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最終話

 週が明けた月曜日の放課後、学校の児童の大半がため池に集まっていた。高田君の持ち込んだ「カワスズキ」ことブラックバスを返すためである。

 バケツの中で窮屈そうに身をよじる黒い背中は、早く解放され、自由を得たがっているようでもあった。だが、下アゴを突き出し、どことなくとぼけた顔をしたその魚は、見れば愛嬌があるではないか。

 ブラックバスはこの一週間、僕たちにいろいろなことを教えてくれた。水槽の底に沈んだミミズを食べる様など、愛嬌たっぷりだった。それに、泳ぐ力は小野さんが持ち込んだウグイの方が勝っているようで、先に餌を取られてしまうのだ。それどころか、一回り大きいウグイに追い立てられる一面もあった。そんなブラックバスに、教室のみんなからは「かわいそう」という声まで聞かれたほどである。

 いつしかブラックバスはどう猛な殺略者から、哀れみの対象へと変わっていた。もっともこれは、僕たちの学校の中だけの話だが。

「さあ、放すぞ」

 そう言って、高田君がバケツをひっくりかえす。バシャバシャという音とともに、緑色のよどんだ水に、透明な水が注がれる。だが、それはすぐに緑色と同化してしまった。

 黒い魚体が滑った。それは緑色の水の中に落ちると、しばらく動かなかった。いや、エラとヒレをゆっくりと動かしながら、その場に定位していたのだ。まるで、僕たちとの別れを惜しむように。

 やがて、ゆっくりとブラックバスは泳ぎ出した。深い緑色の水の底へと消えていく。僕たちはそれを、ただ黙って見送った。

「また、大人たちが駆除するかな?」

 高田君が心配そうにつぶやいた。だが、東海林君は笑う。

「俺たちが黙っていれば平気だよ。それに俺はここではもう、ブラックバスは釣らん。どうしても釣たかったら竜山湖まで行くさ。あそこはブラックバスを認めてくれているからな」

 そう言う東海林君の口調は、非常に爽やかだった。

「そういえば、父ちゃんが言っていたっけ。ため池でブラックバスを釣っていた連中は、ゴミを平気で捨てたりして、ものすごくマナーが悪かったって」

 高田君がうなるように言った。

「そいつらと俺を一緒にするなよ」

「あははははは」

 夕暮れのため池に、みんなの明るい笑い声が響いた。


 もう暦は十月に入っていた。九月いっぱいでイワナやヤマメなどの渓流魚は解禁期間が終了する。つまり、十月からは禁漁となり、それらの魚は釣ることができないのだ。秋は渓流魚の産卵期であり、乱獲により種の絶滅を防ぐ目的がある。 

 そして、その日は朝から強い風が吹き荒れ、西の空に暗雲が立ち込めていた。

「台風十一号と台風十二号は連なりながら、次第に勢力を増し、北上を続けています。今日の正午過ぎには本州圏内も暴風域に入る見込みで……」

 僕は胸騒ぎがした。

 あのモヒカン猿が台風十号を退けてくれたのだとしたら、いつかその仕返しがくるかもしれないと思っていたのだ。予感は的中し、台風は二連結で来るという。

「あなた、通勤、大丈夫かしら?」

 母親が心配そうに父親を見やった。

「ワゴン車でも、四駆だからね。たぶん大丈夫だよ」

 父親はのんきにトーストをかじりながら、コーヒーをすすった。

 雨は登校時間には降り出し、すぐ連絡網が回ってきた。

「健也、今日は休校だって」

 母親がそう言いながら、次の連絡先をプッシュする。

 雨はすぐさま、バケツをひっくり返したような豪雨となった。

 僕は空をにらんだ。

(もしかして、あの釜の主の怒りに触れたかな?)

 そんなことを思ったりもした。


 昼過ぎになって、外はすさまじい雨と風で、とても外出できるような状況ではなくなった。

 だが、そんな僕の家の前を通り過ぎた者がいる。

(……?)

