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第四話

 ポールさんのペンションは湖畔から少し山の方へ入ったところにある、しゃれたログハウスだった。車から降りたとたんに、桧のよい香りが鼻をくすぐった。

「さあ、カモン、カモン」

 ポールさんに続いてペンションに入ると、いかにも家庭的な作りで、なぜかホッとする。まるで友達の家に遊びに来ている感覚に近い。

 キッチンの奥からポールさんの奥さんが顔を出した。

「紹介するよ。マイワイフのキャサリンです」

「こんばんは。はじめまして。大きなバスをサンキューです」

 キャサリンさんの日本語もなかなか上手だ。そう言えば、ポールさんは日本に来て十二年になるそうだ。

 僕たちはポールさんに案内され、二階の部屋に入ると、そこはまるで清潔感のあるロッジという感じだった。そこに荷物を置き、再び一階に戻る。するとキャサリンさんは既にキッチンでブラックバスをさばいていた。

 東海林君も僕も興味津々でキッチンを覗き込んだ。一体どんなふうにブラックバスが料理されるのか知りたかった。

「バスはとてもおいしい魚ですよ。今日はムニエルにします」

 キャサリンさんがニッコリ笑って言った。目が細くなり、目尻のしわが極端にしぼんだ。

「ムニエルですか。それは美味しそうだなぁ」

 父が舌なめずりをした。

 キャサリンさんの日本語はポールさんよりクセがなく、上手だ。それにポールさんがでっぷりとしているのに対し、キャサリンさんは痩せている。その対照的な夫婦が仲良く暮らしているのが、どこかほほえましくもあり、おかしかった。

 程なくして僕たちの目の前にブラックバスのムニエルが運ばれてきた。それは皮をむいた、厚みのある切り身で、食べごたえがありそうだった。おそらく東海林君が釣った、あの53センチのブラックバスに違いない。ニンニクのよい香りが食欲をそそる。

「おおーっ、これがブラックバスのムニエルかあ……」

 僕が驚きながら眺めていると、ポールさんが東海林君と僕にオレンジジュースを運んできてくれた。ポールさんと父親は早速、ビールで乾杯をしている。

「いただきまーす」

 僕はナイフをブラックバスの切り身に入れた。思ったよりも柔らかく、脂がジワーッとにじみ出てくる。僕は一口大に切ったブラックバスを口へ運んだ。

「うまい。うまいよ、これ!」

 僕は思わず叫んでしまった。ニンニクと特性ソースがからみ合い、川魚独特の臭みは感じられない。ムニエルだから油っこいかと思ったが、意外とさっぱりしている。僕は次から次へとブラックバスを口に運んだ。

「いやー、本当においしいなぁ。確かにスズキに似ているかもしれない」

 父もそう言いながら、ブラックバスを頬張っている。

 向かいに座っている東海林君を見ると、まだ手をつけていない。両手を組み、まるでお祈りでもしているかのようだ。一分くらいして、静かに目を開けると、彼はようやくブラックバスをナイフで切り始めた。

「うん、うまい!」

 東海林君が静かに言った。彼は一口一口噛み締めるように味わっているようだ。彼の新記録となったブラックバスの味は、きっと僕の舌とは違う味をとらえているのかもしれない。

「おかわり、ありますよ。どんどん召し上がってくださいね」

 キャサリンさんがエプロンを着けたまま、テーブルに座った。ポールさんが彼女にもビールを勧める。するとキャサリンさんはチビチビとすすり始めた。まるで父親が焼酎を飲む時のようだ。

