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第一話

 その日はまだ夏の匂いが残っていた。

先生が夏休み中も掃除を欠かさなかったのだろう。木造の校舎の中は清潔に保たれていた。とは言っても古い建物だ。傷んだ箇所は目立つ。先生たちはそれを「学校の歴史と勲章だ」といつも言っていたっけ。

 僕は桑原健也。この玉置村に住み、玉置小学校に通う、ここいらでは平凡な六年生だ。唯一、みんなと違うことと言えば、ほとんどの子供たちが地元の農家の子供であるのに対し、僕の父親は隣の笹熊市にある会社まで通っていることくらいか。


 僕たち六年生にとって小学校最後の夏休みも終わり、教室の中はざわついていた。

都会の学校では小学校一年生から六年生までが違うクラス分けになっていると聞いたが、うちの小学校は何せのどかな山間の小学校だ。四年生から六年生までがひとつのクラスとなっている。

あらためて見てみると、夏休みの間、毎日のように遊んだ友達もいれば、久々にを話をするやつもいる。とはいっても狭い村の中だ。どこかでは顔を見ている。

「よう、元気か?」

「笹熊山でオオクワガタ採ったぞ」

「俺なんか二連滝ででっけえイワナ捕まえたもんね」

 みんな一斉にそれぞれが、夏休みの自慢話を始めだした。

 僕だって負けてはいない。山間のこの小さな村で、船に乗って海釣りに行ったのは僕くらいのものだろう。どうしても海釣りがしたくて、海辺の町に暮らす祖父の家まで泊まりに行き、父に連れて行ってもらったのだ。

 僕の祖父は海辺の町で、のんびりと釣りを楽しんだりして暮らしている。もともとはこの村の人なのだが、昔から「鉄砲玉」などと呼ばれ、よく遠くまで釣りに行ったりしていたっけ。

そんな祖父に船宿を紹介してもらい、船釣りをしたのだ。

 船長さんはイカツイ顔をした、いかにも怖そうな人だったけど、意外と優しかった。

 そんな船長さんの親切なアドバイスで僕はカサゴという魚を、見事にたくさん釣ることができたのである。もっとも魚を釣った時のあのドキドキと、船酔いの気持ち悪さが入り交じった複雑な楽しさだったが。

「僕だってカサゴを五十匹は釣ったぞ」

 僕も自慢げに友達に言った。五十匹というのいは大げさである。よく「釣りの話は手を縛ってしろ」と言うが、どうやら口も縛ったほうがよさそうだ。

「カサゴ? 何だそりゃ?」

「どんな魚だ? 食えるのか?」

 どうやら山間の村ではカサゴなんてみんな知らないらしい。

「そりゃ、おいしいさ。刺し身や煮付けにすると最高だぜ。もっとも見た目はちょっとイカツイけどね」

 僕はみんなの知らない魚を少し得意げに紹介した。そして自由帳にカサゴの絵を書いてみせた。

「何これ? ブラックバスにそっくりじゃん」

 同じ六年生でガキ大将の高田君が茶々をいれた。するとみんなが僕の周りに集まってきた。

「ブラックバスは悪者なんだぞ。桑原、お前は悪者を釣って自慢してんのか?」

 高田君は更に僕を追い込むように巻くし立てる。

 教室のみんなも冷ややかな目で僕を見ていた。

 そんな時、教室の扉がガラガラと開いた。みんなは一斉に自分の席に戻る。

 担任の斎藤先生と一緒に一人の男の子が入ってきた。転校生だ。この地域で転校生は珍しい。何せ古くからの地元の子供ばかりだ。

 転校生はショルダーバッグを肩に下げ、みんなと目を合わせることなく、教室の天井を見ていた。僕も教室の天井を見る。古ぼけた染みがオバケのような顔をして、そこにあった。

 転校生は着ている服といい、ショルダーバッグといい、こんな山間の小学生とはセンスが違っていた。どこか都会の匂いをプンプンさせていた。

 先生が黒板にチョークで何やら書き始めた。

「東海林正」

 黒板にはそう書かれていた。

(とうかりんただし? 変な苗字……)