 僕は一瞬、誰だかわからなかった。だが、それが高田君であることに気がつくのに時間はかからなかった。

 僕は慌てて、玄関を開けた。

「高田君、どうしたんだ? この台風の中を」

「うちは農家だからよ。田んぼや畑が心配なのよ」

 レインコートがお粗末に見えるくらいビショビショになった高田さんは、深刻そうな顔をして言った。

「だからって、この台風の中……」

「うちはこれでメシ食ってるんだ。これから、笹熊川の様子を見に行くんだ」

「危なくないか?」

「そんなことは百も承知だ」

 僕は思った。これは高田君の独断だ。おそらく、彼の両親は田畑に出ているだろう。川の増水が気になって、いてもたってもいられなくなったのだ。

「よし、僕も行く!」

 僕は玄関につるしてあった釣り用のレインコートをおもむろにつかむと、それを着た。

「おい、バカ。遊びじゃねえんだぞ」

「笹熊川がどうななっているか知りたいし、何せ、村の危機だ」

「わかった」


 笹熊川は既に怒り狂っていた。

 その音はゴウゴウなどという生易しいものではなく、ドドーッという、学校の大太鼓をずっと鳴らしっぱなしにしているような音を響かせている。腹に響くような轟音だ。

 そこには普段の穏やかな流れはなかった。すさまじい勢いで流れる茶色の濁流が、まるで竜のごとく駆け抜けていたのである。

「おーい、君たち、何やっているんだ!」

 そんな濁流に見とれている高田君と僕に声を掛ける者があった。

 遠くから、雨がっぱを着た男の人が近寄って来る。

「あっ、皆瀬さん!」

「桑原君、だめじゃないか。洪水警報が出ているんだぞ。笹熊川も警戒水域に達しているんだ」

 皆瀬さんは僕たちの姿を確認すると、すぐに帰宅するように促した。

「でも、笹熊川が氾濫したらうちの田んぼや畑が……」

「大丈夫。笹熊川は治水工事がしっかりしているからね。堤防も簡単には決壊しないよ」

 それでも高田君の顔から不安の影は消えない。心配そうに濁流を覗き込んでいる。

「さあ、ここから先は大人たちにまかせて。子供の出る幕じゃないよ」

 ジジーッ!

 皆瀬さんのトランシーバーが鳴った。

「こちら水無川を警戒中の庄田。水無川も警戒水域を大幅に超え、増水中!」

 それを聞いて僕はハッとした。そして、水無川の方へ駆け出した。

「おい、ちょっと待って!」

 そう叫ぶ皆瀬さんの声も聞こえなかった。

 水無川は笹熊川に注ぐ支流のひとつで、僕の家より少し下流で合流する。

 その名のとおり、普段の水無川にはほとんど水がない。しかし、今は増水し、警戒水域を大幅に超えているという。

 僕の父は、この水無川に架かる貢橋を渡って通勤しているのだ。もし、増水が著しければ父に連絡しなければなるまい。

 