「それにしても、今日使ったルアーは魚に全然似ていなかったな」

 僕が東海林君に話しかけた。

「ああ、クランクベイトのことかい? あれは魚に似せて作られているんじゃないよ。あれはバスの攻撃本能を刺激するんだ」

「ああ、なるほどね」

 僕は釣りの前に父から見せられたルアーを思い出していた。するとそこに、ほんのり赤い顔をした父が口を挟んだ。

「バスをイライラさせるんだよ。今日、健也に貸したルアーを振ったら、音がしなかったか?」

「何か、カラカラ音がしたけど」

「あのルアーにはラトルという玉が入っているんだ。音でもバスを刺激するように作られているんだ」

「へえー……」

「俺が前に住んでいた神奈川では、よく真夜中に暴走族が走っていてね。うるさいのなんのって。張り倒してやりたかったよ。それと同じだな」

 東海林君が笑いながら、張り手をするふりをする。

 まったくルアーとはよくできているものだ。僕はルアーの奥の深さに少しだけ首を突っ込んだような気がした。

「人間ならば手で追い払うところだけど、魚には手がないだろう。だから口で噛み付いて追い払おうとするんだ」

 東海林君がパーの手を勢いよく握り、グーを作った。まるで魚が一瞬で口を閉じるように。

「ところでブラックバスは本当に他の魚をたくさん食べるの?」

 僕がそう尋ねると、父がやや神妙な顔付きになった。

「明日の朝、また釣りをしよう。その時、答えを教えてやるよ」

 父親はビールをグーッとあおった。

「おかわり、ください」

 僕がそう言うと、キャサリンさんはニッコリ笑って、ムニエルを皿の上に乗せてくれた。

「東海林君はいいのか?」

「いや、俺はお腹というより、胸がいっぱいだ」

 そう言いながらサラダに手を伸ばす。

「焼きたてのパンもあります」

 キャサリンさんが持ってきてくれたパンは形こそ不格好だが、いい匂いが漂ってくる。食べ盛りの僕としては、本当はご飯を食べたいところだが、たまには夜にパンを食べるのも悪くない。

 僕は早速パンに手を伸ばした。

「あっちちちちっ!」

 焼きたてのパンは本当に熱かった。パンをフーフー言いながら食べる機会など、そうざらにあるものではない。僕は少し粗っぽいけど、素朴な小麦粉の味を噛み締めながら飲み込んだ。

 ポールさんと父親はビールからウイスキーに変え、釣りの話で盛り上がっている。

 東海林さんが急に立ち上がった。彼は部屋の隅に立て掛けてある古びたギターを手にすると、ボロンとかき鳴らした。

「これ、弾いてもいいですか?」

「プリーズ。どうぞ、どうぞ」

 真っ赤な顔をしたポールさんが答える。

 東海林君はペグを回しながら音を調節し始めた。彼がギターを弾けるなど今まで知らなかった。

 ポーン、ピーン……。

 絃を調節する音が響く。みんな東海林さんに注目した。

 東海林君がギターをつま弾き始めた。続いて澄んだ美しい声が僕の耳に。

「いつくしみ深き 友なるイエスは……」

 そう歌い出された曲は、親しみのあるメロディだった。

「何の曲だろう?」

 僕は父親の耳元で、歌を邪魔しないようにささやいた。

「賛美歌だよ。イエス・キリストをたたえる歌さ」

 ポールさんもキャサリンさんも、真顔で東海林君の歌に聞き入っている。東海林さんの澄んだ歌声は、ログハウスの桧に染み込んでいくようだった。そしてその声は、いつも学校の音楽の授業でつまらなそうに歌う東海林君の声とは、まるで別ものだった。

「アーメン」

 その言葉を最後に曲は終わった。みんなで東海林君に拍手を送った。彼は照れ臭そうに頭をかいた。お酒を飲んだわけでもないのに顔は真っ赤だ。

「あんた、クリスチャンかね?」

 ポールさんが親しげな笑みを浮かべて、東海林君に歩み寄った。

「僕は違います。でも死んだ父がクリスチャンでした。よく教会にも連れていってもらったので、この曲が耳に残っていて……。好きなんですよ、この曲」

 東海林さんはギターを元の場所に戻しながら、照れ笑いをしながら言った。

「実は私たちもクリスチャンです。神を賛美し、感謝することは大切なことね。お客さんの前ではお祈りしませんが、いつも心の中でお祈りしてます。今日、バスが釣れたのも、こうやっておいしい食事ができたのも神のみ恵みです。感謝の気持ちを忘れないでください」

