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第二話

 食事が終わって部屋に戻ろうとすると、父が僕を呼び止めた。

「ちょっとお父さんの部屋においで」

 僕はちょっと胸騒ぎがした。東海林君と父親の釣り道具をいじったのが気に障ったらどうしようかと思ったのだ

 部屋に入ると父はルアーがぎっしり詰まった、タックルボックスというケースを開けて待っていた。

 いかにも魚の形をしたルアー。ズングリムックリとしたルアー。プロペラが付いた、まるで子供のオモチャのようなルアー。釣りをしなくても、見ているだけで楽しくなるような気分になる。

「みんな綺麗だったり、おもしろい形をしたりしているね。まるでオモチャ箱だ」

「そうだよ。お父さんのオモチャ箱だよ」

 ビールの酔いのせいだろうか。父は少し赤い顔で、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「これは全部、ブラックバスを釣るためのルアーなんだ」

「へえー……」

 僕はプロペラの付いたルアーを取り出し、電球の下にかざしてみる。それはどう見ても小魚はおろか、虫とか餌の類いには見えない。

「こんなので本当にブラックバスが釣れるの?」

「条件さえ合えばね。いつでもってわけじゃないよ。これはトップウォータープラグと言って、水面で使うルアーなんだ。プロペラの音がブラックバスの闘争本能を刺激するんだろうな」

「闘争本能?」

「イライラして噛み付くんだよ」

「ふーん」

 父がズングリムックリとしたルアーを取り出した。

「これをよく見てごらん」

 そのルアーは木で作られており、表面はニスのようなものでコーティングされているが、そこは小さな傷でザラザラだった。

「その表面の傷はブラックバスの噛み跡さ」

「これが?」

「そう。ブラックバスの歯は紙やすりみたいにザラザラなんだ」

 意外だった。獰猛な魚はみんな、もっとギザギザで鋭い歯を持っているかと思っていたからである。

「この傷はな、それだけブラックバスを釣り上げた、言わば勲章みたいなもんだ。これを秀美ちゃんの息子さんにプレゼントしようじゃないか」

 父が鼻の下をこすりながら、笑って言った。

「本当にいいの? お父さんの宝物じゃないの?」

「本当の宝物は胸の中にしまっておくものさ」

 少し照れたように、はみかみながら父が言った。でもさすが僕の父親だ。その言葉は僕の胸にズキンとしみた。

「ありがとう、お父さん。東海林君もきっと喜ぶよ」

 僕は自分の部屋に戻ると、ランドセルにズングリムックリのルアーを仕舞った。そして早めに布団に潜った。目をつぶると東海林君の嬉しそうな顔が浮かんで見える。

(東海林君、きっと喜ぶぞ)

