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第十話

 ついに土曜日の朝がきた。僕は太陽よりもずっと早く目覚め、ウェーディングシューズを履いた。これから沢を上り、釜の主と対戦するのかと思うと、武者震いを抑えられない。そんな僕の様子を見ていたのだろう。父と母が不意に顔を出した。

「みんなで協力して、最高の思い出を釣ってこいよ」

「釣れたら、写真、撮ってきてね」

「ああ、もちろん。絶対に釣ってみせるさ」

 僕は父に笑いかけた。

 ふと思った。たとえ、皆瀬さんという大人がついていても、鬼女沢のような山奥に子供たちだけで行かせることに不安はないのだろうかと。おそらく釣りをやる以上、水という自然を相手にするわけだから、不安は常にあるに違いあるまい。それでも笑って送り出してくれる両親に、僕は感謝をしなければならなかった。そして何よりのおみやげは無事に帰ってくることだ。そう自分に言い聞かせながら、靴の紐を締める。自分の気持ちと一緒に。


 東海林君の家の前には、既に皆瀬さんのワゴン車が停まっていた。車の前では東海林君と皆瀬さんが、何やら笑いながら話している。かたわらから見れば、それはまるで親子のようだ。

「おはよう」

「おお、おはよう」

 そんな会話を交わすも、二人とも瞳に釣り人だけが持っている不思議な輝きをたたえている。やる気は満々だ。

「おはよう」

 少し遅れて小野さんがやってきた。とは言っても、まだ太陽は顔を出していない。小野さんのデイバッグの中には毛糸の網が入っているはずだ。

「よし。出発だ!」

 皆瀬さんがはりきって車に乗り込もうとした。その時、東海林君の母親が家の中から駆けてきた。

「待って!」

 みんな、東海林君の母親の方を向く。その顔は今にも泣き出しそうだった。

「正、お父さんに、あの人に会ったら、聞いてちょうだい。これからどうしたらいいかって……」

 東海林君の母親は東海林君の腕にすがるようにして、泣いていた。どうやら、あのモヒカン猿の話を信じたようである。

「うん、わかったよ」

 東海林君が優しく母親の肩に手を置いた。その仕草は立派な男のそれだった。

「奥さん、大丈夫ですよ」

 皆瀬さんも東海林君の母親をなだめる。おじいさんとおばあさんも家の外へ出てきた。

「気を付けて行ってこいよ」

 東海林君の母親はおじいさんに支えられながら、まだ涙を流していた。

 こうして僕たちを乗せたワゴン車は、笹熊川に沿って走る林道を目指して出発したのだった。


 ワゴン車は林道の終点で停まった。そこから先は歩きである。

 車を降りて、まだ暗い、朝の新鮮な空気を肺の中へ大量に吸い込む。それはグリーンガムより、何倍も清々しい空気だ。

 どうやら霧が立ち込めているようだが、ライトを点けないと何が何だかわからない。ただザーザーと川の流れる音と、カサカサと樹々の葉がこすれ合う音が聞こえる。

 僕の体は本来の野生を取り戻したかのように、五感を鋭くさせる。思えば、釣りをする時も同じだ。体中の神経を、いつも鋭く働かせている。釣りをするということは、野生に返るということなのだろうか。

「さあ、急ごう。朝マズメを逃したら大変だ」

 皆瀬さんがヘッドランプを点けようとした時だった。我々の前の茂みがガサガサと動いた。

「ひっ!」

 小野さんが僕の腕にしがみついてきた。僕は思わず、小野さんの肩を抱き締めてしまった。

 黒い物体はヘッドランプの明かりを嫌うように、光の帯から逃げた。だが、小野さん以外にはその正体がすぐにわかった。あのモヒカン猿だ。

 皆瀬さんがヘッドランプを消す。すると、モヒカン猿は僕たちの前に来て、のっそりと歩き始めたのだ。

 僕たちはモヒカン猿の後を歩いた。まるで初めて鬼女沢に行った時のようだ。モヒカン猿がヘッドランプの明かりを嫌うので、闇の中を分け入って進む。時折、笹の葉が剥き出しの腕や足を容赦なく切りつけた。

