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第三話

 土曜日の昼過ぎ。

 東海林君は母親と一緒に僕の家までやってきた。彼の手には二本の釣竿とタックルボックス。背中にはリュックサックが背負われている。

 東海林君の母親は申し訳なさそうな顔をしながら、何度もうちの親に頭を下げていた。そして横目でチラチラと東海林君を見る。本当は心配で仕方ないのだろう。

「大丈夫よ、秀美ちゃん」

 僕の母が東海林君の母親の肩をポンと叩いて笑うと、東海林君の母親は泣きそうな顔で笑い返した。

(本当に東海林君を誘ってよかったのだろうか?)

 ふと、そんな疑問が僕の頭の中をよぎった。しかし、東海林君は浮かれ気分で、早くも道具をうちのワゴン車に載せている。

「おっ、すげえなぁ。天井に釣竿が吊るせるようになっている。まさに釣り仕様の車だな」

 東海林君が感心したようにつぶやいた。彼の表情を見ればわかる。久しぶりのブラックバスとのご対面に、心は踊っているのだ。

「よろしくお願いします」

 東海林君の母親が深々と頭を下げた。少しパサパサの髪が風になびいて、その顔を隠した。だがその下は不安で一杯に違いない。

「お母さん、行ってきまーす!」

 元気よく東海林君が窓から手を振る。後ろを振り返ると、東海林君の母親は小刻みに手を振り、僕の母は大きく手を振っていた。

 こうして、僕と東海林君と僕のお父さんの男三人のブラックバス釣りは、心地よい揺れとエンジンの音で幕を開けたのである。

 竜山湖まではグネグネ道を走らなければならない。その度に僕が東海林さんにもたれたり、東海林さんが僕にもたれたりした。

「ほら、谷底を見てごらん」

 父の言葉に僕も東海林君も、道の下を流れる渓流を見た。水は清らかで、速く流れているところもあれば、淀んでいるところもある。それでも水のかたちは1秒たりとも同じではない。躍動感と生命感あふれる流れだった。

「あそこにはイワナやヤマメがいるよ」

 肩越しに父が笑っているのがわかる。

「水はいいよな。眺めているだけでもワクワクするよ」

 東海林君が目を細めながら、うっとりした表情で谷底の渓流を見つめている。

 やがて車はトンネルを抜けると下り坂に入った。

「竜山湖までもう少しだぞ」

 少しばかりグネグネ道を下ると、道は直線になった。そこで東海林君が天井を見る。

「おじさん、アブのアンバサダー5000Cを持ってきたんですね」

「ああ、それね。それはおじさんのお父さん、つまり健也のおじいちゃんからもらったものなんだ。当時としてはずいぶんとハイカラなじいさんでね。ルアーが好きだったんだな。よく銀山湖へ行って大きなイワナやサクラマスを釣っていたよ。ブラックバスも芦ノ湖とか河口湖とか釣りに行っていたんじゃないかなあ。アブのリールは頑丈だから手入れさえしっかりしておけば何年でももつよ」

 東海林君は父親のリールと自分のリールを見比べている。僕も見るが、色の違いだけで形はよく似ている。丸い太鼓型のリールで、正式にはベイトキャスティングリールという。

「君のリールも似ていないか?」

 僕が東海林君にそう尋ねると、彼は腕組みをして得意そうに解説を始めた。

「俺のリールはシマノのカルカッタだ。俺には最高のリールさ」

「リールにはこだわる人が多いからね」

 ここから先、父と東海林君は釣り道具の話を延々と続けた。正直、僕にはついていけなかった。

 しばらくすると、竜山湖が見えてきた。

 青い湖面に太陽が反射して、キラキラとまぶしい。僕は思わず目を細めた。

 近所のため池も時にまぶしく光る時がある。しかし、いつも近寄ってみると、淀んだ緑色をしている。

 それに比べて竜山湖の湖面は遠くから見る限り、限りなく青に近い。そこに太陽の光が命を与えるように降り注いでいるのだ。初めてのブラックバス釣りということもあるが、僕は何か心が踊るような期待を竜山湖に寄せていた。