 その夜はぐっすりと眠れた。


 次の日の朝。

 僕は駆け足で学校へ向かった。まだ教室には誰も来ていなかったが、ソワソワしながら東海林君が来るのを待った。たまには待たされる気分を味わうのも悪くはないものである。

 みんながポツポツと顔を揃え始めると、東海林君がいつものショルダーバッグをぶら下げてやってきた。

「おはよう!」

 僕は元気一杯に東海林君に向かって声を掛けた。

「ああ、おはよう……」

 東海林君は僕の声にびっくりしたように、ちょっとすっとぼけた顔をして言った。

 僕は早速、ランドセルからあれを取り出した。もちろんズングリムックリのあのルアーだ。

「僕のお父さんから、君へのプレゼントだよ」

 すると眠たそうな顔をしていた東海林君の目が、大きく見開かれた。

「おおっ、バルサ50!」

「バルサ50って言うんだ? このルアー」

「もう生産中止になったクランクベイトの傑作だよ。本当にもらってもいいのか?」

「ああ、もちろん」

 東海林君が金塊にでも触るかのように、恐る恐る手を伸ばす。そしてズングリムックリのルアーをすくい上げた。

 指先で表面の傷を確かめるようになぞる。その時の東海林君の目がうっとりとしていて、何とも心地良さそうだ。

「きっとこのルアーでたくさんのバスを釣ったんだろうな。表面がバスの歯型でザラザラだ。これは勲章みたいなもんだぜ」

「お父さんと同じこと言ってら」

「ありがとうよ。大切にするよ」

 その時、僕と東海林君の前にヌッと人影が現れた。ガキ大将の高田君だ。

「何だよ。桑原のオヤジもブラックバスを釣るのかよ。じゃあ、お前のオヤジも悪者だな」

 高田君は僕たちを見下しながら、鼻で笑うように言い放った。

「何?」

 僕は立ち上がり、高田君につかみかかろうとした。机が倒れ、ガコーンと大きな音にクラス中の視線が一斉にこちらに集中する。

 しかし意外なことに僕を止めたのは東海林さんだった。

「やめろよ。ピーマンを相手にしても時間の無駄だぞ。疲れるだけだ」

 東海林君の腕は、僕と高田君の間にしっかりと割り込んでいる。

 今度は高田君が東海林君を睨む。高田君は怒るとすぐ顔が赤くなる。丸刈りにしたとあいまって、その様はまるでタコだ。

「おい、お前。俺のことをピーマンとぬかしたな!」

 しかし東海林君は視線を合わせることなく、つまらなそうに続けた。

「お前は『ブラックバスは悪者だ』って言っているが、それは親の受け売りだろう? 一体お前は一度でもブラックバスを見たり、釣ったりしたことがあるのか?」

「そ、それはないけど……」

 高田君が口ごもる。どうやら形勢は東海林君に分があるように、僕には思えた。

「だったら、俺たちのやることに口を挟むな」

 東海林君の口調は静かだったが、他を圧倒するような迫力があった。その迫力にさすがに高田君も返す言葉がない。

 ガラガラ……。

 教室の扉が開いた。そして、笑顔で斎藤先生が入ってくる。高田君も、他のみんなも一斉に自分の席に着いた。

「みなさん、おはようございます。爽やかな秋晴れの朝ですね。こんな日は心も爽やかにいきたいですね」

 先生の視線は僕と東海林君、そして高田君を交互に見ているような気がする。

 僕は東海林君を見た。何食わぬ顔で前を見つめている。

 僕はこの時、東海林君に感謝すべきだったのだろうが、まだ腹の虫が収まらなかった。自分の父親を公然と侮辱されて怒らないやつがいるだろうか。


 その日も僕は東海林君と早々と下校した。高田君たちと遊ぶ気にはとてもなれなかったのである。

「今朝はありがとう」

 僕の心の中はまだ怒りに震えていたが、東海林君には感謝の言葉を送らなければなるまい。

「いいんだよ。あいつ単細胞だろ? 言葉ではこっちが上だってことをわからせてやったのさ」

 東海林君は照れたように笑いながら振り返った。しかしすぐに寂しそうな顔をすると立ち止まってしまった。

「どうしたんだよ?」

「お前のお父さんの悪口を言われた時、俺のお父さんの悪口を言われたような気がしてさ。あの時、本当はブン殴ってやろうかと思ったんだ」

 東海林君は右手のこぶしを強く握り締め、下を向いたまま呟いた。帽子の影でよくは見えなかったが、少し目は潤んでいたかと思う。

「俺さ、ここに来る前、空手を習っていてさ。先生から絶対にケンカで空手の技を使うなって言われていたんだ。でも今日ケンカしてたら使っちまいそうだった。だから口ゲンカで収めたんだ」