 東海林君や皆瀬さんはウェーダーを履いている分、足は保護されている。小野さんも少々ブカブカだが、アユ釣り用のタイツを履いている。

 東海林君は釣竿が枝に引っ掛かり、苦労をしていた。彼の釣竿はブラックバス用のもので、ワンピース(一本竿)のため、折り畳みができないのである。少々不便だが、釜の主を釣り上げるためには、苦労は惜しめない。

 僕たちは鬼女沢に沿って、モヒカン猿に先導されながら、歩き続けた。東の空がうっすらと赤みを帯び、山の稜線が浮き立っている。

 涼しい空気が気持ちいいが、身体の内側から熱く込み上げてくる熱気だけはいかんともしがたい。汗が目に入り、痛かった。何度もタオルで拭うが、次から次へと汗が吹き出してくる。もし、自分一人だったら、とてもこんなところまで来られないだろうと思う。

 モヒカン猿が横へ跳んだ。この前の時と同じだ。

 次の瞬間、僕たちの前に不見滝の大瀑布が姿を現したのである。

 ドドーッという轟音とともに、すべてを飲み込んでしまいそうな大きな釜は、女忍者の化身である大イワナが潜むにふさわしい。

 掘っ建て小屋の脇では、又吉じいさんが腕組みをして、僕たちの方をにらんでいた。

「おはようございます」

 皆瀬さんが又吉じいさんに声をかけた。

「やっぱり来おったな。木っ端役人に、西洋小僧どもが。何じゃ、今日はアマッコも一緒けえ」

 又吉じいさんが僕たちをにらむ。その眼差しは鋭かった。何年もかけて狙ってきた魚を、僕たちが釣ろうというのだ。目も鋭くなるはずだ。

 僕は早速、『オレタチノ・ザラⅡ』を取り出した。

「くくく、そんなガキのオモチャで釜の主を釣ろうってのかい? 笑わせるぜ」

 又吉じいさんが皮肉たっぷりに笑った。

 東海林君はそんな又吉じいさんに目もくれず、黙々と『オレタチノ・ザラⅡ』を糸に結んでいる。小野さんと僕は網の支度だ。

「ふふふ、子供をあなどっちゃいけません。その笑顔もこわばることになるかもしれませんよ」

 背中でちょっとドスのきいた皆瀬さんの声がした。

「ちょっと、その糸、太いんじゃないか?」

 振り返ってそう言った皆瀬さんの声は、普通に戻っていた。

「相手は三尺もある大物だろう? だったら、20ポンドは使わないと」

 支度を終えた東海林君が笑った。

「20ポンド? どうも横文字は苦手だな」

「大体5号の太さだよ。これからの釣り方を見ていれば、糸の太さなんか関係ないことがわかるよ」

 自信満々の東海林君が真顔になった。カチッとリールのクラッチをきる音がした。


 『オレタチノ・ザラⅡ』は滝壺に向かって、ゆるやかな弧を描いて飛んでいった。そして、白泡の脇に着水する。『オレタチノ・ザラⅡ』は巻き返す流れと、波にもてあそばれている。

 だが、心配はいらない。ピンと張った糸が、ちゃんとルアーを捉えているのだ。

 東海林君はしばらく『オレタチノ・ザラⅡ』が水になじむのを待った。その間が異様に長く感じられる。

 東海林君が竿先をツンツンと動かし始めた。そしてふけ出た糸の分だけリールを巻く。

 『オレタチノ・ザラⅡ』は水面でもがく、ヒナ鳥のようにあえぎ続けている。実に見事な演出だ。これだけのルアー操作ができる東海林君は、相当のルアーの達人と言わなければならない。

 自分では気づかないが、釣り人は自然と前のめりの姿勢となる。この時の東海林さんも例外ではなく、前のめりでリールを握っていた。

 不見滝に朝日が差し込んだ。東の山を越えて昇ってきた、遅い朝日である。太陽の光が東海林君のリール、カルカッタ200の銀色のボディに反射し、一瞬だが目がくらみそうになる。

