悪役令嬢と兄(と言う名の二人目の攻略対象)
「どうぞ、アナスタシア様」
ロイドがそう言って一つの扉を開けてくれる。どうやら、ここがシュトラス公爵家の当主の部屋らしい。……アナスタシアの記憶の中にある当主の部屋とは位置が違うわね。まぁ、改装したのだから当たり前か。
「失礼いたします、お兄様」
私は部屋に入る前に一度だけ深呼吸をして、その後部屋の中に声をかけた。すると、小さく「アナスタシアか」と言葉が返ってくる。だから、私は静かに「はい」とだけ答えた。下に向けていた視線を上げれば、そこにはアナスタシアが大好きだった実の兄、マテウス・シュトラス公爵の姿がある。……実質二人目の攻略対象ね。
(マテウス・シュトラス公爵)
彼の名前はマテウス・シュトラス。身分は公爵。悪役令嬢アナスタシアの実の兄であり、乙女ゲーム内では甘やかされて育ち考えが甘いアナスタシアを毛嫌いしていた。つまり、乙女ゲーム内で「好き」という感情はアナスタシアの一方通行だったのだ。しかし、この世界は違う。……「好き」という感情が、アナスタシアの一方通行ではないのだ。
「久しぶりだな、アナスタシア。回復したようでよかった」
お兄様はそうおっしゃってからにっこりと微笑んでくださった。その笑みはとても美しく、周りの令嬢が放っておかないのも納得だし、乙女ゲームの攻略対象としても納得だった。アナスタシアと同じ茶色の髪と、鋭いブルーの瞳。背丈は高め。これだけハイスペックなのに独身だというのだからある意味すごい人だ。そう思ったものの、この世界のマテウス・シュトラス公爵には明らかな「欠点」があるため、納得する部分もあった。
「えぇ、お見舞いの品やお手紙誠にありがとうございます。元気が出ましたわ」
私がそう言って微笑めば、お兄様は笑みを深めてくださった。あぁ、美形だ。さすがは乙女ゲームの世界と言うべきか。そう思っていた私を他所に、お兄様はゆっくりと私の方に近づいてこられる。
「そうか、だったらよかった。……ふぅ、俺の方でもお前に毒を盛った輩を調査しているが、はっきり言って難航しているな。……もう動いて大丈夫なのか?」
「ええ、もう侍医に許可はもらいましたので。最近では王宮の図書館にも出入りしているぐらいです」
そう言って私がにっこりと笑みを深めると、お兄様は「よかった」と呟かれる。そして、私の頭を軽く撫でてくださった。アナスタシアは幼い頃からお兄様に頭を撫でられるのが好きだったのよね。うん、その気持ちは今になってもよくわかるわ。
「そう言えば、今日は泊まるんだったな。部屋は侍女に用意させているが……何か必要なものはほかにあるか?」
「いいえ、特にありませんわ。必要なものはお伝えしたとおりです」
「……そうか」
私の言葉に、お兄様が少し不満そうな表情を浮かべられる。……この世界のマテウス・シュトラス公爵という人物は、アナスタシアのわがままが好きだったのよね。だから、少し寂しいと思っているのかもしれない。……でもさ、アナスタシアがあんな性格になったのはお兄様の所為でもあると思うのよね。だから、お兄様にも責任があると思うのよ。
「まぁいい。食事の時に詳しい近況報告を聞こう。……お前が毒で倒れたと聞いた時は、生きている心地がしなかったよ」
「……大袈裟ですわね」
「いいや、それぐらい俺にとってはお前は大切な存在なんだ。……たった一人の、妹だからな」
お兄様はそうおっしゃってそれはそれは美しい笑みを浮かべられた。……相変わらずのシスコンだな。私は心の中でそう思いながら、出来る限りふんわりとした笑みを浮かべてみる。……実際にふんわりとした笑みになっているかは分からないのだけれど。それはまぁ……自分の気持ち次第よね、うん。
「俺はまだ生憎仕事があるからな。……ロイド、アナスタシアを客間に案内してやれ。一番豪華なところを準備させているからな」
「はい、マテウス様。アナスタシア様、行きましょうか」
ロイドにそう声をかけられ、私は当主の部屋を出ていく。……お兄様は公爵様だものね。そりゃあ、忙しいわ。
(……アナスタシアだった頃は、寂しいとかわがままを言ったのでしょうね。まぁ、中身が変わってしまった以上そんなことは言わないのだけれど)
私は心の中でそうつぶやきながら、ロイドに連れられて客間に向かう。……それにしても、相変わらずの妹バカだな、お兄様。客間でも一番豪華なところを準備させるなんて。普通、王太子妃でも妹なのだからそれなりのところを準備させると思うのだけれど? 私はそんなことを思いながらロイドについていく。
(……そう言えば、今ロイドはお兄様の従者をしているのよね)
ロイドは乙女ゲームのシナリオ中は確かにアナスタシアの従者だった。でも、今はアナスタシアの従者ではない。多分お兄様の従者をしていると思うのだけれど……それでロイドは納得しているのだろうか?
(ロイドが忠誠を誓っているのはシュトラス公爵家ではなく、アナスタシア本人なのよね。……まぁ、それは乙女ゲーム内の話なのだけれど)
前世の妹はロイドはシュトラス公爵家ではなくアナスタシア本人に忠誠を誓っている、と語っていたはずだ。そうなったら……ロイドは、今の待遇に納得しているのだろうか? シュトラス公爵家は使用人の待遇が良いと評判だけれど、ロイドに限っては違うと思う。
「……ねぇ、ロイド」
だから、私は意を決してロイドにそう声をかけた。すると、ロイドがゆっくりと振り返ってくれる。その瞳には……どこか狂気が宿っているように、私には見えた。