったな。一匹で群れを追い払っちまうなんてよ。かつては風格のあるボス猿だったんだろうな。何かの理由で群れを離れて、今ははぐれ猿ってところか」
高田君が感心したように言った。
東海林君はモヒカン猿の消えた方をいつまでも見ている。その口から意外な言葉が漏れた。
「お父さん……」
「えっ?」
空耳だったかもしれない。それでも僕の耳には確かに、そう聞こえたのだ。
「あの猿の目、死んだお父さんの目にそっくりだったんだ」
東海林君はなおも森の奥深くを見つめ、そうつぶやいた。