 僕は目を滝壺の『オレタチノ・ザラⅡ』へと移した。

 そして、それはゆっくりときた。大柄なくせに、まるで忍者のように『オレタチノ・ザラⅡ』の背後に忍びよってきたのだ。そう、黒い物体が。

 にわかに水面が盛り上がったかのように見えた。すると、突如として水しぶきが舞い、『オレタチノ・ザラⅡ』が視界から消えた。

「ヒットーッ!」

 東海林君の叫ぶ声が、滝の音をかき消して響いた。


 竿はムチのようにしなり、リールからはジリジリと糸が引きずり出されていた。

 東海林君の竿はブラックバス用の竿でも、相当硬くて丈夫なはずだ。それが根元から曲がっている。

 東海林君も必死に両手で竿を支えるが、リールを巻き取る余裕がないらしい。

「よし!」

 僕は東海林君の元へ駆け寄り、竿を一緒に支えた。僕の手にも、もだえるような魚の振動が伝わる。魚は滝壺の底へ向かって、身をくねらせながら泳いでいるのだ。

 それにしても、すさまじい力だった。少しでも力を抜けば、竿と糸は一直線となってしまうだろう。そうなると、竿の弾力が活かされず、糸が切れてしまうのだ。

 皆瀬さんは黙って僕たちを見守っていた。それは、子供の成長を見守る優しい大人の瞳だったのかもしれない。

 小野さんは網を手に水面をただ見つめている。よく見れば、足が震えているではないか。これでは魚を見た瞬間に、腰でも抜かしかねない。

 ジリジリ。

 リールからは糸が出て行く一方だ。東海林君と僕は踏ん張ってこらえる。魚は必死だ。何せ、自分の命がかかっていると思っているのだろう。

「このままじゃ、どうしようもないよ」

 僕が焦って叫んだ。

「こういう時は、頭に血が上ったやつが負けなのさ。なーに、相手もそのうち疲れる。糸はたっぷり巻いてあるんだ。心配はいらないぜ」

 東海林君は額に汗をにじませながら、そう言った。

 だが、果たして魚は疲れるのだろうか。僕には竿を通して伝わる躍動感が、悠々と泳いでいるようにも感じられる。

「?」

 にわかに竿が軽くなった。

(まさか、バレたのかな?)

 僕の胸に一瞬、絶望感がよぎった。

「ボヤッとするな。しっかり支えていろ!」

 東海林君の怒声が飛んだ。見れば東海林君は、ものすごい勢いででリールを巻き取っている。

「やっぱり釜の主はただ者じゃないぜ。今度は一気に浮いてきやがった」

 僕は水中へと伸びる糸を見た。それは水を切りながら、ものすごい早さでリールへと巻き取られている。

 青とも緑とも言えない水面に黒い影が映った。それは水を持ち上げるようにして、その姿を現す。

 朝日に輝く飴色の体と白い斑点がジャンプした。

(ま、まさかイワナのジャンプなんて!)

 僕はその大きさよりも、イワナがジャンプしたことに驚きを隠せなかった。僕は渓流釣りの経験がそうあるわけではないが、イワナは普通、下に突っ込みながら、身をくねらせるような引きを見せる。ジャンプするイワナなど、今で見たことがないし、話にも聞いたことがない。

