悪役令嬢の寝起き
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「……んん」
「アナスタシア! 目が覚めたか?」
私がゆっくりと瞳を開けると、そこには綺麗なお顔を心配そうに歪めたお兄様がいらっしゃった。身体を起こし、辺りを見渡してみる。どうやら、ここはどこかの家の中らしい。見覚えのない家具が配置されていることもあり、ここがどこなのか今の私には見当もつかなかった。
「……ここ、は?」
「ここは王家が所有する別荘だ。王家が持つ領地の端にある、と言えばわかるだろうか」
お兄様は私にお水の入ったコップを手渡してくださる。そのコップを受け取り、お水でのどを潤す。ここが王家の領地の中ということは、無事領地に生きてたどり着いたということだろう。しかし、私はどうして意識を失っていたのだろうか? そう思ったものの、それについてはすぐに思い出せた。私は正気を失った敵兵に襲われ、ピンチに陥った。その際に聖女の力を使ったのだ。そして、体力が尽きてそのまま眠りに落ちてしまったということだろう。
「ったく、無茶をするな。いくら命が懸かっているからと言っても、慣れないことはするものじゃない。ましてや、習得中の力を土壇場で使うなど言語道断だ」
「……ごめんなさい」
それしか言えなかった。だって、お兄様のおっしゃっていることはごもっともだ。慣れない聖女の力を使って、力が暴走したらどうするのだとおっしゃりたいのだろう。でも、私は賭けたかった。足手まといにはなりたくなかったから。
「まぁ、助かったのならばいい。これ以上咎めはしないさ。ただ、ロイドやニーナが心配そうにしていたからな。アイツらにきちんと元気な顔だけは見せてやれ」
「……はい」
お兄様はそうおっしゃると、私の頭に優しく手を置いてくださった。その感覚が気持ちよくて、私は瞳を細めてしまう。だけど、そんなときにふと思い出してしまった。御者の裏切りについてお兄様に尋ねないといけないということを。
「お兄様。あの御者が裏切ったので、私たちは命の危機に晒されることになりました。あの御者は……」
「……悪いな。俺もあの男の裏切りには気が付けていなかった。つまり、油断をしていたということだな。この間は正気だったはずなのだが……」
そうおっしゃって、眉間にしわを寄せながら何かをぶつぶつと唱えられるお兄様。そんなお兄様のお言葉に、少しだけ引っかかってしまう。「この間は正気だった」とはどういうことなのだろうか。そう思いながら、私はお兄様にその疑問をぶつけた。
「あぁ、あの御者は元王太子殿下の専属だ。だから、身元も確かだった。裏切りの予兆もなかった。何か、とんでもない力が働いてとんでもないことが起きてしまいそうだ」
「…………」
「アナスタシアも、くれぐれも気を付けるように」
私が黙り込んでしまったのを、怖がっていると勘違いされたのかお兄様は表情を緩められて私の手を握ってくださった。その温もりに、少しだけ心が落ち着く。……確かに、怖い。でも、それよりも巨大な感情が私の心の中を支配していた。それは……不安だ。
(洗脳をしたということ? ヒロインは洗脳も出来ちゃうの? でも……幽閉されているはずなのに)
幽閉されているのに、洗脳なんて出来るわけがない。だけど、もしも「洗脳を出来る人がヒロイン側についている」としたらどうだろうか。それを想像すると、身体が震えてしまう。これは怖いからじゃない。不安が強いからだ。
「俺はいろいろな線を探ってみるが、アナスタシアも何か気が付いたことがあれば遠慮なく言ってくれ。勘違いでも勘でもいい。だから……黙り込むのだけは、やめてくれ」
「……あ」
私が視線を上げると、そこにはお兄様が悲しそうな表情で私のことを見つめていた。もしかしたらだけれど、お兄様は怖いのかもしれない。アナスタシアは確かに一度死にかけている。お兄様にとって、一番大切なのは間違いなくアナスタシアだ。一度失いかけたからこそ、過保護に拍車がかかったのかもしれない。
「俺はこの後魔術師と司書にも詳しい事情を訊いてくる。俺の代わりにロイドとニーナが入ってくるだろうが、その時は元気な顔を見せてやれ。あの二人は寝ていないからな」
「……ちょっと待ってください、お兄様。私は一体どれだけの間眠っていたのですか?」
「うん? 言っていなかったか? アナスタシアは二日と半日眠っていたぞ」
何でもない風にそうおっしゃるお兄様に……私は唖然とした表情を向けてしまった。二日半!? そんなに眠ってしまうなんて、間違いなく時間のロスじゃない!
「あと、一つだけ言っておくが時間のロスだなんて言って今すぐ行動しようとはするなよ。行動するのは明日からだ。わかったな」
慌てて立ち上がろうとした私の身体を抱き留め、お兄様が怖いほどの良い笑みでそうおっしゃる。だから、私は表情を強張らせて「……はい」ということしか出来なかった。お兄様は悪魔か鬼か。いいや、魔王様だ。そんなことを思いながら、私はお兄様の背中を恨みがましく見つめていた。