 ポールさんはやや熱い口調でそう語った。東海林君は真剣な目でポールさんを見つめ返していた。

 僕は神様などいるかどうかわからなかったが、確かに感謝の気持ちは大切だと思う。

「お礼に私も一曲、お聞かせしましょう」

 ポールさんは窓の脇にあるピアノに向かった。学校の音楽室にあるピアノは、シロナガスクジラの口のような大きなピアノだが、ここにあるのは家具調のかわいらしいピアノだ。

 心地よい和音が響いた。ポールさんが何やら英語で歌い出す。

「ビートルズのレット・イット・ビーだな」

 どうやら父はこの曲を知っているらしい。ポールさんの声は少ししわ枯れているが、深みのある声だ。

「レット・イット・ビーってどういう意味?」

 僕が父に尋ねる。

「なすがままに、というさ」

「ナスがママ?」

「そのままにとか、自然にまかせてってことさ」

「ふーん」

 深みのある声と繰り返される「レット・イット・ビー」という言葉は、僕の頭の中をグルグルと回った。

 それはブラックバスの問題や東海林君の心の傷を、成り行きにまかせろと言っているようにも聞こえる。

 ポールさんが歌い終わり、みんなでまた拍手をした。ポールさんは照れることなく、自信たっぷりに「イエーイ!」と叫んでいる。まるで自分の演奏に酔っているようだ。

 ポールさんが新しいウイスキーを開けた。父はあまり飲んではいないが、ポールさんはかなりの酒豪である。そして豪快な笑いが絶えない。楽しい夜だった。

 僕はふと思った。アメリカ人と日本人がこうして仲良く暮らせるのに、どうしてブラックバスは日本の魚と仲良く暮らせないのかと。


 その夜は早めに床についた。翌朝は早くから釣りをするらしい。だがポールさんと父はテラスで何やら話をしている。時折、英語交じりの会話が聞こえた。

「なあ、さっきの賛美歌、すごくよかったよ」

 僕は隣のベッドに横たわる東海林君に話しかけた。

「ああ、あれね。教会でよく聞いていてさ。自然と覚えちゃったんだ。俺は洗礼も受けていないし、心の底から神様を信じているわけじゃないけど、あの曲は好きなんだよな」

 東海林君が天井を見つめながら言った。

「ギターはどこで覚えたの?」

「お父さんのギターを触っているうちにね。最初は見よう見まねで、そのうち教本を買ってきて独学で覚えたのさ」

「もしかしてギターで賛美歌を歌ったのは、お父さんへの報告だったんじゃないの?」

「ピンポン。ご名答だよ。お父さんが釣ったバスは52センチが最高だった。俺はそれを1センチ上回る53センチを釣ったんだ。ついにお父さんを越えたぞ。でも、これもお前のお父さんのお陰だよ」

 東海林君が僕の方を向いてニッコリと笑った。その笑顔は心の底から感謝をしているような笑顔だった。

「ああ、心地いい疲れだな」

 東海林君があくびをしながら、体を伸ばした。僕もつられてあくびをする。自然と涙が出る。あくびをすると涙が出るのはなぜだろうか。

 いつの間にか東海林君の寝息が聞こえた。規則的に繰り返される呼吸は、子守歌のように僕を眠りへと誘った。自然とまぶたが重くなる。

 外で豪快な笑い声が聞こえたような気もする。しかし羊を数える必要はなかった。


 翌朝は四時過ぎには目が覚めた。心なしか右手が痛い。昨日、たくさんブラックバスを釣ったせいで、筋肉痛にでもなったのだろうか。

 僕がモゾモゾと動き出したので、東海林君も目を覚ましたようだ。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

 東海林君は眠たそうな目をこすったが、すぐにパチッと目を開いた。おそらく早朝の釣りがしたくてウズウズしているはずだ。朝とか夕方はよく魚が釣れる時間帯なのだ。

 父は深酒が過ぎたのか、ゴーゴーといびきをかいて寝ている。だが父が車を出してくれなければ釣りはできない。少々かわいそうな気もしたが、僕は父の体を揺すった。

「お父さん、朝だよ。釣りに行こうよ」

「うーん。もう少し……」

 寝ぼけた声で父が返す。半分開いた目もまた閉じてしまった。

「会社じゃないんだよ。釣りだよ、釣り!」

 僕が大きな声を耳元で上げると、ハッとしたように父が跳び起きた。

「ああ、そうだったな。支度でもするか」

 父はヒバリの巣のようになった頭をかきながら、あくびをすると、ベッドから足を降ろした。

 ポールさんはまだ寝ていた。僕たちを見送ってくれたのはキャサリンさんだった。

 父はハンドルを握り、車を竜山湖へと走らせる。昨日のお酒が残っていないか心配だったが、僕の父はかなりの酒豪だ。ふだんは母にお酒の量を抑えられているだけである。おそらく心配はないだろう。