 僕は心の中でそうつぶやいた。

「みなさん、おはようございます。今日は二学期から六年生として、みなさんと新しくお友達になる、『しょうじただし』さんが転校してきました」

 先生がそう言うと、ガキ大将の高田君がいきなり席を立った。

「でも、何で『とうかいりん』で『しょうじ』なんだよ?」

「昔からそういう読み方をするんです。東海林さんは神奈川県から引っ越してきたばかりで、この辺のことはよくわからないから、みんな仲良く、親切にしてあげてくださいね」

 子供の素朴な疑問に少し困ったのだろう、先生は頭をかきながら、照れたように言った。

「変なの……」

「やっぱり、『とうかいりん』でも、いいんじゃない?」

「わはははは……!」

 その爆笑に転校生が教室中をジロリと睨んだ。妙に殺気立ったやつだった。

「先生、席はどこですか?」

 学級委員長の小森さんが優等生らしく先生に質問をする。別に点数稼ぎをするつもりではないことはわかっている。小森さん流の気遣いなのだ。

「おお、そうだな。桑原の隣が空いているな。とりあえずそこへ座ってもらおうか」

 こうして転校生、東海林正は僕の隣へ座ることになったのである。

 東海林君が座る時、僕は「よろしく」と声をかけたが、彼から返事はなかった。彼はただ虚ろな目で黒板の上にある時計を眺めていた。

(こいつ、僕を、この村をバカにしているのかな?)

 ただ、東海林君は下校まで誰とも口をきくことなく、ただボンヤリとしていた。

 下校の時、東海林君は誰よりも早く下校した。その後ろ姿がどことなく寂しそうだった。

「おーい、桑原!」

 不意に後ろから斎藤先生の声がした。先生が手招きをしている。近寄ると先生は腰を落とし、目線を僕の目線に合わせた。

「あのなあ、先生からのお願いなんだけど、何とか東海林を元気づけてやってくれんか?」

 先生は本当に困ったような顔をしていた。僕は「学校に慣れさせるのは先生の役割だろう」とも思ったが、斎藤先生の顔を見ていると、とてもそんなことは言えなかった。

「できるかどうかわからないけど、やれるだけやってみます」

 今はそう答えるのが精一杯だった。


 次の日も、東海林君はショルダーバッグでやってきた。他の子はみんなまだランドセルだ。

 僕はショルダーバッグに付いているマークを見て、ハッとした。

「ねえねえ、これフォックスファイヤーじゃないの?」

 すると東海林君は「何で知っているんだ?」とでも言いたげな表情をして固まってしまった。

「僕のお父さんも持っているよ。このメーカーのバッグ」

「そうか。こんな山間の村でもフォックスファイヤーのバッグを売っているのか」

「まさか。隣の笹熊市の専門店で買ったらしいよ。釣り道具なんかもよく買ってるよ」

「お前のお父さん、釣りをするのか?」

「よく行ってるよ」

「でも、フォックスファイヤーを知っているやつがいて少しホッとしたぜ」

 東海林君の口元が少し緩んだ。こわばっていた目も緊張が少しほぐれたように思う。僕は自分の席の座り心地が、昨日より少し良くなった。

 その日も東海林君は真っ先に下校した。他の子はみんな校庭で野球をしたり、ドッジボールをしたりして遊んでいる。僕も泥まみれになりながら野球をした。

 校門を出たのは西の山があかね色になってからだ。僕はあぜ道の赤トンボを脅かすようにして家へ向かった。足元ではバッタやキリギリスが時々、驚いたように跳ねる。

 ちょうど、農業用のため池の手前に来た時だった。ため池のほとりの草むらの中から、棒のようなものが振られるのがえた。

(誰か、釣りをしているぞ)

 僕は駆け寄ってみた。ガサガサと薮をこぎ、ため池のほとりへ出てみると、そこには釣竿を握る東海林君がいた。

「東海林君!」

「よう」

 東海林君の竿は2メートル弱くらいで、手には太鼓型のリールが握られている。東海林さんは夢中でリールを巻いていた。僕はこの道具を見てピンときた。

(東海林君はブラックバスを釣っているんだな)

