Karte.1-1「……世界は絵本の中ではないのです」
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【Karte.1「ただの白魔法師」】
ルクスエン大公国とベルアーデ帝国との国境地帯に、『ただの白魔法師』と嘯く乙女……イエが現れた。彼女は精霊や妖精たちが蔓延る森の奥へと進んでいく。
一方、ベルアーデ帝国のとある青年兵士が、仕事のため国境地帯を訪れるのだが……。
Karte.1『ただの白魔法師』
星暦1853年7月。
星を破壊し続けた人間たちを、風の精霊王ティターニアと土の精霊王タイタンは見限った。
すなわちそれは、風と土の『精霊の加護』が失われた瞬間でもあった。
精霊の加護が無ければ、人間は星に満ちる魔力を……エーテルを魔法へ変えられない。
外より降ったこの力を、人間は己の智慧だけでは拝領しきれない。
そして絶望に沈んだのは、『白魔法師』と呼ばれる人々である。
世界でもっとも普遍なる魔法体系の一つ、風属性と土属性との複合式ーー、
ーー回復魔法が使えなくなったのだから。
時に、1854年。
このクリア戦争は、いまだ救いを知らない。
○
そこは、来るべき者のみが流れ着く場所。
満月の夜。潮風まみれの廃材で組まれた小屋の中で、三つの人影が向き合っていた。
「いこうよ! 『救い』を信じて!」
その少女の人影は土色の輝き。突風を巻き上げる地脈の迸りがごとく、元気を震わせている。
「僕たちも君の眼になります。人間も、精霊も、きみが愛する全ての命を一緒に見届けさせてください」
その少年の人影は風色の輝き。大地に息吹を与える薫風の流れがごとく、意気を吹かせている。
「……はい」
そして。その乙女の人影は、真白。
輝きは無い。
『火』でも、『水』でも、『土』でも、『風』でも、ましてや『光』と『闇』でもなく。
その乙女はただ一人の人間だった。
「私はただの白魔法師でいいのです。それで誰かの命が救えるのなら、私は、世界だって救ってみせましょう」
その乙女は、ただ、一人の白魔法師だった。
そして輝きは一つとなった。
祝福無き、彼女の旅がはじまったーー。
○
4月16日 午後7時
南エポルエ大陸西部、ルクスエン大公国はグレイブマハの村。
ベルアーデ帝国の対精霊戦線から遠く離れているにもかかわらず、国境沿いのこの村もまた、戦地から溢れた傷病者たちの受け皿となっていた。
夕暮れ時の空は何の気兼ねもなく黄金色に照り、野原を抜ける地平は草花を揺らしている。
魔法技術で近代化された家々や街灯から、色とりどりのエーテルが輝きとして排気されている。
伐採所を兼ねて森林を切り開き続け、国内きっての開発地区として有望されていたこの村だ。魔物や精霊が巣食えるだけの自然は周辺から取り払われ、戦争の影自体はまだどこにも見えない。
しかしてその黄昏た足音は、ささやかな診療所の内外にて呻き声として詰め込まれていた。
「うぅぅ……ぁぁ痒い……痛、痒ぃぃ……!」
本来は農具が得物なのだろう民兵たち。鉄板を縫いつけただけの平服を満足に脱ぎ去ることもできないまま、血生臭い藁のベッドに寝かされている。
「先生、なあおいぃ、毒消しの魔法ぐらい使えねぇのかよぉ……おーい、っ、ごほっごほげほ……」
杭のように巨大な樹木のトゲが、ほとんどの患者に刺さっていた。その患部からはちょうど漆に負けたかのように蕁麻疹が広がっており、掻き毟ってしまっている者も少なくはなかった。
「……無論、私とてそれくらい使えるが……」
対して治療に走り回っている医師は大げさなまでの防護服で頭の先からつま先まで包み、香草を詰め込んだマスクを被っている。さながらカラスの着ぐるみ姿のようだった。
「いや、それくらい使えたが……何度も同じことを言わせないでくれ。今はどんな白魔法師だって治療用の魔法は使えんのだ。回復魔法でも解毒魔法でもな」
医師、もとい、元白魔法師というべきか。
彼は、マジックグラスを珠に封じた支給品の杖を手に取り。患者へとかざしてみせた。
体内のエーテルを言霊として、声ならざる詠唱。手元から風色と土色の微光が発せられる……。
「《ヒーリ……ーーふん、見たまえ。精霊は応えない」
しかしその願いは、世界に満ちる魔力……エーテルを変換しきれずに霧散した。