 案の定だった。貢橋はもう少しで濁流に飲み込まれそうだった。

 水無川は川幅が笹熊川ほど広くない、そこにたくさんの水が一気に押し流されるわけだから、濁流の威力もすさまじい。

「おーい!」

 遅れて皆瀬さんと高田さんがやってきた。

「危ないじゃないか!」

 皆瀬さんが僕を一喝した。

「うちのお父さん、この貢橋を渡って通勤しているんだ」

「そうか……。それは心配だな」

 皆瀬さんが同情するようにつぶやいた。

「しかし、この水勢は危ない。早く帰ってお父さんに連絡したまえ」

「はい」

 そう返事をして、ふと、目を貢橋から川上に逸らした時だった。

「皆瀬さん、あそこのブッツケ、今にもエグレそうですよ!」

 僕のその声に驚いた皆瀬さんが振り向く。

 そこのカーブは激流が勢いよく堤防に打ち付けられ、今にも決壊しそうだった。

「本当だ。こりゃヤバイな。あそこが決壊したら畑はメチャクチャだ」

 皆瀬さんがトランシーバーを口に当てた。

「こちら皆瀬、こちら皆瀬。ただ今、水無川を警戒中。貢橋の上流100メートル付近の堤防が決壊寸前。至急対策を求めたし!」

「こちら災害対策本部。了解した。土嚢を持って対策に向かう」

 くぐもった声がそう答えた。

「ありがとう。君が気が付かなければ見落とすところだったよ」

 皆瀬さんがニッコリと笑った。高田さんも胸をなでおろしている。

「じゃあ、本当に後は大人たちに任せてもらうよ」

「よろしくお願いします」

 高田君と僕は、皆瀬さんに頭を下げてその場を立ち去った。


「ちょっと、健也!」

 家に帰るなり、母は烈火のごとく怒り狂った。

「この台風の中、川へ行ったですって? いい加減にしてちょうだい!」

「でも、僕が水無川の堤防の決壊を食い止めたんだ……」

「そうかもしれないけど、万が一ってことがあるでしょう? お母さん、心臓のあたりがキューッとなったわ」

 母親として怒るのは無理もない。

「お願いだから、心配掛けないでちょうだい……」

 そう言って、母は僕を強く抱きしめた。

「そうだ、お父さんに連絡しないと、貢橋が沈んじゃいそうだよ」

「そ、そう…。わかったわ。お母さんが連絡しておくから……」

 母の頬は滴で濡れていた。

 僕は少し思慮が足りなかったことを反省した。

「お母さん、ごめんなさい……」

「もう、危ないことはしないでね」

「釣りはいいだろ?」

「そのくらいはね」

 母が受話器に手を伸ばす。

「もしもし、桑原の家内ですけど……、いつも主人がお世話になっています……。あ、あなた? 水無川の貢橋が増水で沈みそうなのよ。え、そう……。うん……、わかった。それじゃあ」