 東海林君の竿がヒュッと上がった。その釣り糸の先には小魚の形をしたルアー(疑似餌)が付いている。

 よく見ると、東海林君の竿のグリップはコルクが汚れて黒くなり、リールも傷だらけだ。とても小学校六年生が使い込んだ道具とは思えない。

「その竿もリールも、ずいぶんと古そうだね」

「お父さんの形見なんだ。あのフォックスファイヤーのバッグも」

「えっ?」

 僕は一瞬、言葉に詰まった。それでも東海林君は僕の方を向くことなく、またルアーを投げた。

「お父さん、交通事故で死んだんだ。それでお母さんの実家に引っ越してきたってわけさ。俺だってこの土地が嫌いなわけじゃない。俺が生まれたのはここだからな」

 そう言いながら、ひたすらリールを巻く東海林君の横顔に一筋の滴が流れた。それが夕陽に輝き、いつか博物館で見た水晶の原石のように光っていた。何とも悲しい水晶だった。

 僕は何て声をかけていいのか正直なところわからなかった。何とか話題を変えて、つなげることしか思いつかなかった。

「ところで、ブラックバスを釣っているんだろう? だったらここにはいないよ」

「えっ?」

 東海林君が驚いたような顔をして僕の方を向いた。

「ウソだろ? 何年か前にここに遊びにきた時、いるって聞いたぞ」

 東海林君がルアーを拾い上げる。そして絡み付いた藻を丹念に針から取り除いた。そしてまた僕の顔をまっすぐに見た。

「確かに何年か前まではいたらしいんだけどね。大人たちがブラックバスは悪い魚だって言って、ため池の水を一度全部抜いちゃったんだ。そしてブラックバスだけ殺したんだよ。この辺りじゃ竜山湖まで行かなきゃブラックバスは釣れないね」

「ひどいことしやがるぜ、大人たちは……」

 それでも東海林君は釣るのを止めなかった。何度も何度もルアーを黙々と投げたのである。その姿はまるで何かに取り憑かれているようだった。僕はそんな彼を飽きもせず、腰を下ろして眺めていた。

「なあ、お前は釣りをしないのか?」

 突然、東海林君が僕に尋ねてきた。

「たまに行くよ。ブラックバスはまだ釣ったことないけどね。川でウグイを釣ったり、それとマス釣り場のニジマスを釣ったりするくらいかな。でも僕のお父さんはブラックバスを釣るんだ」

「へー、やるじゃん。お前のお父さん」

 東海林君の口元が少し笑ったような気がした。その時だった。急に竿が満月のような円を描き、リールがジリジリと軋んだ。

「まさか、ブラックバス?」

 体育座りをしていた僕は、慌てて立ち上がり、東海林君の方へ駆け寄った。見ればリールからは糸がどんどん引っ張り出されている。相当の大物だ。

「いや、違うな。バスの引きじゃない。絡み付くような変な引きだ」

 東海林君は何度も竿を立てては寝かせ、その度にリールを巻き取る。先程の涙は乾き、今彼を濡らしているのは汗だ。

 魚も疲れてきたのだろうか。次第に岸辺に寄ってきた。

「うわっ、何だこりゃ?」

 何と釣り糸の先には、大きなヘビのような魚がうねっているではないか。僕はその不気味さに思わず尻餅をついてしまった。

「すげえ、カムルチーだ」

「カムルチー?」

「ライギョのことだよ」

 東海林君はその得体の知れない魚を岸にズリ上げた。そして、ルアーをガップリ咥えたカムルチーを高々と持ち上げる。それはドジョウを大きくしたような、ヘビのような顔をした魚だった。 

「ブラックバスを殺しても、カムルチーは殺さなかったんだな」

 東海林君がカムルチーを繁々と眺めながらつぶやいた。

「何なの、その魚?」

「昔、朝鮮半島から輸入された魚さ。こいつも獰猛でね。小魚やカエル、ヘビ、鳥まで襲って食っちまう」

「へー……」

「ブラックバスは許されなくて、何でこいつは許されるんだろう?」

 そう言った東海林君の目は怒っているようでもあり、悲しそうでもあった。

 また、その問いは子供の僕にも素朴な疑問として胸につかえた。

 東海林君はプライヤーでカムルチーの口から針を外すと、そっと池に返してやった。カムルチーは何事もなかったかのように悠々と泳いでいき、濁った水の中へと消えていく。それを二人で見送った。