 車は湖畔の空き地に停まった。僕と東海林君はすぐさま駆け出し、湖面を覗き込む。

 やはり、ため池の水とは違い、格段に澄んでいる。僕たちが近寄ると、慌てたように何かの稚魚が隊列を組んだまま右往左往していた。

「うーん、クリアウォーターだな」

 東海林君が呟くように言った。

「クリアウォーターって?」

「澄んだ水のことだよ。その反対がマッディウォーターっていうんだ。ちょうど村のため池がそれだよ」

 東海林君の目はそのクリアウォーターのように澄んでいる。学校でつまらなそうに淀んだ目とは正反対だ。

「さすがはバスマンだ。言葉もよく知っているね」

 後ろに立っていた父が、東海林君に笑いながら声を掛けた。

「ええ。死んだお父さんもバス釣りが好きだったんで、よく連れていってもらったんです。そのうちに自然と言葉も覚えました」

 東海林君はハキハキと答えた。この時彼が、亡くなった父親のことを思い出し、悲しんでいるようには思えなかった。

「そうか。それもお父さんの大切な遺産だな」

 僕は父のその言葉を聞いてハッとした。僕が今まで父から教わったことって何があるだろうかと考える。しかし、すぐには頭に浮かばない。

 僕がボーッとしていると東海林君は釣りの支度にかかっていた。

「ここは緩やかなカケアガリで、沖にはウィード(藻)が生えてる。夕方にはクランクベイトでいい型が狙えるよ。今の時間ならワームが有利かな」

 父が東海林君に助言した。すると彼は取り出した竿を一旦しまい、別の竿を取り出した。太鼓型のリールではない、スピニングリールというリールが付いている竿だ。

 太鼓型のベイトキャスティングリールが電気コードの巻き取りリールに似ているのに対し、スピニングリールは糸をつむぐように巻き取っていく。扱いも簡単で、初心者でもちょっと練習すれば投げられるようになる。

「じゃあ、スプリットショットリグで狙います」

「おじさんもそれがいいと思うよ」

 東海林君は手際よく準備を進めていく。釣りのうまいやつはだいたい準備が早い。糸の先にはワームがぶら下がっていた。

 ワームとはプラスティックゴムなどでできたミミズのような形をした柔らかいルアーのことだ。それに専用の針を付けて使用する。よく見ると、ワームの上に小さなオモリが付いている。よく川で釣る時に使うガン玉オモリにそっくりだ。

「これがワームのスプリットショットリグだ」

「スプリットショットって、そのガン玉のことかい?」

「そうとも言う」

 東海林君が苦笑いをした。

「スプリットショットはガン玉、リグは仕掛けって意味さ」

「ルアー釣りって何でも英語にしちゃうんだね」

「チッチッチッ、ルアーフィッシングって呼んでくれたまえよ」

 東海林君の竿が風を切った。ワームは緩やかな曲線を描いて飛んでいく。

 僕も無性に釣りがしたくなって父の元へ駆け寄った。父に手伝ってもらって準備をする。リールは東海林君と同じスピニングリールだ。

 ベイトキャスティングリールは僕には扱えない。あれは投げるのが難しく、熟練を要するのだ。下手に投げればリールの糸がグチャグチャになってしまう。だから僕が扱えるのはスピニングリールしかないのだ。

 僕が針を結んでいる時だった。

「ヒット!」

 背後で東海林君の大きな声が響いた。振り返ってみると、彼の竿が大きくしなっているではないか。僕は道具をそのままにして東海林君の元へ駆けつけた。

 水面で銀色の魚体が跳ねた。

「やった。すごいじゃん」

「なーに、小さい、小さい」

 東海林君はそう言うが、僕にはそう思えなかった。先程跳ねた魚体に圧倒されたのかもしれない。それに竿だって大きく曲がっている。

 東海林君は竿の角度を微妙に変えながら、リールを巻き続けた。すると黒っぽい魚体が近くまで寄ってきた。だが魚は僕たちの姿に気付くと、また沖へと走りだした。

「くっ、このファイトがたまらないんだよな」

 東海林君は竿をためながら、嬉しそうにつぶやいた。

 ユラーッとまた魚が寄ってきた。今度は竿を大きく持ち上げて、魚の顔を水面に出す。

魚が口を開けてもがいた。だが、東海林君は素早く魚の口に指を入れ、親指と人差し指で魚の下あごをつかむと、そのまま一気に抜き上げた。魚は尾をばたつかせながら抵抗するが、あごをしっかりとつかまれているため逃げられない。