 母は静かに電話を切った。

「お父さん、何だって?」

「今夜は会社に泊まるって……」

 母はようやく安心したような顔をした。そして、口からは「はあ」という深いため息が漏れる。

「水無川の竜が戻ってきたのかもしれないね」

 僕がそう言うと、母親がキョトンとした顔をする。

「何それ?」

「この前、釜の主釣りに連れて行ってくれた村役場の皆瀬さんが、何でも以前に村史ナントカ課にいたとかで、水無川の伝説の話をしてくれたんだ」

「どんな伝説なの?」

 母が身を乗り出してくる。

 僕はとうとうと語り始めた。


 ずっと昔のこと。

 水無川にはまだ豊かな水が流れていた。

 その川のほとりに一郎という百姓が住んでいて、毎日、よく働いていた。

 ある日、一郎は自分を見つめる若い娘に気づく。

 若い娘はおりゅうといい、一郎に想いを寄せていたのだ。

 一郎もまたおりゅうに惹かれ、恋仲となる二人。

 一郎は仕事帰りにおりゅうの家へとよく行った。だが、そこは武家屋敷のように立派であったという。

 一郎は「武家の娘とは一緒になれぬ」と、おりゅうと結ばれることをあきらめるが、おりゅうはお許しを得ていると言う。

 そんな一郎の行動を不審に思う者たちがいた。村人たちだ。

 一郎は仕事が終わると、川の中へと入っていくのだ。

 だが、一郎はおりゅうと会っているだけだと言って、村人の話を聞かない。

 そのうち、一郎には妖怪が取り憑いているに違いないということになり、一郎は猿ぐつわをはめられ、納屋の中へ閉じ込められてしまった。

 おりゅうは必死で一郎の名を呼ぶ。一郎はうめくが、その声はおりゅうには届かない。

 何日かが過ぎ、ようやくおりゅうの声がしなくなった時、一郎は開放された。

 しかし、おりゅうはもう、姿を現さない。

 一郎は生気が抜けたようになり、仕事もしなくなった。

 そして、川に身を投げて死んだのである。

 その時であった。川の水が空高く舞い上がり、竜の姿となったのは。

 竜は一郎のなきがらを抱えていた。

 その瞳は美しい玉のようでありながら、深い悲しみをたたえているようでもあったという。

 竜はそのまま、いずこへと去って行った。

 ふと、村人が川を覗き込むと、水は涸れ果てていたという。

 これが水無川の伝説である。


「ふーん……。おもしろい話ね。地元にそんな話があるなんて、今まで知らなかったわ」

「鬼女沢の伝説もすたれてしまったみたいだし、語り継ぐ人がいてもいいと思うんだよね」

 僕はやや、力説するように言った。

「そう言えば、中学校に郷土資料部っていう部活があるわよ」

「へえー……」

「今もつぶれていなければの話だけどね」

 母がおどけるように笑った。

「もし、つぶれていたら、僕が建て直そうかな」

「その意気、その意気!」

 母親にようやく明るい笑顔が戻ってきた。


 台風も落ち着いた金曜日の晩、僕は釣りの仕掛けを作っていた。川の餌釣りの仕掛けだ。何せ、明日の土曜日は小野さんと、笹熊川に釣りに行く約束をしているのだ。心が踊るのも無理はないだろう。

 トントン。

「よー、熱心だな」

 ドアをノックして入ってきたのは、父親だった。

「魚じゃなくて、女の子を釣るのが目的だったりして」

 父が茶化す。金曜日の晩ということもあって、既に父親の顔は真っ赤だ。相当の量の酒を飲んでいるようだった。

「そんなんじゃないよ。ただの釣りだよ」

 僕もこの時、赤い顔をしていただろうか。

「そっか、もう釣っちゃったのか? あはははは!」

「お父さん!」

 一階から母の怒鳴る声が聞こえた。

「でも、釣った魚にちゃんと餌はあげろよ。はははは」

 父の足は既に千鳥足だ。よくテレビのバラエティー番組で観る、酔っ払ったサラリーマンと大差はない。

「ところで餌釣りをするんだろう?」

「うん」

「じゃあ、これを持っていけ」

 父の手に何やら袋が握られていた。袋の中には桜色の粉が入っている。

「何、これ?」

「サクラエビの粉だよ。これを練り餌に混ぜると、よく釣れるぞ。お父さんはな、子供のころから釣り名人で、友達と競ってもこの粉を混ぜて、いつも圧勝していたのだ」

 父親は自慢げに鼻の下をこすった。

「ありがとう。もらっておくよ」

 確かに明日は練り餌を使おうと思っていた。練り餌とは粉状の餌を水で溶き、適当な硬さにして使用するものだ。明日は万能タイプの練り餌に、サナギ粉と呼ばれるものを配合するつもりでいた。それに、このサクラエビの粉を混ぜるのも悪くない。

「いつもありがとう、お父さん」

「なーに、かわいいせがれのためだ。いいってことよ」

 父親はいつも、酔っ払いながらでも、僕に的確なアドバイスをしてくれる。それで偉ぶったりはしない。

 僕はそんな父親を心から尊敬し、いつも何かを吸収したいと思っている。

「じゃあ、明日のデート、たっぷり楽しんでこいよ。おやすみ」

「お父さん、おやすみ」

 僕は父親の背中に、元気な声を返した。


 翌朝、待ち合わせ場所の落合橋へと向かう。既に小野さんらしき人影が遠くに見えた。

 十月に入ると禁漁となるため、釣りの対象はウグイやオイカワなどの、いわゆる雑魚となる。それはそれで楽しいものだ。小野さんと一緒ならば、たとえどんな釣りだって楽しいと思えるだろう。