「俺、明日から他の池でも釣ってみるわ。もしかしたらブラックバスが残っている池があるかもしれないからな」

 そう言うと、はにかむような笑いを残して、東海林君は薮の中へと消えていった。


 それから数日後。

「おい、ブラックバス!」

 ガキ大将の高田君が東海林君をそう呼び付けていた。

「お前、ため池を回ってブラックバスを釣っているだろう? ブラックバスは他の魚を食う悪い魚なんだぞ。そんな魚を釣ってんじゃねえよ!」

 高田君は腕組をして東海林君の机の前に立った。僕は隣でヒヤヒヤしながら事の成り行きを見守るしかなかった。本当ならば東海林君の肩を持ってやりたかったが、何せ相手が悪すぎる。

「お前だって塩サバくらいは食うだろう?」

 東海林君は淡々と言って退けた。

「何だと?」

 高田君の顔が赤くなった。足がカクカクと震えている。

(ヤバイ。キレる前兆だ!)

 僕は肘で東海林君の腕を突ついた。しかし、東海林君はまったく動じない。

「だいたい誰がブラックバスを悪者と決めつけたんだ? 大人が勝手に言っているだけだろう? もともとブラックバスは……」

「うるさい!」

 高田君の拳が東海林君の右頬に飛んだ。東海林君は少し後ろによろけたが、薄笑いを浮かべている。

「そうか、ちょうどいいや。俺もムシャクシャしていたところなんだ。ケンカなら買うぜ」

「来いよ。都会育ちのモヤシっ子!」

 東海林君の体がユラーッと立ち上がったと思ったら、俊敏なパンチが高田君の顔面に炸裂した。

「やりやがったな!」

「このジャガイモ!」

「くそ、ブラックバスめ!」

 二人はなじり合いながら、もつれ、殴り合う。

 教室の男子たちはヤンヤヤンヤと囃し立て、大騒ぎになっている。女子はただ呆然と対極的な二人の対戦を眺めている。手のひらで顔を覆う者もあった。

 後はもう揉みくちゃだった。どちらが優勢とも劣勢とも言えない。お互いの意地のぶつかり合い。そんな感じがした。

 考えてみれば高田君の家は農家で、ため池の水を抜いた発案者でもある。そんな家で育った彼にとって、ブラックバスは許すことのできない存在なのかもしれない。

 教室の扉のガラスの向こうに人影が見えた。だが不思議なことに、その人影は一向に入ってくる気配がない。

(何やってるんだよ先生。早く止めに入ってよ)

 僕はそう思ったが、先生は動かなかった。

 ゼーゼー、ハーハー……。

 東海林君も高田君もTシャツの襟は伸び、口元から薄っすら血が滲んでいた。

「お前、都会者の割にはなかなかやるな。だがよ、俺はブラックバスなんて絶対に認めねえからな」

 高田君が吐き捨てるように言った。

「認めなくて結構さ。だが俺のすることに口を挟むな!」

 お互いの信念の塊は混ざり合うことなかったようである。

 そこへ、ようやく扉の向こうにいた人影が入ってきた。

「みなさん、おはようございます。騒々しい朝でしたね。物事は落ち着いて考えましょう。頭に血が上ったら、まともに考えられなくなりますよ。そうそう、世の中にはね、答えがいくつもあるっていうことがあるんですよ。小学校の算数なんかは答えが一つしかありませんけどね。さてと、今日の日直は誰だったかな?」

 僕は横に座る東海林君の横顔を見た。唇を噛み締めたその顔はまだ悔しそうだった。

 僕は「大丈夫かい?」と声をかけようとも思ったが、今の彼には慰めにもならないと思ってやめた。

 何となくモヤモヤした一日が過ぎていった。


「なあ、お前のお父さんの釣り道具、見せてくれないか?」

 東海林君が僕にそう語りかけてきたのは、下校間際だった。

「いいよ」

 僕は笑顔で答えた。

 僕の父は隣の笹熊市にある会社まで車で通っている。会社帰りに釣り道具を買ってくることも多い。僕はそれで東海林君の気が少しでも紛れるのなら、父の釣り道具を見せてやりたいと思った。