「我々は星に甘えすぎた。精霊に演算を願わなければ魔法一つ為せない……己がエーテルだけではこの大いなる力を拝領しきれないというのに、星の落とし子たちを怒らせてしまうとはな」
体内魔力『オド』だけでは智慧が足りない。大気魔力『マナ』を……世界に満ちる力を書き換えて魔法と為すには、人は精霊の加護をこそ必要とするのだ。
「それとも、そうだな『火』と『水』なら……大昔に廃れた古式回復魔法なら試してやろうか? 激痛にまみれるか合併症を誘発するか……ムウ修道会が今の回復魔法体系を編み出したのにはそれなりのワケがあるのだがね……」
「う……うぅ、ぅ……」
魔法治療には頼れない。医学や薬学にしても魔法の応用は少なくなく、『風』と『地』の属性が封じられていては不自由を強いられている。
己のジョブに似合わないものでも代替案を模索し続け、探り探りの診療にあたる日々。それはヒーラーたちを孤立させる閉塞感となり、この町医者のように疲弊させていた。
「せ、先生ーっ、こちらの兵隊さんのお膝が真っ黒ですわっ! ユグドラシルの毒ってこんなところにも出るのですの!?」
むしろ、日雇いの助手たちのほうがまだ効率的ですらあった。教わった看病法を愚直にこなし続ける……ただその他にやりようがなかったのだから。
「落ちつけ、そいつはたぶんただの骨折だ。たぶんな……後で診るから黙っててくれ……。さあみんな、ずいぶんと待たせたが今日もポーションを仕入れてきたぞ」
「うぅ……先生、それ粗悪品じゃないのかぁ? ちょっと元気は出るけどよぉ、痛いのと痒いのがぜんぜんひかねぇんだよぉ……」
医師が木箱一つ分用意してきたのは、緑色の液体が入った小瓶たち。
マンドラゴラの根……ではなく副産物の葉から薬効成分を抽出したライフポーション。遅効性かつ際立つ効能ではないが、傷口にかけてもよし、あるいは飲んでもよし、汎用的な回復薬だ。
「我慢してくれ、おそらくあと数回の服用で効果が出る……ポーションとて効能は《ヒーリング》と似たようなものなのだ……」
自分自身へ説くように。医師は、藁にも縋るように手を伸ばしてくる患者たちへ小瓶を配りだすーー。
「ーー失礼します」
「は?」
ーーその腕が、細指に掴まれて止まった。
助手たちもキョトンとしている。
いつの間にやら、
ここには医師でも助手でもない彼女がいた。
開け放たれた戸口が後ろ手に閉まるより早く、隔離されたこの場にズケズケと踏み込んでいた。
「ユグドラシルの毒の治療にライフポーションは不適切です。どうしてこのような処置を?」
彼女は、鉄の白衣を纏った乙女だった。
年の頃は十六、七か。マスクが仕込まれたフードを被っているゆえに全貌は秘されているが、長い白髪の毛先をまっすぐ切り揃えた特徴的な髪型や、黒眼のきらやかなるシャープな顔付きから、極東のニフ国の人間かと見てとれる。
その白衣はムウ修道会の制式ローブだったが、ニフ国の和鎧がそうであるように、赤地の装甲札たちを要所に縫い詰めてあった。
襷なる布で両脇に掛けているのは、おびただしい数の医療鞄である。
そして背には、包帯で封じられた『b』の字型の何かを負っていた。
「……あ、ど、どうしてって、ライフポーションは生命力を回復させるものではないか。回復魔法……《ヒーリング》が自然治癒力を高めるのと似たようなものだ。だから患者を信じればきっと治るーー」
「治りません」
「ぐっ?」
異質過ぎる闖入者に呆然としていた医師だったが……本当は、この乙女の底知れない眼差しに呑まれそうになっていたのかもしれない。事実、一蹴されただけで息が詰まってしまっていた。
「ユグドラシルの毒の症状は、エーテルを帯びた樹液へのアレルギー反応です。《ヒーリング》ならアレルギーの原因となる免疫機能も調整してくれますが、ライフポーションで生命力を回復させるだけでは根本的治療になりません」
「な、っ……?」
乙女の黒曜の瞳はあまりにもまっすぐすぎた。
「回復魔法があればなんでも治せる、回復魔法が無ければポーションやアビリティでなんとかなると考えていませんか? ……世界は絵本の中ではないのです、そんな都合のいいものではありません」
「なッッ、何を言うか! 失礼な!」
この不自由な魔法の世界よりも、揺らぐことはなかった。