「おーい!」

 僕は人影に大きく手を振った。人影の手も大きく揺れる。僕は駆け出した。

「待った?」

「ううん。私もついさっき来たところ」

 息を切らして尋ねる僕に、小野さんがにこやかに笑って答えた。

「実はね、私、昨日はあまり寝られなくって」

「僕もさ」

「うふっ」

「あはははは」

 二人で照れるように笑った。

「どの辺りで釣ろうか?」

 小野さんが川面を覗き込みながら尋ねる。

「そうだなあ。この前は橋の下で釣ったから、もう少し上流へ行ってみようか? でないと、また高田君に見られちゃうよ」

「あ、言えてる、言えてる」

 二人でまた笑った。そして、僕たちは上流へ向かって川沿いのあぜ道を歩き始めた。真っ赤な彼岸花が土手を彩っている。

「あの花って、綺麗なのか、毒々しいのかわからないわね」

「自然ってそんなものじゃないかな。たとえば水芭蕉やリンドウ、スズランなんかは眺めるだけならいいけど、毒を持っているからね」

「へえ、そうなんだ。知らなかったわ」

「この笹熊川だって田畑に潤いをもたらしてくれるけど、台風の季節にはよく大水を出すものね。自然をあなどっちゃいけないよ」

 僕は偉そうにも説教ぶってしまった。しかし、小野さんはそんな僕の話に耳を傾けていた。

「ふふっ、やっぱり桑原って」

 そこまで言いかけて、小野さんが口をつぐんだ。

「何?」

「ううん、何でもない」

 小野さんがいたずらっぽく笑う。そんな笑いをされると、気になるものだ。

「何だよ?」

「いや、桑原って、思ったとおりだなって。あはは」

 そう笑った小野さんは照れを隠すように、僕の前を歩き始めた。僕は鼻の下をこする。少し、いい気分だ。

「ねえ、手をつなごうよ」

「いいよ」

 小野さんは僕の申し入れを、快く受け入れてくれた。僕は竿を持つ手を持ち替えて、小野さんと手をつないだ。温かかった。いつか、釣竿越しに感じた温かさよりも、直につないだ方が温もりが伝わる。