「本当か? 今日はストレス発散をしたいんだ。目の保養に頼むぜ」

「あまり、いじくりまわさなければいいよ」

「何せこの村じゃ、ルアー用品を売ってないからな。引っ越してくる前は、毎日のようにショップへ冷やかしに行っていたからな」

「この村で釣り道具を売っているって言ったら、雑貨屋の杉本商店くらいかな。それも安物の竿だよ」

 その日は校庭で遊ぶことなく、東海林君と僕は早々に下校した。

「あら、今日は早いのね」

 母が夕飯の支度をしながら、台所から顔を覗かせた。

「今日は友達を連れてきたんだ。ねえ、お父さんの釣り道具が見たいんだって。いいだろ?」

「いいんじゃないの」

 母は父の趣味にあまり口を挟まない。

「お邪魔します」

 東海林君は丁寧に僕の母に頭を下げると、靴を脱いで揃えた。

 僕は冷蔵庫からサイダーを取り出し、戸棚からポテトチップスをかっさらう。すると、母が僕の襟元をムンズとつかんだ。そして小声でささやく。

「ちょいと、あの子、転校生の子だろ? アザだらけだし服はボロボロだし、まさか、お前がやったんじゃないだろうね?」

「違うよ。高田のやつだよ。あいつが因縁つけてケンカになったんだ」

「そうかい。まだ友達も少ないだろうし、親切にしてやるんだよ」

「うん。わかってるよ」

 そして、東海林君と僕は二階にある父の部屋へと向かった。

 父の部屋はいわゆる「趣味部屋」で、釣り道具やキャンピング用品がわんさかと置いてある。家をリフォームする際に「どうしても」と、父親がこだわって作った部屋なのだ。

「おおっ、すげえ!」

 父の部屋には釣竿が何本も立て掛けてあり、戸棚には年代物のリールが並べられている。僕にはその価値がよくわからないが、東海林君は目を皿のようにして見入っている。

「これはガルシアのロッド(竿)じゃないか。こっちはフェンウィック。これは初代のスピードスティック!」

 きっと、マニアにはたまらない竿なのだろう。東海林君は竿の一本一本を食い入るように眺めている。

「なあ、触ってみてもいいか?」

「折らなきゃいいよ」

 ビュッと風を切る音がした。父がいつも竿を振る時の音だ。僕が竿を振ってもこのような音はなかなか出せない。それはおそらく釣りに対する想いに反応して出される音なのかもしれない。

「あれっ、お前のお父さん、トラウトもやるのか?」

「うん。この近辺は渓流が多いからね。イワナやヤマメを狙ってるよ」

「すげえな。トラウトロッドはパームスじゃん」

「お父さんのお気に入りはストリームマスターの66ってやつなんだ。『この竿はいい竿だ』って、酔っ払うといつもうわ言のように言っているよ」

 東海林君の目は戸棚の中にあるリールに移る。

「おおーっ、リールもすげえや。アブのアンバサダー5000Cがあるよ。5500Cじゃなくてギア比の低い5000Cを使っているあたりがマニアだな。黒いボディもイカすぜ。あっ、こっちはカーディナル33とミッチェル408じゃないか」

 僕には東海林君が何を言っているのかよくわからなかったが、学校での虚ろな目とは違い、この時、彼の目は明らかに輝いて見えた。今日、高田君との一件があっただけに、そんな彼の輝かしい目を見ることができて、僕まで何だか嬉しくなってきた。