 大きな波紋とともに、大イワナは再び水面下へと潜っていった。

 ジジジジジーッ。

 リールが悲鳴を上げた。


「そ、そんなバカな。あんなガキのオモチャに釜の主が食らいつくなんて」

 又吉じいさんのうろたえたような声が聞こえた。

「だから言ったでしょう。子供をあなどっちゃいけないって」

 皆瀬さんが得意そうにつぶやいた。

 どうやら『オレタチノ・ザラⅡ』に食らいついたのは、紛れも無く釜の主のようだ。

「ああ、あんなに大きいの?」

 見れば小野さんは腰が完全に引けている。

 釜の主は三尺とまでいかなくても、80センチはありそうだ。普通の大人でも腰が引けるサイズだろう。

「大丈夫。ヘトヘトにさせるから、その網ですくってくれ!」

 東海林君が叫んだ。

「う、うん」

 小野さんが網の柄を握り直す。

「ふふふ、主のやつ、だいぶ疲れてきているみたいだ。よーし、ポンピングで寄せよう。桑原は小野さんのサポートに回ってくれ」

「わかった」

 僕は東海林君から離れ、小野さんと一緒に網の柄を握る。その柄は小野さんの手のひらからにじんだ汗で、ベタベタしていた。

 ちなみにポンピングとは、竿を立てて魚を寄せ、竿を立てた分だけリールを巻き取る動作を繰り返すことをいう。

 東海林君が大きく竿をあおった。そして竿を寝かせながら、忙しくリールを巻き取る。そして、次の瞬間には、もう竿を立てている。

 確実に釜の主との距離は縮まりつつあった。


 ユラー。

 女忍者の悲しい恨みを抱いた大きなイワナは、全力の力を出し尽くし、その身を横たえていた。

 口にはガップリと『オレタチノ・ザラⅡ』をくわえている。頭はサケほど大きくはないが、それでも口は小鳥を悠に飲み込むほどはあるだろう。鼻先は曲がり、イカツイ顔をしている。とても女忍者とうたわれるような、女性的な顔つきではなかった。野生の獰猛さを剥き出しにした顔が、僕たちを恨めしそうな目つきでにらんでいた。

 ふと、釜の主の背後に目をやる。

「イワナだ。もう一匹、大イワナが後ろについてくるぞ」

 まるで釜の主を気遣うように、一回りほど小さい、60センチほどのイワナが後ろから泳いできていた。

「もしかして、恋人かしら? それとも夫婦?」

 小野さんが神妙な顔つきでつぶやいた。

 居合わせた者一同が、その姿に心を痛めたのは言うまでもない。だが、ここまできて、引き返すわけにはいかなかった。

「くっ!」

 東海林君が一気に竿を持ち上げた。そしてリールを巻く。釜の主が僕たちに近づいた。すると後ろからついてきたイワナは反転して、緑色の深みへと消えていった。

 ふだんは気にも留めていなかったが、イワナの歯が想像以上に鋭いことに気づいた。これではブラックバスのように、アゴをつかんで持ち上げることは不可能だろう。やはり網が必要だったのである。

 今や釜の主には、ほとんど抵抗する力は残っていない。多少、尾ビレをばたつかせるくらいだ。戦意を喪失した女忍者は、エラを苦しそうに動かしている。

「よし、ランディング(取り込み)だ」

 東海林君が竿を高く持ち上げた。すると、釜の主の頭が宙に浮いた。大きな口がガバッと開く。

 小野さんと僕とで、その頭から網ですくった。毛糸の網は、今まで全力で戦った女忍者をいたわるように、その身を包んだ。

「やったーっ!」

 又吉じいさんを除く、全員がほぼ同時に叫んだ。

 クワーッ!