 東海林君が高々と揚げた魚は、背中は黒く、腹は銀色で、体の脇に黒い大きな斑点がある。間違いない。ブラックバスだ。大きさにすると25センチほどか。

「すごい、これがブラックバスか」

「何だ、本物見るの初めてか?」

「うん。間近で見るのはね」

「俺も久々に釣ったよ。サイズとしてはちょっと小さいけど、いいファイトをしたぜ」

 東海林君は得意げな笑顔をたたえて、ブラックバスを繁々と見つめていた。久しぶりのブラックバスとのご対面に感動しているのだろう。

「いやー、お見事、お見事。さすがだね」

 父が拍手をしながら近寄ってきた。父も繁々とブラックバスの魚体を眺める。

「この湖には滋賀県の琵琶湖からブラックバスが移植され、放流されているんだ。だから相当デカイのもいるはずだぞ」

 父がブラックバスの魚体をなでながら言った。

「何でわざわざ琵琶湖からバスを持ってくるの?」

 僕は素朴な疑問をそのままぶつけた。

「琵琶湖じゃ迷惑な魚なんだよ。嫌われ者だからな。ブラックバスは」

 答えてくれたのは東海林君だった。

「まあ、琵琶湖でもバス釣りのガイドがいるからね。観光資源として成立しているとは思うんだけど……。とにかくこの湖は漁協がバスの存在を認め、放流しているんだ。だからここに来る前に遊魚券を買っただろう?」

 父が湖を見渡しながら言った。

「漁協って、村の笹熊川にもある……」

「そう、漁業協同組合のことさ。魚の管理をしている団体なんだよ。この湖ではブラックバスも大切な資源として認められているんだね。遊魚券もそうだし、貸しボートなんかでももうかるだろう?」

「ふーん」

 ブラックバスは日本のどこへ行っても悪者扱いされていると僕は思っていた。しかし、このような湖もあるものなのか。

 東海林君はブラックバスの口から針を外すと、優しく水へ返してやった。手で魚体を支えながら、何度かエラに水を通す。するとブラックバスは元気にくねりだし、やがて彼の手から離れ、沖の群青色の水の中へと消えていった。

「お前も早く支度しろよ。一緒に釣ろうぜ」

 東海林君に促されて、僕はまた釣り支度に戻った。糸の結び方がうまくいかなくて、何度も結び直す。あせると糸がヨレてしまう。それでも父は黙って僕の仕草を見ていた。

 結局、支度ができるまでに十五分程はかかっただろうか。僕も東海林君と同じくワームのスプリットショットリグにした。そして僕が彼の元に駆けつけた時には、既に彼は二匹目の魚を掛けていた。

