『序論 : 三年生 冬』
「ごめんなさい。わたし黒崎くんとは付き合えない」
三月、隙間風で冷え切った廊下に少女の微かな声が響く。初めての告白、初めての恋を散々な結果で終えた僕は、小走りで去っていく少女の後ろ姿をただ呆然と眺めていた。
「はは……」
乾いた笑いが口をついて漏れる。卒業式を終えた校舎に人の気配はなく、少しの肌寒さと、視界が揺らぐ感覚のみが残っていた。
高校に入学して三年目、本気で好きだった人に振られた。彼女のことを想わなかった時はなかったし、自分が自分じゃないくらい、毎日が輝いて見えた。
「まあ、僕じゃダメだったか……」
灰色の天井を見上げて独り言つ。いま、僕の心は悲しみでも憂いでもなく、巨大な虚無に支配されていた。多分もう普通に彼女と話すことは出来ないし、普通に彼女と笑い合う事も、会う事もないのだろう。こんなことなら、いっそ告白なんてしなければ良かったのに。
耐え難い現実から少しでも逃れたくて、僕は彼女の去っていった方向とは逆方向に、長い長い廊下をふらふらと歩き始める。
無機質な足音が生まれては、冬の空気に溶けていく。目的地もなく、意図もなく、ただ何かから逃げるためだけに歩いていた。
何分経ったかは分からない。ふと、俯いた視界の正面に人影が映り、僕は歩みを止めた。
コツ、と軽いローファーの音が鳴り、それと同時に正面の人物のスカートが揺れる。つられて僕が顔を上げると、目の前の少女は気怠そうにポケットに突っ込んでいた手を出し、片耳からイヤホンを外した。
「あんた、大丈夫?」
覇気のない、けれどもしっかりとして透き通った声が僕に投げかけられる。
僕は何と答えたらいいのか分からず、ただ目の前の少女を見つめた。
金色の長い髪、耳には沢山のピアス、着崩した制服、校則違反のイヤホン。その人物は、どこからどう見ても自分とは全く別の世界にいた。しかし、彼女の表情は気怠げながら、どこか優しさを内包している様にも感じられた。
「……なんかあった?」
少し首を傾げながら、やる気のなさそうな、それでいて芯のこもった切れ長の瞳をこちらに向けてくる。
「あぁ…、いや。えっと…」
「うん」
言葉が上手く出てこない。それでも、彼女は僕の言葉を待ってくれていた。
「言いたくないなら、別にいいけど」
彼女は優しい口調でそう言って、僕の近くまで来て肩にぽんと手を置く。
「近くにくらい居てあげるから、そんな今にも死にそうな顔しないでよ」
困った様な瞳が僕を覗く。
「わたしで良いなら、全然話とか聞くからさ」
そんな優しい言葉をかけられて、必死に堰き止めていた感情が、ぽつぽつと溢れ始めた。
「……えっと、僕さ……」
「うん」
「さっき、好きな人に……」
「うん」
「……っ、振られ……たんだ……」
見ず知らずの女の子を前に、弱音を吐露する。そんな自分が酷く情けなく思えて、どうしようもない奴に思えて、目に涙が滲んでいくのを感じた。
「そっか」
僕は何をやっているのだろう。これ以上恥を重ねて、どうしろというのだろう。目の前の彼女だってきっと引いているに違いないし、困っているに違いない。
すぐに謝ってこの場を後にしよう、そう思って、僕は涙に濡れた顔を上げた。
「ごめん。僕もう……」
「…ひぐ…っ…」
「え?」
一瞬、理解が追いつかなかった。しかし、大きな瞳に大粒の涙を浮かべ、ぽろぽろと雫をこぼす彼女を見て、やっと彼女が泣いていることに気がつく。
「な、なんで……?」
「わっ、わかんないけど、あんたが……」
少女は肩を震わせながら、辿々しく言葉を紡ぐ。
「あんたが…っ、悲しそうだからぁ………」
そう言って、両手で顔を覆って泣き出す彼女を、僕は自分が今さっきまで泣いていたことも忘れて、ただただ眺めていた。
誰もいない廊下に、その少女の静かな泣き声だけが木霊していた。
「急に泣いたりして、……なんかごめん」
散々泣いた後、彼女は恥ずかしそうに僕に謝った。
「僕は全然いいんだけど、君は大丈夫?」
「うん、まぁ、稀にある事だから」
「……?」
彼女が何を言ってるかは分からなかったが、大丈夫ならそれで良いかなと思えた。僕も不思議とさっきより気分が落ち着いている。
「あーあ、なんか恥ずかしいとこ見せちゃった」
「お互いにね…」
いま、僕らはそれぞれ新しい黒歴史を抱えながら、再び廊下を進んでいた。相も変わらず物寂しい廊下だが、さっきとは違って、今は隣に金髪の少女が歩いている。
「そう言えば、君はここで何してたの?」
ふと、湧き出た疑問をぶつけてみる。卒業式後の校舎なんて、何か特別な用事でもなければ残っているのは少し変だったからだ。
「秘密」
「そ、そうですか…」
僕の疑問は解消されることなく散った。
「そんな事より、あんた、名前は?」
「えっ、名前?」
まさか名前を聞かれるとは思っていなかったから、微妙に動揺してしまう。そんな僕を見て、彼女は少し怪訝そうに眉をひそめた。
「いつまでも「あんた」とか「君」じゃキモいでしょ。ほら、名前」
そう言って、手でちょいちょいと、早くよこせという仕草をしてくる。
「く、黒崎…」
「下の名前は?」
「…霞」
「かすみ」という名前にあまり良い思い出がなく、言うのを少し躊躇ってしまった。
「くろさきかすみ。うん、なかなか良い名前じゃん」
しかし、彼女は顔色一つ変えずに僕の名前を「良い名前」だと言ってくれる。
ふと、こんな人が友達で居てくれたら僕の高校生活はどんなに良かっただろうと、そんな考えが脳裏をよぎった。
奇しくも弱みを見せ合った彼女と、男や女なんて全く関係なく「本当の友達」になりたかったと少しだけ思った。
だから、次に来る彼女の言葉に僕は驚き、そして同時に、何かが始まる予感がしたんだ。
「こほん」
彼女は一つ咳払いをして、僕に向き直った。
「わたしは″元″三年の秋木 千景」
そして、秋木は優しく笑った。
「黒崎、私たち″もう一度″友達になろう。次こそ、誰もが認める本当の友達にさ」
校舎には、下校完了時刻を告げるチャイムが響いていた。
そこで、僕の意識は途切れた。