 奇っ怪な動物の声が滝上の方から響いた。みんなで滝上を見上げる。

 そこには、あのモヒカン猿がこちらを見つめながら立っていた。

「やったよ、お父さん。俺たち、やったよ!」

 モヒカン猿の眼差しは、確かに息子とその友を見守るそれに他ならなかった。


「やりおった。こいつら、本当に釜の主を釣り上げおった」

 又吉じいさんの声が震えていた。

 網の中で横たわる大きなイワナに、皆瀬さんがメジャーを当てる。

「83センチ。湖だってこのサイズはめったにいないよ。それが渓流で釣れたんだ。トロフィーものだよ」

 東海林君がプライヤーで、ていねいにイワナの口から針を外す。その瞬間、少しイワナがもがいたが、死力を出し尽くした体がそれ以上、抵抗することはなかった。

 東海林君と小野さんと僕とで、釜の主を抱えた。

「又吉さん。すまないけど、シャッターを押してくれませんか?」

 皆瀬さんが又吉じいさんにデジカメを差し出した。

「お、おう」

 又吉じいさんはほうけた顔をしながら、カメラを受け取った。そして、皆瀬さんは僕たちの後ろに回る。

「みんな、今までの人生で最高の顔をせんと、撮ってやらんぞ」

 どうやら又吉じいさんは、口は悪いが、気持ちのいい男のようである。

 朝の渓流にフラッシュがまぶしかった。


 記念撮影を終えると、僕たちは釜の主を水に返した。ゆっくりと水に浸け、魚が動き出すのを待つ。

「何だ。持って帰って魚拓や剥製にはせんのか?」

 背中で又吉じいさんが尋ねた。

「俺は釣っただけで十分」

 東海林君がそうつぶやいた時、釜の主がヒレを動かし始めた。ゆっくりと身をくねらせながら、東海林君の手の中で動き出す。

「思い出はみんなの心の中にありますよ。それに記念写真も撮ったし、それで彼らは十分なんですよ」

 皆瀬さんが得意そうに言った。

「そうか。じゃあ、次はわしが釣ってやるわい」

 又吉じいさんが笑った。

 僕はその言葉を聞いて思った。今度の釣りは東海林君が一人で釣った釣りではない。みんなで協力したからこそ釜の主を釣ることができたのだ。

「又吉さんも釣りましたよ」

 僕が笑いながら、そう言った。

「えっ?」

 又吉じいさんは呆気に取られたような顔をいる。

「今度の釣りはね、ひとりじゃとても無理でしたよ。確かに東海林君の腕は一流さ。でもね、又吉さんから水鳥のヒナの話を聞いたからこそ、あのルアーを思いついたんだ。そして、小野さんは必死に毛糸で網を編んでくれた。だからこそ、釜の主を傷ひとつなく元のところへ返すことができたんだ。皆瀬さんの車がなければ、朝マズメにここまでたどり着くことも不可能だった。みんなの経験や知恵とかを持ちよって、協力したからこそ釜の主を釣ることができたと思うんだ」

「さすが桑原、いいこと言うねえ」

 小野さんが茶化すように、僕の脇腹を突ついた。

「けっ、わしは協力した覚えなんぞないぞ」

 又吉じいさんが笑いながらも、憎まれ口をたたく。

「ふふふ、これでも感謝しているんですよ」

 皆瀬さんが笑った。

 釣り糸でショックリーダーと呼ばれる糸がある。糸と糸をつなぐ時、つなぎ目を補強し、魚が掛かった時のショックを和らげる役目をする糸だ。

 僕は思った。皆瀬さんは又吉じいさんと僕たちのショックリーダーの役割を果たしてくれたのだと。


 帰りの下り道は爽快だった。朝の爽やかな、グリーンの空気が肺の中に染み込み、赤や黄色に化粧をした樹々が美しく目の中に飛び込む。そして、枝の隙間から差し込む朝の光りは、どことなく神々しい。

 僕はそんな景色を見るのが好きだ。そして今、こうしていられることを、心から感謝している。

 それは単に釜の主を釣り上げた満足感だけではない。この大自然の中に身を置き、それを感じていられることが幸せなのだ。

 僕はふと、振り返った。後ろを歩く小野さんがニコッと笑った。僕も照れたように笑い返す。

 もしも将来、小野さんと僕が結婚して、子供が産まれても、この自然がそのまま残っていてほしいと思う。まだまだ先の話だが。


 ガサガサッ!

 急に茂みから、何かの影が僕たちの前に飛び出した。

「お父さん!」

 東海林君が叫んだ。

 そう、それはあのモヒカン猿だった。モヒカン猿は僕たちの方を見つめ、行く手をはばんでいる。道を空けようとはしない。

 モヒカン猿はにらんでいた。その視線は皆瀬さんに向いていた。その眼力の気迫足るやすさまじいもので、小野さんや僕はもちろんのこと、東海林君でも半歩退いたほどである。

 ウーッ!

 モヒカン猿がうなった。彼は知っているのだ。皆瀬さんが東海林さんの母親に好意を寄せていることを。

 モヒカン猿、いや、東海林君の父親と皆瀬さんの睨み合いは続いた。それは、ひとりの女性をかけた、男同士の気迫に満ちたにらみ合いだった。

 僕はこの時、ふと思った。今、僕は小野さんのことが好きだ。小野さんも僕に好意を寄せてくれている。もしも、これから先、僕の前に立ち塞がるライバルが現れたとしたら、僕もあのような目をするのだろうか。