 東海林君の竿は柔らかいのだろう。満月のようにしなっている。

「さっきよりのかはいいサイズだ」

 そう言いながら、彼は竿を上下左右へと振って、魚の動きに合わせている。

 水しぶきが炸裂した。太陽の光を反射して輝く湖面に、銀色の魚体が跳ねる。サングラスが欲しくなるまぶしさだ。跳ねた魚体は確かに先程のやつより大きそうだった。

 東海林君が慎重に魚を寄せる。そして先程と同じく口の中へ指を突っ込み、魚体を抜き上げた。

「35センチくらいはありそうだな」

 僕はポカーンと口を開けたまま、その魚体に見取れていた。

 大きく開いた口。意外とつぶらな瞳。背びれは尖っていて、触ると痛そうだ。

 東海林君は今度もブラックバスを水へと返した。

 ブラックバスの釣りはキャッチ・アンド・リリース、つまり釣ったら逃がすのが基本である。それがゲームフィッシングと言われるゆえんだ。

 僕も負けまいと、すぐにワームを沖へ向かって投げただが、それは投げ損ないのライナーとなって、足元にポシャリと落ちてしまった。

「あーあ、指を放すタイミングが遅すぎるんだよ。力まないで軽く投げてみろよ」

 東海林君が僕にアドバイスをくれた。目の前で立て続けに二匹も釣られて、僕も少しあせっていたのだろうか。

 僕は後ろを振り返った。父はパイプ椅子を持ちだし、優雅にタバコをふかしている。家をリフォームしてからというもの、父は家の中でタバコを吸わせてもらえない。いわゆるホタル族というやつだ。こんな時くらい思いっきり吸いたいのだろう。

 それにどうやら父は、僕と東海林君の関係に口を挟む気はないらしい。

 僕は気を取り直し、リラックスした気分で竿を振った。すると今度は沖に向かって、曲線を描いてワームが飛んでいった。

「ナイスキャスト。やればできるじゃん」 

「えへへへ」

 僕は照れながらリールを巻き始めた。

「ゆっくり巻くんだぞ。ワームが湖底をはいながら、ユラユラ揺れるイメージでな」

 僕は想像する。糸の先につながれたワームは今、湖底に着いたり、ちょっと浮いたりしながらブラックバスを誘惑しているに違いない。

 僕は竿先をツンツンと動かしながら誘いつづけた。モゾモゾとした感触は藻だろうか。

 何度かワームを回収しては投げる動作を繰り返す。何投目だっただろうか。僕の手元に藻とは明らかに違うググッとした魚の感触が伝わった。そして竿先が一気にしぼり込まれる。

「き、きた!」

 僕は竿を立てて、反射的に合わせていた。魚が掛かった時には、針掛かりするように竿を立てて「合わせ」という動作をする。それは餌釣りでも同じことだ。

「きたか。スプリットショットの場合はもっと優しくゆっくり合わせた方がいいんだけど、バレていないか?」

 東海林君が僕の竿先を眺めながら、心配そうに言った。だが竿は弧を描くように曲がっている。

 ちなみに、「バレる」とは釣り用語で、掛かった魚が針から外れて逃げられることをいう。

「大丈夫。バレてないよ。しっかりと掛かっているみたいだ」 

 僕は必死にリールを巻きながら答えた。その時、銀色の魚体が跳ねた。僕の心臓の鼓動はドックン、ドックンと高鳴り、竿を握る手からも汗が出ているようだ。リールをつかむ竿のグリップが汗で滑りそうなくらいだ。

「落ち着け、落ち着くんだ!」

 東海林君が隣で励ましてくれる。そんな声も耳に入らないくらい僕は動転し、そして夢中だった。

 目の前に魚が寄ってきた。ワームを口にくわえてヌーッと泳いでいる。

(こいつが俺の釣ったブラックバス。初めて釣ったブラックバス……)

 そう思うと心臓の高鳴りは頂点に達した。この時、僕はブラックバスの存在感に圧倒されていたのかもしれない。

 さて困った。僕には東海林君のように、ブラックバスの口の中に指を入れて引き抜くなんて技は到底できそうにない。

「そのまま岸にずり上げちゃえよ」

 東海林君も僕にそこまでの技量がないことはわかっているのだろう。無理せず、岸にずり上げることを勧めた。

 僕は彼の助言どおりにブラックバスを岸へと寄せる。それでもブラックバスは最後まで抵抗をあきらめなかった。岸辺で激しい水しぶきが上がった。それが僕の顔にかかり、冷たい。