 竜山湖は朝日にキラキラと輝いていた。昼間とも夕暮れとも違う、すがすがしい湖面の青だ。

 父は昨日と同じ場所に車を停めた。

 釣り支度をする前に、東海林君と僕は早速水の中を覗き込んだ。透明な水に5、6センチ程の小さな魚が群れを成して泳いでいるのが見える。

「ワカサギだ!」

 東海林君が叫んだ。

「そう、ワカサギだよ。使うルアーは何にするか、君ならわかるだろう?」

 父の声が背後からした。

「もちろんミノーです」

 東海林さんが振り返って、目を輝かせながら答えた。

 父の手には既にミノーが握られていた。小魚の形をしたルアーだ。

「これはラピッドというルアーのワカサギカラーさ。もともと渓流用に開発されたルアーなんだけど、どうも今のワカサギと同じくらいのサイズだし、動きもいい。使ってみるかい?」

 僕も東海林君も父親からラピッドを受け取ると、急いで車へと戻った。もちろん釣り支度をするためである。

 東海林君は相変わらず支度が早かった。僕がまだルアーに糸を結んでいる間に、もう岸辺でルアーを投げている。

 父も早々に支度を済ませ、ミノーを投げ始めているではないか。僕は少しあせりながらも、ていねいに糸を結んだ。

 僕が岸辺に着いた時、二人は黙々とリールを巻いていた。時折、竿先をツンツンと動かしている。

 僕もルアーを投げ、二人のまねをしてみる。だが、ミノーはすぐに足元に戻ってきてしまう。

 よく見ると、東海林君は時々、リールを巻く手を休めたりしている。

「ヒット!」

 父が叫んだ。そう言えば、父親は昨日一匹も釣っていない。これが一匹目となる。父の竿が絞り込まれた。父は渓流用のストリームマスターという竿を使っている。イワナやヤマメを相手にする竿だから、ブラックバスが掛かると満月のようにしなるのだろう。

 ブラックバスが針を外そうと、必死にもがき、水面で暴れた。しかし、しなやかな竿は魚のショックを吸収して、それを許さない。父親も竿の角度を変えながら、確実に魚を寄せていた。

 父がブラックバスの口に指を突っ込んだ。そして抜き上げられた魚体は、あまり黒くない銀色だった。サイズはそれほど大きくないが、きれいな魚だ。

 ブラックバスは自分が釣られたことが信じられないような顔をして、エラをリズミカルに動かしている。時々尾ビレを動かして抵抗するが、しっかりと下アゴをつかまれているので逃げることはできない。

「やっぱり、トゥイッチとポーズですか?」

 東海林君がリールを巻きながら父親に尋ねた。

(トゥイッチ? ポーズ?)

 それは僕にはわからない釣り用語だった。

「そうだね。軽くトゥイッチングして、少しポーズを入れた方がいいみたいだね」

 父が針を外しながら答えた。それにしてもワカサギに似せたルアーに食らいつくとは、やはりブラックバスは小魚を食い尽くす害魚なのだろうか。

「トゥイッチっていうのは、竿先をツンツンさせながらリールをまくことで、ポーズっていうのは、リールを巻くのを止めることさ。それをテンポよくリズミカルに行うんだ」

 東海林君が初心者の僕にていねいに解説してくれた。

 僕はもう一度ミノーを投げて、言われたとおりにやってみる。だが意識し過ぎているのか、どうもギクシャクしてしまう。

「リールを巻くのがまだ速いよ。それじゃあ、バスは追いつけないぜ」

「だってブラックバスは他の魚を食べるんだろう? だったら猛スピードで追いかけてくるんじゃないの?」

 僕はブラックバスが大きな口を開けて、猛烈なスピードでワカサギを大量に飲み込む姿を想像していた。

「ワカサギの体の形と、ブラックバスの体の形を比べてごらん」

 父がポツリとつぶやいた。

 僕は昨日の夕方に東海林さんが釣り上げた、あのでっぷりとした大きなブラックバスの姿を思い出した。それに比べてワカサギは流線型で細長い。

「ワカサギは細長いから水の抵抗も少なくてスピードが出るのさ。一方、ブラックバスはズングリムックリしていて、それほど泳ぐのが得意な魚じゃないんだ。ワカサギがスポーツカーだとしたら、ブラックバスはワゴン車だな」

