悪役令嬢と闇の魔法陣
☆☆
それからしばらく、また何も起こらなかった。私は相変わらずクラウスから情報を買い、領地経営に精を出す。ウィリアム様との関係も、夫婦とは言えないけれど良好なものになったと思う。お兄様とマックスさんのお力もあり、領地は徐々に活気にあふれ始めた。まずは、住んでいる人が前向きにならなくちゃ何も始まらないもの。だから、私は領民の意識改革から始めたのだ。
「アナスタシア様!」
「あら、どうしたの?」
そして、本日は二度目の孤児院訪問の日。ロイドにとりあえずと孤児院の設備の応急手当を手配してもらったこともあり、孤児院はこの間よりはマシな姿になっている。……お財布が、痛いわねぇ。でも、仕方がないわ。これもすべてこの国を良くするため。……王家が金欠だから、どちらにせよ私がお金出さないといけなかったし。
孤児院にたどり着けば、すぐにハナちゃんが駆け寄ってきてくれる。その後、今日の朝作ったのだというお菓子を持ってきてくれた。……形は少し不格好だけれど、きっちりとしたアップルパイのよう。あのレシピ、役に立ったのね。
「この間送ってくださったレシピで作ったの! そこにいる従者さんに教えてもらいながら!」
「そう、役に立ったのならばよかったわ」
「美味しくできたから、今日の朝にも作ったの! アナスタシア様にも食べてもらいたくて……」
そう言ったハナちゃんを、シスターたちが止めようとするけれど、私はお構いなしに一口大に切られたアップルパイを受け取って、そのまま口に放り込んだ。サクサクとしたパイ生地と、りんご特有の甘味。……うん、美味しい。というか、前世での味そのままだ。まぁ、レシピや材料が全く一緒だから仕方がないか。
「ありがとう、美味しかったわ」
私はアップルパイを飲み込んだ後、手を拭いてそう言った。シスターたちが、驚いたような表情をしている。……さすがに、王太子妃がこんなことをするのははしたなかったかしらねぇ。でも、こんな子供が毒を盛るわけがないし。……はぁ、毒に対して敏感になっている気もするけれど、仕方がないわよね。
「あ、あの、アナスタシア様……」
それからしばらく、子供たちの話を聞いているとふと一人のシスターが私のことを呼びに来る。その表情は、どこか困ったような表情で。私は子供たちに挨拶をしてから、シスターについていった。後ろでは、ロイドとシルフィアさんが着いてきてくれている。本日はロイドとシルフィアさん、それから私の三人での行動。ウィリアム様とお兄様は果樹園に行ってくださっているし、マックスさんは書類仕事をされていた。
「どうしました、シスター?」
子供たちから離れた後、私はシスターにそう問いかける。すると、シスターは慌ただしく「申し訳ございません!」と勢いよく謝ってきた。……いや、なんで? そう思って私が「どうしたのですか?」と出来るだけ穏やかに問いかければ、シスターは「……その、孤児院の壁が……」なんて言う。壁? それが、どうしたのだろうか? そんな風に私が怪訝に思っていると、シスターは私たちをとある場所に案内してくれる。そして、そこで見たのは――。
「なんていうか、ひどいですねぇ……」
大きな、落書きのようなものだった。それを見て、シルフィアさんがそんな声を上げる。その落書きは、一見すると魔法陣にも見えるような形をしている。……少しだけ手を伸ばして触ってみるけれど、魔力は感じられない。多分、ただの落書きだわ。
(……信じられないわ。それに、横に書いてあるのは――『悪役令嬢のくせに幸せになれると思わないで』か)
きっと、他の人たちにはこの魔法陣の隣に書かれた大きな文字の意味は、読み取れないだろう。だって、明らかに前世の国の言葉、日本語で書かれているんだもの。この世界で前世の記憶があるのは、多分私とキャンディ様のみ。……つまり、彼女が書いたのだろう。……真っ赤な、血のような色で。
「私に恨みがあるんだったら、正面から突っかかってきてくれたらいいのに……」
私は、その文字を見つめながらそうつぶやく。こうやって裏でこそこそとされるのは大嫌いだ。喧嘩をするのならば、正面からぶつかってこい! それが、私の考えだから。まぁ、人にそれを押し付けるのは少し違うか。それに、今はまずこの落書きを消さなくちゃ。
「ロイド、魔法でこれ消せる?」
「……多分、ですが。とりあえず、やってみましょうか」
ロイドが一礼をして、そう言う。……とりあえず、ここはロイドに任せておこう。そう判断して、シルフィアさんに視線を向けたとき、シルフィアさんは「……ちょっと、待ってください」といつもよりも数段低い声で言った。
「……悪いんですけれど、少しだけ時間をください。この魔法陣……何かが、ありますよ」
「どういう、こと?」
「これは多分禁忌の魔術の一つですよ。なので、普通の魔法で消えることはないと思います」
そう言ったシルフィアさんは、その魔法陣に触れる。その瞬間、バチン! と大きな音が鳴り、魔法陣がシルフィアさんの手をはねのけた。……私が触れたときは、こんな風にはならなかったのに。
「闇の魔力が関わっています。アナスタシア様が触れても何も起こらなかったのは、光の魔力が庇ってくれていたからでしょう。多分、これを消すには――膨大な光の魔力が必要です」
冷静に、何でもない風にそう言うシルフィアさんだったけれど、その瞳は何処か寂しそうで悲しそうだった。それを見てしまった私は……ぎゅっとこぶしを握り締めて、覚悟を決めた。