 それでも、気が付いた時には30センチはあろうかというブラックバスが、水辺の石の上に尾をばたつかせながら横たわっていた。

 少々格好悪い取り込みだったが、こうして僕の人生初のブラックバスは見事に釣り上げることができたのである。

「やったな、おめでとう。綺麗なバスじゃないか」

 東海林君が僕を讃えてくれた。僕はブラックバスを改めて眺める。そして触ってみた。

 ざらついた、粗いウロコの感触がいかにも異国の魚のような印象だ。

「どうだい、初めてのブラックバスは?」

 携帯灰皿を手にした父が歩みよってきた。

「すんげー、ドキドキしたー」

 実際に僕の心臓は、まだバクバクと脈打ち、体の隅々まで血液を送っている感じだ。

「そりゃ、初めては誰だってそうさ」

 東海林君がフォローを入れてくれた。

 初めて自分で釣ったブラックバスは、太陽の光を反射して腹側が銀色に輝き、背中は東海林さんのおじいさんにもらったナスのように黒光りしている。

 僕は針を外すと、東海林君のように口に指を入れ、下アゴをつかんでみた。するとブラックバスはバタバタと暴れ、僕の手に生命の躍動感が伝わった。

(立派に生きているんだな。ブラックバスも……)

 僕が繁々とブラックバスを眺めていると、東海林君が魚体に触った。

「リリース(放流)するんなら早くした方がいいぞ」

 僕は東海林君に促されて、魚を水へ戻した。東海林君を見習って、何度か魚体を前後させ、エラに水を通すようにする。すると少し弱りかけていたブラックバスはみるみるうちに回復し、元気に沖へと泳ぎ出していった。

「初めてのブラックバス、おめでとう。ちゃんとリリースまでできたね」

 背後で父の声がした。

「お父さんは釣らないの?」

「夕方になってから釣るよ」

 父はそう言うと、またパイプ椅子へと戻り、本を広げ始めた。

「今日はコンディションがいいぜ。さあ、釣ろう」

 東海林君はそう言うと、またワームを投げた。僕も投げる。

 やはり友達と釣りをするのは気分がいいものだ。そんなことを思った午後だった。


 夕陽が山を紅く染め始めた頃、父が竿を持って近寄ってきた。釣り糸の先には、あのズングリムックリのルアーが付いている。

「これからの時間はクランクベイトでよく釣れるんだ」

 父のリールは東海林君がかじりつくように見ていたアンバサダーの5000Cだ。

 父の言葉を聞いて東海林君が車に戻った。そして同じようなベイトキャスティングリールの付いた竿を取り出すと、父からプレゼントされたバルサ50をぶら下げて戻ってきた。

「さっそくそれを使うのかい? そのリールはカルカッタ200だね?」

 父の目が輝いた。

「ええ。お父さんの形見なんです」

「そうか。それじゃあ、大切に使わないとな。そのカルカッタは二代目だね。初代は回転が良すぎてバックラッシュをよく起こしたんだ。それで改良されて二代目が登場したんだ」

 バックラッシュとはリールの糸がモジャモジャにからまることだ。ベイトキャスティングリールは熟練しないと、このバックラッシュがよく起こる。だから僕はスピニングリールしか使えないのだ。