「じゃあ、何でミノーで釣れるの?」

「だからトゥイッチやポーズで弱った小魚を演出するのさ」

 僕の疑問には東海林君が答えてくれた。

「ブラックバスは弱った小魚くらいしか食えないのさ」

 意外な事実だった。何でも食い荒らすどう猛なギャングというレッテルを貼られた魚の正体は、実は意外と狩りが下手くそらしい。

「まあ、泳ぐ力のない稚魚なんかは別だけどね。それでも何でもかんでも食い荒らすというのは違うと思うな」

 父が補足した。

 僕はまたミノーを投げた。複雑な思いでリールを巻く。

 やっぱり巻くスピードやポーズの入れ方などがよくわからない。竿先をツンツンさせながらリールを巻くと、どうしても速く巻き過ぎてしまう。

 かといって、ツンツンしなければ、ミノーはただの棒のようで、魅力的な動きをしてくれない。

「ヒット!」

 今度は東海林君が叫んだ。僕はうらやましそうに彼を見た。自分の技量のなさが情けなかった。

 その時、僕の糸の先が何かにひったくられたかと思うと、急に手元に重みが伝わった。竿は折れそうなほどに曲がっている。

「き、きたっ!」

「おお、ダブルヒットか」

 父親が驚いたように僕たちの方を向いた。

「健也、竿を立てろ!」

 父親が叫ぶ。父親も僕の掛けた魚が相当の大物であることを理解したらしい。

 チラッと横目で見ると、既に東海林君はブラックバスを手にしていた。

 僕の魚は湖底へとうねるように潜り、一向に姿を見せない。かと思うと弾丸のように走りだす。リールからジリジリと糸が引きずり出されていく。

「こりゃ、バスじゃないな」

 父がつぶやいた。

 糸を巻いては引き出され、また引き出されては巻く。そんなやり取りを何分続けただろうか。

ようやく魚が足元に寄ってきた。50センチほどはあろうかという大きな魚だ。

 魚が一瞬、体を横たえた。その瞬間に見えたのは赤紫のきれいな帯だった。

「ニジマスだ。慎重に寄せろ」

 体力を使い果たしたニジマスは最後、ユラーッと岸辺に寄った。

 父がエラに指を入れ、尾をつかんで岸へと引きずりあげる。

 そこに横たわっていたのは、以前にバーベキューで行ったマス釣り場のニジマスとはまったく違っていた。胴体は厚みがあり、顔付きもどう猛な感じがする。それに歯も鋭い。これではブラックバスのように下アゴをつかんで抜き上げることはできないであろう。

「ジャスト50センチ」

 メジャーを当てた父が言った。

「外道(目的以外の魚)だけどすごいな。迫力満点だぜ」

 東海林君もニジマスに見とれている。

「ニジマスもワカサギを食べるの?」

「もちろん。このくらいの大型になると追い回して食べるよ。この湖ではブラックバスより、むしろニジマスの方がワカサギを食べているだろうね」

 父がパンパンに膨れたニジマスのお腹をさすりながら言った。

「でもニジマスって、もともと日本にいる魚でしょ?」

「違う、違う。ブラックバスと同じ、アメリカから来た魚さ」

 父は笑って答えた。

「ニジマスはよくマス釣り場なんかで馴染みのある魚で、養殖も盛んだから日本の魚だと思われがちだけど、移植されたのはブラックバスより遅いんだ。太平洋戦争で日本が戦争に負けて、アメリカの兵隊さんが日本に来て釣りを楽しむために持ち込まれた魚なんだよ。よくナントカ国際マス釣り場ってあるだろう。あれは国が経営してるってことじゃなくて、昔、外国人が釣りをしていたから『国際』なのさ」