 朝の冷気の中でも、皆瀬さんの額からは汗が流れている。それは歩いて、体が温まった汗ではなかった。冷や汗だ。

 モヒカン猿は微動だにせず、皆瀬さんをにらみ続けている。皆瀬さんはにらみながらも、どこかお願いするような目をしている。

「お父さん、皆瀬さんを認めてあげてよ!」

 緊張に耐えられなかったのだろう。東海林君が思わず叫んだ。

 心なしかフッとモヒカン猿の目が緩んだように思えた。モヒカン猿は東海林君を見つめた。それは、優しさと寂しさをたたえた男の、父親の目だった。その目は、どことなく潤んでいるようにも見える。

 モヒカン猿はその潤んだ目を皆瀬さんに向けた。皆瀬さんの目からも緊張が解けている。皆瀬さんもまた、泣きそうな顔をしていた。

 モヒカン猿はノッソリと後ろを向くと、そのまま茂みへと帰っていった。薮がガサガサと揺れ、茶色い背中が遠ざかっていく。

「お父さん!」

 東海林君のその声に、モヒカン猿が足を止めた。

「お父さん、また会えるよね?」

 しかし、モヒカン猿は振り返ることなく、そのまま深い茂みの中へと消えていったのである。

「お父さん……」

 ただ呆然と東海林君は茂みを見つめ続けた。皆瀬さんも、小野さんも、そして僕も茂みを見つめ続けた。

(やっぱり、あの猿は東海林君のお父さんに違いない!)

 僕は心の中で、そう確信していた。

 僕は見た。この時、東海林君と皆瀬さんの頬から滴がしたたるのを。おそらく、東海林君と皆瀬さんはモヒカン猿と、小野さんや僕にはわからない方法で会話していたに違いない。

「さあ、行こう」

 皆瀬さんが鼻をすすりながら、ほほえんだ。その笑顔からして、どうやら話はうまくまとまったようだ。

 東海林君が顔を上げた。彼も鼻をすする。だが、次の瞬間には笑顔を浮かべて言ったのだ。

「やっぱり、この村に来てよかったな。お父さんが二人もいるんだからさ」

「はははは、気が早いぞ!」

 皆瀬さんが豪快に笑いながら、東海林君の背中をたたく。

 小野さんと僕も笑った。僕も自然と目の前がかすんだ。 


 山を下り、東海林君の家に帰る。すると、東海林君の母親が家の前で待っていた。

 ワゴン車は優しいブレーキで、東海林君の母親の前に停まる。東海林君も、小野さんも、僕も一斉にワゴン車から飛び降りた。

「お母さん、ついにやったぜ。釜の主を釣り上げたんだ。82センチの大イワナだ!」

「そう、それはよかったわね。でも、みんな無事に帰ってこれたのが、一番のおみやげよ」

 東海林君の母親は慈しみ深いほほえみをたたえて、そう言った。

「ただいま」

 遅れて車から降りた皆瀬さんが、東海林さんの母親に向かって言った。

「おかえりなさい。ありがとうございました。なんてお礼を言っていいのやら」

「いえいえ、お礼を言うのはこっちですよ。こんなチャンスを与えてくださったのですから」

 皆瀬さんが爽やかにほほえんだ。

「ところで、あの人には会えまして?」

「はい。我々を見守ってくれました。そして、最後に」

「最後に?」

 東海林君の母親が体を乗り出す。

「皆瀬さんを認めてくれたんだ。お父さんは山の中で、自由に自然に暮らすってさ」

 そう答えたのは東海林君だった。

「お父さんは言っていたよ。『俺は死んでいない。そして、人は今とこれからをどう生きるかだ。お前はいい理解者に恵まれている。それは一生の宝だ』だって」

「ううっ、あなた……」

 東海林君の母親が泣き崩れた。

「お母さん、しっかりしなよ。お父さんは皆瀬さんに最後、『正をよろしく』って言ったんだぜ」

 東海林君が母親の肩を支えた。それは男らしい仕草だった。かつて、「一杯一杯だ」と言っていた彼の姿はそこにはなかった。

 東海林君の母親は、体中の水分が抜け出てしまうのではないかと思うくらい泣き続けた。

 それを皆瀬さんは優しそうなまなざしで見つめていた。今は自分が出るべきではないと自覚しているのだろうか。皆瀬さんはただ、見守り続ける役に徹し、母親の介抱を東海林君に任せていた。母親を支える東海林さんの顔は男の顔つきそのものだった。


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