 東海林君は僕が勧めたサイダーにもポテトチップスにも手を伸ばすことなく、ただただ釣り道具を眺めていた。

 僕はタックルボックスと呼ばれるルアーケースを広げた。そこにはぎっしりとルアーが詰まっている。

「おおっ!」

 東海林君からため息のような声が漏れた。

「す、すげえ。レア物ばっかりじゃないか!」

「そうなの?」

「バルサ50にズイール、スミスにヘドン……」

「ヘドンって怪獣の名前みたいだね」

「ぷぷっ!」

 今までクールを決め込んでいた東海林君が、思わず吹き出した。

「いやー、すごいな。下手なショップよりお前の家のほうが品がそろっているぜ……」

「僕には価値がイマイチわからないんだよ」

「マニアにはたまらないぜ。それにお前のお父さんは釣りが上手いな。ルアーのそろえ方を見ればわかるぜ」

「と言うことは、君も上手いってことだね」

「……まあな」

 東海林君は照れたように頬をかいた。

「そろそろ晩ごはんよ。お友達もご家族が心配しているんじゃない?」

 母の声が響いた。

「いけね」

 窓の外を見ると、もう陽はとっぷりと暮れていた。

「どうもお邪魔しました」

 東海林君は帰り際にも深々と頭を下げた。母も「またいつでも遊びにいらっしゃい」と笑顔で送り出す。

「僕、送っていくよ」

「いいよ。大丈夫だよ」

「いいって、いいって」

 暗くなった夜道を懐中電灯で照らしながら、二人で歩いた。秋の虫の声がそこら中から聞こえる。

「自然が豊かっていうのはいいなあ。でも都会で育った俺にはどこか寂しい気がするんだよな」

 東海林君がしみじみと言った。この地で育った僕にとっては当たり前の景色や音が、彼には違って見えるのだろうか。

「そんな日本の自然にブラックバスは溶け込めないんだろうか? もともと人間がよかれと思って持ち込んだ魚なのに。ブラックバスに罪はないのに」

 そう呟く東海林君の声は秋の虫の声と重なって、どことなく寂しそうだった。僕は思わずそんな彼に同情してしまった。

 

 東海林君の家は僕の家からそれほど遠くなかった。距離にして300メートル程だろうか。古い旧家の作りだった。僕はこの家を知っていた。確かおじいさんとおばあさんの二人暮しだったはずだ。

「ただいま。友達の家に行っていて遅くなっちゃった。ごめん」

 東海林君の声を聞き付けて、彼の母親が慌てて奥から飛び出してきた。本当は綺麗な母親なのだろう。しかし、ずいぶんとやつれて見えた。髪は乱れて、頬のあたりもこけているように思える。