「へえー、知らなかった。ブラックバスの方が先輩なんだね。そう言えば、村の笹熊川にもニジマスがいるよ」

「それは漁協が放流しているのさ。この湖もそうさ。ニジマスは日本では一部の川や湖を除いて自然繁殖がほとんどできないんだ。ただ養殖は簡単だからね」

 横たわったニジマスはまだ時折体をくねらせてもがいている。この魚も人の手で生まれ、育てられたのだろうか。

 僕はこの時、ふと思った。外来種のブラックバスを駆除する一方で、同じ外来種のニジマスは各地で盛んに放流されている。これは人間が生命を手のひらで、オモチャのようにもてあそんでいるのではないかと。少なくとも、子供の僕には納得できない話だった。

「ニジマスは流線型だな」

 東海林君がつぶやいた。

「そうだな。泳ぐスピードはブラックバスよりはるかに速い。それにニジマスは湖を回遊しているんだ。ふだん泳いでいる層もワカサギと一致する。漁協関係者の中にはブラックバスのせいでワカサギが減ったと言う人もいるけど、この湖のワカサギを食べているのはブラックバスより、むしろこのニジマスかもしれないな」

「他にも小魚を食べる魚っているの?」

 僕は身近なニジマスという魚が、他の魚を襲って食べるという事実を知って、少なからず衝撃を受けた。あのイクラやミミズで釣ったニジマスが、そんな凶暴な魚には思えなかったからである。だからもっと身近なところにも他の魚を襲う魚がいてもおかしくはないだろう。

「そりゃいるさ。日本にだってイワナやヤマメ、ナマズにハス、ウナギ……。数えればきりがないよ。それにふだん魚を食べないと思われているコイやウグイだって小魚を襲うことがある」

「コイやウグイが?」

 僕には信じられなかった。あのおとなしそうなコイやウグイが他の魚を襲って食べるなんて。

「そうさ。食物連鎖って言葉を知っているだろう?」

「うん。食って、食われてってことでしょ?」

「そうさ。ブラックバスの卵だって、けっこう他の魚に食べられているらしいよ」

 ウグイがイクラで釣れるならば、ウグイがブラックバスの卵を突っついてもおかしくはないだろう。

「それにブラックバスの稚魚は共食いもするしな。そんなに繁殖力が旺盛とは思えないんだけど、イメージ的に悪者にされている感じがするなぁ」

 東海林君がため息交じりに言った。

「よいしょ」

 僕がニジマスのエラに指を入れ、持ち上げた。ずっしりとした重量感が手だけではなく、腰や足にも伝わる。もうすぐ息絶えようとしているニジマスの口がわずかに動いていた。

「これをおみやげにしたら、ポールさんたち喜ぶぞ」

 父親が笑った。僕も得意そうな顔でニジマスを眺めた。赤紫のラインが美しかった。

 でも不思議だった。なぜトゥイッチもポーズもろくにできない僕のミノーに食らいついたのだろうか。

「何で、僕のミノーにこいつは食らいついたのだろう?」

 僕は素朴な疑問をそのままぶつけてみた。

「健也はリールを巻くスピードが速すぎたんだろう。あのスピードではバスは追いつけない。たまたま回遊してきたニジマスが食らいついたんだろうな」

「そうか」

 僕は自分のテクニックで釣ったのではないような気がして、少しがっかりした。

「まあ、運も実力のうちさ」

 東海林君が僕の肩を叩いた。僕は振り返って笑顔を返した。ニジマスの重みが心地よかった。


 ペンションに戻ると、ポールさんもキャサリンさんも僕の釣り上げたニジマスを喜んで受け取ってくれた。 

「オー、ビッグなレインボーね。これ、スモークすると最高!」

 ポールさんはニジマスにキスをしながら喜んでいる。

 僕たちはペンションで朝食を済ませた後、村へ帰ることにした。

 ペンションを去る時、ポールさんもキャサリンさんも僕たちを抱き締めてくれた。一晩宿を借りただけなのに、何だか何年も長い付き合いをしているようで、別れが少し寂しい気がした。何だか、ずっと東海林君とここにいたいような気もした。それでも母の顔がまぶたに浮かぶと、家にも帰りたい。複雑な心境だった。


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