「そうか……」

 僕はこの時、東海林君も僕と同じ屈辱を味わっていたことを知った。

 東海林君が顔を上げた。傾きかけたオレンジ色の夕陽に照らされた彼の目は、やっぱりちょっと潤んでいる。

「それにさ、空手の先生は言っていたよ。空手は体だけじゃなく、心も鍛えるものだって」

 そう言い終えた時、東海林君は握っていたこぶしを解いた。

「君は十分強いよ」

 先日の高田君との取っ組み合いといい、今朝の切り返しといい、東海林君は本当に体も心も強いやつだと思ったものだ。

「冗談言うなよ。これでも一杯一杯なんだぜ。家に帰ればお母さんはお父さんの遺影にしがみついて毎日泣いているしさ。俺くらいはしっかりして、元気なところ見せないとな」

 東海林君は再び拳を強く握り締めた。そしてその言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。この時、僕は彼の背負っている重荷を少しでも理解してあげたかった。

 僕たちは僕の家の前で別れた。僕は帽子を脱いで大きく振った。

「今日はありがとうな。僕も頑張るから、お前も頑張れよーっ!」

 夕陽の中で大きく帽子が揺れ、「おーっ!」と元気な声が返ってきた。この時はもう、不思議と怒りは収まっていた。


 夜になって僕は居間で晩酌をする父に、今日の学校でのことを話した。

「あはははは、お父さんは悪者か?」

 父は怒りもせず、焼酎の水割りをチビチビすすっている。

「お父さんは悔しくないのかい?」

 もう僕の怒りは収まりかけていたが、心の棘が完全に抜けたわけではなかった。

「このあたりは農家が多いからなあ。それだけ素朴で昔からの伝統が守られていて、いい村だと思うんだけど、そういう所は得てして新しいものを受け入れない風土を持っているんだよ」

「ブラックバスもそのひとつ?」

「まあね。でも、それは世論によるところが大きいかな。マスコミなんかもこぞってブラックバスを叩くだろう。最近は行政もブラックバス対策に乗り出している」

「やっぱりブラックバスは悪い魚なの?」

 僕は身を乗り出して、父の顔の前に顔を突き出した。

「お父さんはそんなに悪い魚だなんて思っていないよ。むしろ人間の都合のいいように利用された可哀想な魚だと思うな」

「それって、どういうこと?」

 僕にはブラックバスと可哀想というイメージがどうも結び付かなかった。

 父はテレビのリモコンのスイッチを切った。キッチンからは母が皿洗いをする水の音が聞こえる。

「ブラックバスはね、大正時代に日米親善のために赤星鉄馬という人が、初めて日本に移植したんだ。放流されたのは神奈川県の芦ノ湖。それから昭和の時代になってゲーム感覚で釣りをする人が増えたんだな。ルアー釣りは餌も使わないし、西洋風で格好いいっていうんで、ジワジワと人気が出てきたんだ。ルアー釣りをする人の中にはただ『釣り』を楽しむだけの目的の人も多くいたんだ。釣り用語でキャッチ・アンド・リリースって言うんだけど、釣った魚を逃がすんだ。何しろ釣って魚との駆け引きを楽しむための釣りだからね。それまでの釣りはキャッチ・アンド・イート。つまり釣ったら食べるのが当たり前だったんだ」

 僕の父は酒が入ると舌がよく回る。

「ふーん。それでブラックバスはどうなったの?」

「そこさ。ゲーム感覚の釣りはおもしろいし、カッコイイってことでブラックバスは人気が出て、各地に放流されたんだよ。釣り具メーカーもこぞってバス用品を開発してね。ちょうどお父さんの青春時代だなぁ」

 父は腕組みをして天井を見上げている。どうやら、思い出に浸っているようだ。口元はニヤニヤしている。

「それで、それで?」

「うーん。その頃からもブラックバス害魚論がなかったわけじゃないんだ。それなりに研究も行われていたと思うよ。ちょっと古いけど一九七〇年代に茨城県の牛久沼でブラックバスの胃の内容物の調査が行われたんだ。その結果、ブラックバスの胃の中から出てきたのはほとんどアメリカザリガニやカエルだったんだよ。小魚はほとんど入っていなかったんじゃなかったかな」