「まあ、正、こんな遅くまでどこ行っていたのよ。それにどうしたの? アザだらけになって、服もボロボロだし……」

 東海林君の母親は口に手を当てて驚きを隠せない様子だ。

「学校でケンカしたんだ。それで帰りにこいつの家で釣り道具を見せてもらってたらさ、夢中になって遅くなっちゃった。ごめんなさい」 

 東海林君は頭をペコリと下げた。しかし、母親はわなわなと震えている。そして東海林君に駆け寄ったかと思うと、思い切り抱き締めた。

「お父さんがあんなことになって、その上、お前の身に何かあったら、私……」

 そこから先は言葉にならなかった。東海林君の母親の目からは大粒の涙がボロボロとこぼれ出していた。

「まあまあ、無事に帰ってきたんだからいいじゃないか。男の子はそのくらい元気がなくちゃ」

 奥から東海林君のおじいさんらしき人が顔を覗かせた。

「それにしても派手にやったもんじゃのう」

 おじいさんも東海林君のアザや服を見て言う。

「ケンカはやり過ぎなければ大丈夫じゃ。わしもガキの頃は派手にやったもんじゃて」

 おじいさんがにっこり笑いながら、東海林君と母親の肩に手を置いた。しわだらけだが、ずいぶんと温かそうな手だった。

「君は桑原君じゃな」

 おじいさんが僕の方を向いて笑った。

「はい、桑原健也です。同じクラスで隣の席なんです」

「そうか、そうか。それにしても大きくなったのう」

 おじいさんが目を細める。

「僕のこと知っているんですか?」

「なーに、この村じゃ2、300メートル先はお隣さんじゃよ」

 おじいさんが豪快に笑った。母親はまだ東海林君を抱き締めたまま涙を流している。

「今日、僕の家で釣り道具を見ていたんです。そしたら夢中になっちゃって。つい遅くなっちゃいました。済みませんでした」

「いやいや、いいんじゃよ。この村じゃ悪さをするやつはおらんて」

 おじいさんは村人のことをすっかり信用しきっているようだ。それはこの村に長く住んでいるからこそわかるのだろう。

「でもね、正。最近お前、ため池の周りで釣りをしてるだろう? 私はお前が池に落ちて、溺れたりしないか心配で……」

 母親が涙をぬぐいながらつぶやいた。

「ふーむ……」

 おじいさんが腕組みをして真剣な顔付きになった。

「確かにため池の周りはぬかるんでいて危ないな。それに正が狙っているのはブラックバスじゃろう?」

 東海林さんが「うん」と呟く。

 おじいさんは玄関の照明を見つめながらため息をついた。

「この村、いや今の世間ではブラックバスは悪者扱いされているからのう。農家のみんなはそれを信じきっとる。そしてブラックバスを釣るやつも白い目で見られる。この小さな村ではなおさらじゃ」

 僕はふと疑問に思った。なぜこんな山間の村のため池にブラックバスがいたのだろうか。

「なぜ、ため池にブラックバスがいたんですか?」

「それはな、十年以上前になるかのう。ちょうどブラックバスを釣るのがブームでのう。誰かがため池にブラックバスをこっそり放したんじゃ。村の者はそんなことはせん。きっとよそ者の仕業じゃな」

 なるほど、と僕は思った。ただこの時まだ、勝手にブラックバスを放流するのが良いことなのか、悪いことなのか、僕にはまだわからなかったが、人間の都合で殺されていくブラックバスの運命に同情せざるを得なかった。

「じゃあ、遅くなりましたので僕はこれで失礼します」

 僕は頭を下げて帰ろうとした。

「ああ、ちょっと待った」

 するとおじいさんが引き留めた。

「転校してきたばかりの正に優しくしてくれてありがとうよ。これからもよろしく頼みます」

 そう言ってザルに一杯のナスとキュウリをくれた。

「ありがとうございます」

 おじいさんはにっこり笑い、母親は少し不安そうな笑いを浮かべて僕を送り出してくれた。


「遅かったじゃない。心配したわよ」

 家に帰った僕を母は心配そうな顔で出迎えた。

 父はもう会社から帰っていて、居間で野球中継を観ながらビールをあおっていた。

「おう健也、お帰り。転校生の友達ができたんだって? 母さんから聞いたぞ。しかも釣り好きらしいな」

「うん。ブラックバスを釣るのが好きなんだ。お父さんの道具を見せたら喜んでいたよ」

 僕は母に東海林君のおじいさんからもらったナスとキュウリを差し出した。

「まあ、立派なナスとキュウリじゃないの。一体どうしたの?」

「東海林君のおじいさんにもらったんだ」

「東海林君って、今日遊びに来た子?」

「そうだよ。300メートルくらい上ったところの古い家に住んでいるんだ」

 僕がそう言うと、父親と母親が顔を見合わせた。

「それってもしかして、山岸さんの家じゃないの?」

 母が驚いたように叫んだ。

「え、でも東海林君は東海林君だよ。何でも、お父さんが交通事故で亡くなったんだって」

「旦那さん亡くなったのか? そうか、それでも亡くなった旦那さんの苗字から変えていないんだな」

 父がつぶやくように言った。

「と言うことは、秀美ちゃんもこの村に戻ってきてるってわけか」

 父がチビッとビールをすすった。

「まさか今日来たあの子が秀美ちゃんの息子さんとはねぇ」

 母がため息をつく。

「秀美ちゃんって東海林君のお母さんのこと?」

 どうやら、父も母も東海林君の母親のことを知っているようだ。

「そうよ。東海林君のお母さんと私たちは同級生なのよ。秀美ちゃんは高校を卒業して東京の大学に行って、あっちで結婚しちゃったけど、こんなかたちで戻ってくるなんて思ってもみなかったわ」

 母はやり切れないといった表情で、また深いため息をついた。父もビールを飲むペースが落ちている。いつもなら流し込むように飲むのに。

「さあ、夕ごはん、冷めちゃったわよ。早く食べなさい」

 僕は母に促されてテーブルに着いた。その日は好物のショウガ焼きだったが、あまり味がしなかった。味がしなくなったガムを噛んでいるようだった。



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