「健也もクランクベイトに変えるか?」

 父親が小さめのズングリムックリを渡してくれる。メタリックに輝く、きらびやかなルアーだ。

「ダイワのピーナッツⅡっていうルアーだよ。けっこう釣れるんだぞ」

 よく見ると、そのルアーにも細かい傷がたくさん付いている。おそらくたくさんのブラックバスが、このルアーに噛み付いたのだろう。

 こうして、三人並んでズングリムックリを投げることになった。

 意外にも、最初に魚を掛けたのは僕だった。リールをただゆっくり巻いていると、不意に竿が引ったくられるように重くなった。そして魚が暴れだす。

「き、きたっ!」

 先程のワームの時とは違い、硬い、プラスチックのルアーを動かし続けて釣るのは、いかにもルアー釣りをしているという気分になる。

「おう、さっそくきたな」

 父が満足そうに笑った。

 夕陽に銀色の魚体が跳ねた。魚は潜ったり、跳ねたりを繰り返し、抵抗を続ける。

それでも僕は竿の角度を変えながら、リールを巻き、足元まで魚を寄せることができた。まだ口に指を突っ込む勇気はないが、岸辺に魚をずり上げる。

 30センチに満たないくらいのブラックバスだ。

 ワームの時とは違い、ズングリムックリのルアーには三本の針が付いている。僕が針を外すのに手間取っていると、東海林君が見かねてプライヤーを貸してくれた。

「さっさと外さないと、魚のダメージが大きくなるぜ」

 その言葉はブラックバスを愛する釣り人の、本音以外の何物でもなかった。

 その後も僕は快調にブラックバスを釣り続けた。型は小さいが相当な数を釣ったと思う。それに比べ、父も東海林君も沈黙したままだ。二人ともまだ一匹も釣っていない。

「二人とも、このルアーに変えたら?」

 僕がそう助言しても、二人とも「いや、いいんだ」と言い、ルアーを変えようとはしない。どう見ても、僕の使っているピーナッツⅡより、一回りか二回りは大きいルアーだ。

 それでも二人は黙々とルアーを投げ続けている。まるで自分のルアーを信じきっているようだ。

 おそらく、父や東海林君には、たくさん魚を釣ることよりも大事なことがあるようだ。二人を見ていると、そんな気がした。

 だけど、初めてブラックバスを釣る僕にとっては、今はたくさん釣ることが目標だ。 黙々とルアーを投げる二人を横目に、僕はその後も順調に数を伸ばしていった。もう何匹釣ったか覚えていない。


「ちょっと隣で釣り、いいですか?」

 舌足らずな日本語で話しかけてきたのは、金髪の外国人だった。下腹がでっぷりと出たおじさんだ。

「夕飯を釣りにきました」

 そう言って、金髪のおじさんは小魚の形をしたルアーを投げた。おじさんのリールは見たこともない変わったリールだった。

「そのリール、ゼブコのクローズドフェイスリールですね?」

 父が珍しいものでも見るように話しかけた。

「オー、このリール、最高ね。三十年付き合ってるよ。私、プロじゃない。楽しみだから、好きなように釣る。これ、最高のぜいたくね」

 金髪のおじさんが豪快に笑った。

「クローズドフェイスリールって?」

「今の日本じゃ、あまり見なくなったけど、ああいうリールもあるんだよ。うちにも天袋を探せばあるんじゃないかな。捨ててはいないと思うけど」

 父が懐かしむように、おじさんのリールを眺めながら言った。

「オー、ヒット、ヒット!」

 おじさんの竿が絞り込まれた。おじさんは愉快そうに笑いながら、魚の引きを楽しんでいる。

「アーハッハッハッ!」

 おじさんのふくよかな笑顔を見ていると、こちらまで笑いたくなる。おじさんは魚をそのままゴボウ抜きにした。

「まずはワイフ(妻)のおかずね」

 おじさんは満足そうにブラックバスを握り締めた。そして金属性のストリンガーという道具に魚をつなげる。

「ブラックバスを食べるんですか?」

 僕はブラックバスを食べる話など聞いたことがない。目を丸くしておじさんに尋ねた。

「アメリカでは普通に食べるよ。もちろんゲームフィッシングの対象でもあるけど、皮をむいて食べるとおいしい魚です。キャッチ・アンド・リリースも大切だけど、日本人は何でも形にこだわり過ぎね」

 おじさんがにっこり笑いながら答えた。

「確か、芦ノ湖に行った時、ブラックバス料理を出しているレストランがあったな。聞いた話ではスズキに似ているらしいけど」

 父が少し考え込むような顔をしてつぶやいた。

「私、ポールといいます。そこでペンションを経営しています。ブラックバス料理はなかなか評判ですよ。でも今日は土曜日なのに予約客がゼロ。だからワイフと私の分だけ釣れば十分ね」