 お互いの手は少し汗ばんでいたような気がする。


 どのくらい笹熊川を上流に遡っただろうか。淵で釣り糸を垂れる二人組みを見かけた。

「あっ、あれ!」

 小野さんが叫ぶ。見間違うはずもない。その二人組みは皆瀬さんと東海林君だった。

 僕は一瞬、二人のところへ行こうかどうしようか迷った。何せ、今日は小野さんと二人きりだ。あまり邪魔をされたくないのが本音だった。

 しかし、皆瀬さんと東海林君とは深い絆で結ばれている。このまま無視するのも気が引けた。それは小野さんも同じ思いだろう。

「行ってみようか?」

「うん」

 小野さんはやはり快くうなずいてくれた。

 僕には東海林君が餌釣り用の渓流竿を振っていることが、珍しく新鮮な光景に思えた。やはり彼にはルアーのイメージが付きまとう。

 小野さんと僕は彼岸花と女郎花が咲く土手を降りていった。

「やあ、何を釣っているんだい?」

 皆瀬さんも東海林君も振り向いた。

「やあ、未来の夫婦のお出ましだぞ」

 手をつないだ僕たちを見て、皆瀬さんがからかうように言った。

「ふふふ、もうすぐ親子になる人達が仲良く釣りをしているわ」

 小野さんも負けずに応戦する。皆瀬さんも東海林君も苦笑した。

 東海林君のウキが沈んだ。彼はヒョイと釣竿を上げ、魚を抜き上げる。

 小さな、金色にくすんだ魚が東海林さんの手のひらに収まった。それはピチピチと跳ねながら、元気一杯に暴れている。

「アブラハヤだね」

「そうさ」

 東海林君が答えた。

「今日はアブラハヤがターゲットなんだ」

 アブラハヤと言えば、普通は外道(目的以外の魚)だ。それを専門に狙っているという。

「アブラハヤはね、漁協が放流しているわけでもないのに、たくさんいる。簡単にいくらでも釣れるんだ。あれだけの台風の後なのにね」

 そう言いながら東海林君がアブラハヤを川に返した。

「まあ、それだけこの笹熊川が豊かな証拠だよ。ちゃんと生命の再生産ができているんだからね」

 皆瀬さんがそう言いながら、魚を抜き上げた。どうやら、この淵には相当な数のアブラハヤがたまっているようだ。

「いつか高田君が、アブラハヤを使ってうどんのダシをとるって言っていたよ」

 それは古くから地元に密着した、生活の知恵だと僕は思う。雑魚でもその恩恵にあやかれることは、喜ばしいことではないか。

「どうする? 僕たちもここで釣らせてもらおうか?」

 僕は小野さんの顔を覗き込むように尋ねた。

「うん。ここにしよう」

 小野さんも異存はないようだ。大きな淵は四人の釣り座を十分確保してくれている。

 小野さんと僕は早速、釣りの支度を始めた。僕は練り餌と一緒に父親からもらったサクラエビの粉を出す。見れば皆瀬さんと東海林君も練り餌を使っている。

「ちょっと、秘密兵器があるんだ」

 僕は自慢げにサクラエビの粉を持ち上げた。逆光の手からぶらさがる透明のビニール袋。青空に淡い紅色が浮き立っていた。

「何、それ?」

 小野さんが興味深そうにビニール袋を覗き込む。  

「サクラエビの粉だよ。練り餌に混ぜるのさ」

「ほう、それはおもしろいな」

 その僕の声に皆瀬さんが反応した。皆瀬さんも東海林君も釣竿をかついで、僕たちの方へ寄ってきた。

「俺も勉強しなきゃな」

 東海林君が笑いながらつぶやいた。

「俺は皆瀬さんと相談して決めたんだ。将来はうちの県の職員になって水産試験場に勤めるんだってね」

「すごい。もう将来設計、建ててる」

 小野さんが東海林君の言葉に驚いたように言った。考えてみれば、僕も将来設計など建ててはいない。もっと小さいころは宇宙飛行士になりたいと考えていたが、かなり大ざっぱな夢だ。果たして実現などできるだろうか。

「ふふふ、それがだめなら、釣り具店の店長さ」

「そう、その時は私に釣り具を安く売ってくれることになっているんだ」

 皆瀬さんが笑いながら言った。

「あー、僕にも」

「私にも」

 僕と小野さんが後に続いた。

「どっちかというと、釣り具店の方が私たちにはいいわよね?」

 小野さんがおどけながら同意を求める。

「どちらにしろ、魚と関わる仕事がしたいな」

 そう言う東海林君の瞳には力がこもっていた。

「僕は、まだわからないや。先は長いもんね」

 僕は負け惜しみではなく、気楽に、肩の力を抜いてそう言った。それを否定する者は誰もいない。

 小野さんも僕も釣り支度を始める。細い糸が竿に結ばれ、伸びていく。それが川上から吹きおろす風になびいた。

 手元にはサクラエビの粉をまぶした練り餌が、茶色の中に綺麗な紅色を添え、まるで和菓子のようだ。

「さあ、みんなで釣ろう!」

 僕たち四人は並んで竿を振った。竿が風を切り、糸が舞う。そして、着水したウキがゆっくりと流れ出した。まるで僕たちの村の時間を象徴するかのようにゆっくりと。

 この川の流れも、夏休みに僕がカサゴを釣った海へと流れ込み、水蒸気となった海水は、再び雨となって川になる。

 そうだ、僕たちの人生は長い。そんなことを思っていると、ウキが沈んだ。

 ククッと伝わる小さな生命の感触を楽しむ。抜き上げられた金色のくすんだ魚を愛しそうに撫でると、水へと返してやる。

 隣では小野さんも、東海林君も、そして皆瀬さんも次々とアブラハヤを釣り上げていた。

 今日も絶好の釣り日和だ。



(了)


 長く、少々マニアックなお話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 最後まで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。

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