悪役令嬢と乙女ゲームのラスボス
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(アナスタシアにとっては久々の実家ね)
私は心の中でそう唱えながら、少し先にある大きな屋敷を見据えた。白を基調としており、上品な印象を与える外観。庭には花々よりも木々が多く、まるで森の中にいるような錯覚を起こさせる。しかし、それも屋敷の品を損なわない程度に調整されているからすごい。これは先代の当主……つまりはアナスタシアの父の趣味だった。
「アナスタシア様。おかえりなさいませ」
少し実家の庭を散策したいということで、屋敷の玄関よりも少し遠い場所で馬車から降りた私。アナスタシアの時のお気に入りの場所で少し深呼吸をすれば、そんな風な声がかけられる。……聞き覚えのある声だった。そして、それと同時に悪寒が走る。平坦で、抑揚のない声。しかし、その声の節々には彼なりの甘さがこもっている。男性にしては少し高めの声は、確かにアナスタシアの記憶にある通りだった。
「……ロイド」
私がゆっくりとそちらに視線を移せば、そこにはにっこりとした人当たりのよさそうな笑みを浮かべる一人の青年がいた。彼はアナスタシアのゲーム内での従者。名前はロイド・ぺリング。さらさらとした漆黒色の髪を後ろで一つに束ね、エメラルド色の瞳を持つ美青年。彼はアナスタシアの「前では」柔和な表情を崩さない穏やかな青年。いつだって影のようにアナスタシアに寄り添う乙女ゲーム内の……「ラスボス」。
『お姉ちゃん! ロイドっていうラスボス、お姉ちゃんが好きそうだよね!』
前世の妹のそんな言葉が今でも鮮明に思い出せる。今ならばわかる。確かにこのロイドという青年は……前世の私好みの顔をしている。
「はい、アナスタシア様」
ロイドは柔和な表情を崩さずに返事をする。その後、そのまま私の方に近づいてくる。妹曰く、このロイドという従者はラスボス的な存在ではあるものの、場合によってはヒロインの味方もするという特殊なキャラクターらしい。……まぁ、シナリオが終了した今大して意味はないのかもしれないけれど。
「アナスタシア様がお目覚めになられたと聞き、俺はとてもホッとしました。……あのままアナスタシア様がお目覚めになられなかったら、俺は気が狂っていたでしょう」
そう言ったロイドは、私の顔を覗き込んでくる。エメラルド色の瞳に映ったその「狂気」は見ないふりをした。ロイドは私ではなくアナスタシアが好きなのだ。アナスタシアであり、アナスタシアではない私の存在に気が付いたらどういう行動に出るかが分からない。だから、前世の記憶が蘇ったことは隠すに限る。
「そうなのね。今日は私、お兄様に会いに来たの。お手紙で要件は伝えたのだけれど、やっぱり実際に会いたくなっちゃって」
「そうでございますか」
私の言葉に納得したようにうなずき、ロイドは私から遠のいていく。アナスタシアは重度のブラコンであり、兄のことが大好きだった。だからこそ、ロイドはその言葉に納得したのだろう。……うぅ、アナスタシアを演じるのは結構辛いものがある。だけど、ここで正体がバレるわけにはいかないのだ。
「では、マテウス様の元まで俺が案内しましょう。つい先日、屋敷の改装工事を行いまして部屋の配置が微妙に変わっておりますので」
「そう、じゃあお願いするわ」
……そう言えば、屋敷を改修工事したとか手紙に書いてあった気がするわ。よく覚えていないけれどさ。アナスタシアは兄からもらった手紙は保管しておくぐらい大切にしていたみたいだけれど、私は別にそこまで手紙を大切にする意味が分からないし。
「では、向かいましょうかアナスタシア様」
ロイドにそう促され、私は屋敷の玄関へと向かう。木々が太陽の光を少し遮っていることもあり、直射日光は当たらない。それがいいのか悪いのかはよく分からないけれど、まぁいいとしておこう。そう思いながら、私はロイドの背中を見つめていた。
「アナスタシア様。そう言えば、アナスタシア様は本日屋敷に泊まるのですか?」
「えぇ、そのつもりよ。お兄様にはすでに伝えてあるわ」
「そうなのですね。それはそれは……よかったです」
そんな含みのありそうなロイドの言葉を聞きながら、私は屋敷の玄関を遠くから見つめていた。大きな玄関は、前世で住んでいた家とは大違いだ。さすがは公爵家と言うべきなのだろうか。アナスタシアだった頃は、これが普通だと思っていたけれど今思えばそれってすっごく贅沢よね。
「どうぞ、アナスタシア様」
私がそんなことを思っていると、ロイドが玄関の扉を開けてくれる。だから、私はゆっくりと一歩を踏み出し屋敷の中に足を踏み入れた。玄関だけでわかるのは……この屋敷にいかにお金がかかっているかということ。玄関に飾られた骨董品や絵画。それだけでもきっと庶民の給金数年分に相当するのだろう。……あぁ、贅沢だわ。
「こちらでございます」
そんなことを考える私を他所に、ロイドは足を進めていく。そうよね、アナスタシアは生粋の貴族の娘。……こんなことで、何かを思うわけがない。
(アナスタシアになった以上、踏みとどまるわけにはいかないのよ)
私は心の中で自分をそう鼓舞し、手のひらを握り締める。アナスタシアになってしまった以上……私はここで生きていくしかないのだ。そして、この国を良くするしかない。離縁をして王太子妃という立場を捨てるとしても、この国を良くしないと何も始まらない。私は確かにそう思っていた。