 東海林君は会話に参加せず、黙々とルアーを投げては回収している。何か執念に取り憑かれているようだ。目付きが昼間とはまるで違う。

「オー、クレイジーボーイ!」

 ポールさんがそんな彼を見て、また豪快に笑った。

 その矢先だった。東海林君の竿が大きく曲がった。彼が今使っている竿はそれなりに硬いはずだ。それが根元近くから曲がっている。かなりの大物だ。

「ヒット!」

 東海林君の声が夕暮れの岸辺に、一際大きく響いた。

「やったね。デカそうじゃん」

「40センチオーバーは確実だろうな」

 父は目を細めて笑いながらも、どこかうらやましそうな顔をしている。

 東海林君と大物との駆け引きは続いた。東海林君は魚の動きに合わせて竿の角度を変えたり、リールを巻く早さを変えたりしている。

 一方、魚も負けてはいない。何とか針を外そうと、ジャンプしたり、潜ったりして必死の抵抗を見せる。

 跳ねた魚体からして、やはりかなりの大物だ。ポールさんのお腹のような、でっぷりとした銀色が夕陽に染まってオレンジに見えた。

 ついに、東海林君の勝利の時がやってきた。疲れきった大きなブラックバスは体を横に向け、近寄ってきたのである。僕はそのあまりの大きさに圧倒されてしまった。と言うより、恐ろしささえ覚えた程だ。ブラックバスの口には三本針がガッチリと食い込んでいる。これならバレることはあるまい。

 よく見ると、東海林君の膝が震えている。いや震えているのは膝だけではない。体全体が震えている。

「大丈夫か?」

「あ、ああ、たぶん」

 そう言う声も震えていた。きっと彼もこれほどの大きさのブラックバスを釣り上げたのは初めてなのだろう。

「ランディング(取り込み)はまかせて」

 父が水辺へ近づいた。父の影を見て、ブラックバスはまた沖へと突っ走る。東海林君の竿がきしんだ。

 だが彼がゆっくりと竿を持ち上げると、魚はまた浮いてきた。

「こいつもよく頑張った」

 父は大きなブラックバスを褒めたたえた。東海林君がリールを巻き取り、一段と高く竿を持ち上げる。すると、ブラックバスの大きな口がガバッと水面で開いた。それは僕のこぶしなど簡単に入ってしまいそうな、大きな口だった。

 父親はブラックバスの下アゴをつかむと一気に抜き上げた。水しぶきが舞い、でっぷりとした魚体が夕映えの空に輝いた。

「オー、ビッグ! オー、ファット!」

 ポールさんもさすがに東海林君の釣り上げたブラックバスの大きさに驚いている。

 東海林君が父親からブラックバスを受け取り、下アゴをつかむ。その大きさと重量感を確かめているようだ。

 その時、彼は笑ってはいなかった。むしろ目が潤んでいたように思える。もしかしたら天国にいる彼の父親に報告しているのかもしれない、と僕は思った。

「すげえバスだな。こんなのもいるんだな」

 僕が驚いていると、東海林君はていねいに針を外し、魚体にメジャーを当てた。

「53センチ。俺の新記録だ」

「やったね。おめでとう」

 僕は手を差し伸べた。

「ありがとう」

 東海林君は少し照れながも、強く僕の手を握り返した。

 それはそうと、先程から父とポールさんは何やら英語交じりで話をしている。

 東海林君と僕がブラックバスに見とれていると、父が駆け寄ってきた。

「ポールさんがね、そのブラックバスをくれないかって言ってるんだ。その代わり、今夜はポールさんのペンションにタダで泊めてくれるらしい。どうする?」

 ポールさんも円満の笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

「最高のブラックバス料理をごちそうしますよ」

 東海林君と僕は顔を見合わせた。今夜はテントで寝る予定だった。それはそれでよかったのだが、やはり柔らかい布団で寝たいものだ。

「いいよ。その前に記念写真を一枚、撮らせてよ」

 東海林君と僕と父と、そして53センチの大きなブラックバスを囲んでポールさんにシャッターを押してもらう。

 デジカメの画面に写った顔は、みんな満足そうな笑顔だ。ただブラックバスだけがつぶらな瞳を輝かせている。とても悪口を言われる魚の目には見えない。


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