子爵令嬢ジュリエットの初恋(2)
伯爵邸にたどり着き、パーティーホールに入ると、その迫力に圧倒されて数歩ほど後ずさってしまった。そして、心を支配するのは逃げ出したい気持ち。しかし、その気持ちをグッとこらえて私は足を前に進めていく。
ここ、ティハニヒ伯爵家のとても裕福な家だ。その権力は下手な侯爵家よりも上であり、本当にシャリエ子爵家が懇意にさせていただいているのが奇跡に近い。パーティーホールの中にあるのは、煌びやかな装飾品の数々に美しい料理。一流の音楽家たちの演奏。吊るされたシャンデリアはとても豪奢であり、到底我が家では手に入らないものだろう。
「やぁ、ジュリエット嬢。来てくれて感謝するよ」
「……あっ、ヴィクトール様」
私が茫然と壁に寄りかかっていると、そんな風に私に声をかけてくださるお方が一人現れた。そのお方は、濃い緑色の短髪と、紫色のおっとりとした形の瞳を持つ美しい男性。そのお方を、私はよく知っている。――このティハニヒ伯爵家の嫡男であり、今回のパーティーの主催者であるヴィクトール・ティハニヒ様だ。
「ところで、今回は一人での参加? 俺でよかったら、話し相手になろうか?」
「……い、いえ、滅相もございません……! 私は一人で大丈夫ですので、どうかご挨拶に……!」
ヴィクトール様は今回のパーティーの主催者だ。だから、私なんかに付きっ切りになるわけにはいかない。ヴィクトール様と私は幼馴染のような存在だから、まだ話せる。はっきり言ってヴィクトール様と一緒に居れば安心だけれど、それでも無理なものは無理。だって、数多のご令嬢から突き刺さるような視線を向けられているんだもの……!
「そう、か。じゃあ、何かあったら遠慮なく声をかけてくれたらいいからね」
「は、はぃ……。ありがとう、ございます」
私はヴィクトール様のお言葉にそれだけを返して、静かに頭を下げた。遠のいていくヴィクトール様の後ろ姿に、私は少しの寂しさを覚える。……一人になったから、だろうか。そう思い、ぎゅっと胸の前で手を握った。大丈夫、大丈夫。私は――大丈夫。
そんなことを自分自身に言い聞かせていると、ふと人だかりが歩いてくるのが視界に入る。その中心にいるのは、桃色の髪をした愛らしい少女。彼女は笑みを浮かべながら、取り巻く数々の男性たちの声に反応している。……あの容姿、私見たことがあるわ。肖像画で、なんだけれど。
(あの人って……キャンディ・シャイドル様じゃない)
あの容姿は間違いない。今年の聖女候補の一人である、キャンディ・シャイドル様だ。彼女は可愛らしい笑みを浮かべていることもあり、男性たちは頬を染めて見惚れている。……うん、その笑みが可愛らしいことは私にも分かるわ。だって、愛嬌があるんだもの。
(あれぐらい愛嬌があったら、私も……)
そう思うけれど、ないものねだりなんてしても虚しいだけだと私は知っている。だから、私はキャンディ様から視線を逸らした。もうお一方の聖女候補であるアナスタシア様は、高位貴族らしく気品に満ち溢れたお方だと聞いている。それに対して、キャンディ様は庶民的で親しみやすいとも。……そう言えば、キャンディ様がアナスタシア様の婚約者であるウィリアム殿下にご執心だという噂を聞いたこともあるわ。……真実なのかは、分からないのだけれど。
「キャンディ様。本日は、来てくださり感謝します」
私がそんなことを考えているとき、ふとヴィクトール様のそんな声が聞こえてきた。そちらに視線を向ければ、ヴィクトール様は深々と一礼をされながらキャンディ様を迎え入れられている。聖女候補というだけで、その身分は一時的に高位貴族並みになるという。ヴィクトール様も、それに倣ってキャンディ様を迎え入れられているのだろう。
「いえ、本日は招待していただいて、嬉しく思っておりますわ」
それに対して、キャンディ様はそう答えられていた。その声は、とても高くて。聞く人によっては不快に聞こえてしまう高さかもしれないけれど、彼女は聖女候補。何も言えるわけがない。
「では、キャンディ様。少々案内をさせていただきます」
その後、ヴィクトール様のそんな声が聞こえて来て……彼が、キャンディ様の手を取るのが見えた。その頬はどこか赤く染まっているようで、ヴィクトール様はキャンディ様に好意を抱いているのだと知ってしまった。……幼馴染的な存在だったのに、私彼のこと何も知らなかった。
「ちょっと、邪魔よ!」
「あっ!」
そして、私がそんなことを思っていた時だった。ふと、側にいたご令嬢に突き飛ばされてしまう。そのご令嬢方は、ふらついて地面に倒れこんだ私を一瞥してそのまま立ち去って行かれた。……何よ、感じ悪い。そう思うけれど、私が何かを言えるわけがなくて。黙ってその場で立ち上がろうとしたのだけれど……足首の痛みに、顔をしかめてしまう。足、捻ったかもしれない……。
(けど、誰にも助けなんて求められないし……)
ヴィクトール様はキャンディ様をおもてなしされているし、赤の他人に助けを求めるなんて私に出来るわけがない。けど、何とかして起き上がらなくちゃ。後で悪化しちゃうかもしれないけれど、何とかして起き上がろう。
(痛いけれど……起き上がらなくちゃ)
必死にそう自分に言い聞かせて、私が立ち上がろうとした時だった。私の目の前に、手が差し出される。その後「大丈夫ですか?」という優しい声が聞こえてきた。
「足、痛そうですけれど大丈夫ですか?」
「……あ」
その手の主は、私のことを本気で心配してくださっているようだった。声音から、それはひしひしと伝わってくる。だから、私は顔を上げた。すると、そこにいらっしゃったのは――。
(クラウス・ギャロウェイ様)
ウィリアム殿下の腹心とも名高い彼の専属従者、クラウス・ギャロウェイ様だった。