「ふーん。ブラックバスって魚は食べないんだね」

 僕は少し安心したような気がして、父の膝の上から降りた。

「安心するのはまだ早いぞ。ブラックバスは魚を食べる。これは確実なことだ」

「だって今、胃の中からはザリガニやカエルしか出てこなかった、て言ったじゃないか」

 僕の一旦穏やかになった心臓が、また早く打ち始めた。

「お父さんは釣りに行った時、何度も小魚を襲うブラックバスの姿を目撃している。彼らは確実に魚を襲って食べる。これは事実だ」

「じゃあ、やっぱりブラックバスは悪者ってこと?」

 僕は不安に駆られて、思わず聞き返した。

「おいおい、それはいくら何でも短絡的すぎないか? 日本にも他の魚を食べる魚はたくさんいるぞ。それにブラックバス以外にも輸入された魚で他の魚を襲う魚はいる」

 僕は東海林君が釣り上げたカムルチーを思い出した。あの時、彼は「なんでこいつは許されるんだろう?」って言っていたっけ。その答えはまだ僕には見つけられていない。

「そうだ、健也。そういえばお前、まだブラックバスを釣ったことなかったな」

「うん」

「どうだ、今度の土日に秀美ちゃんの息子を誘って竜山湖にでもバス釣りに行こうか? テントでも持っていってさ」

「いいねえ、いいねえ」

 僕はすぐ父の誘いに飛びついた。ルアーといえば、まだマス釣り場のニジマスしか釣ったことがない僕が、野生のブラックバスを釣ることができる絶好のチャンスだ。しかも東海林君と一緒ならば楽しい釣りになるに違いない。

「それはいい考えね」

 台所仕事を終えた母が、父の肩に手を乗せて笑った。父も母の顔を見て笑い返す。こんな家族のだんらんが僕は好きだ。外で辛いことがあっても、仲良くやっていける家族に支えられているのだと思うと、胸がジーンと熱くなることがある。

「母さん、秀美ちゃんのところに早速電話をしてみてくれるかい?」

 母が手でOKサインを出しながら電話の方へ向かった。

 僕はその夜、父と随分と釣りの話しをした。これまでそれほど釣りに熱中していたわけでもなかった僕が、次から次へと質問責めにするので、父は僕にわかりやすく答えるのに忙しそうだった。

何しろ釣り用語は難解な言葉が多い。ルアーの世界となると横文字だらけだ。まだ英語すら習っていない小学生には少々きつい。

 時々、電話の方から母のすすり泣く声が聞こえた。おそらく東海林君のお父さんが亡くなった時の話をしているのだろう。でも僕は聞かないふりをした。母の電話は子供が聞いてはいけない世界のような気がした。何となく、そんな気がした。

「東海林君、今度の土日、OKだってよ」

 電話口から戻ってきた時の母は、いつもの母の笑顔に戻っていた。

「やったぁ!」

「彼も楽しみにしてるみたいよ」

 母は腰に手を当てて、自慢げに言った。まるで仲人をしたつもりででもいるのだろうか。

「そうだよ。あいつもストレスたまっているだろうから、息抜きさせてやらなきゃ」

「あ、お父さんだって仕事でストレスたまっているぞ」

 父親が母親に空になったグラスを差し出した。

「だーめ。今日はこれでおしまい。飲み過ぎは体に毒よ」

「今日は健也ともいろいろ話せて気分がいいんだ。頼むよ、もう一杯!」

 母は「しょうがないわね」と言いたげな顔をしながらグラスを受け取った。

 僕と父はウィンクをした。「やったね」の合図だ。 

 僕は気分よく自分の部屋へと向かった。そういえば宿題をやっていない。

(ま、いっか。いつものことだ)

 僕はスモールランプにして、布団に潜ってしまった。深い眠りに落ちるまでの時間は、どんな優秀な医者のかける麻酔よりも早かったと思う。


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