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誰ガ為ノ世界  作者: 倉科涼
第三幕 新たなる旅路
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第44話 アスト王国での日々⑦


「今日はもうやめにしましょう」


 鍛練を始めて間も無く。3合ほど合わせた時だった。不意に木剣を下ろしたエルグが言った。


「え?」

「今日の鍛練はもうやめにすると言ったのです。今の貴方の状態では、やるだけ無駄です」


 昨日と同じ城の中庭、エルグの辛辣な言葉が響く。ミストがヒヤリとした感覚を覚えたのは、温まりきっていない早朝の空気のせいだけではないだろう。


「昨日の直向きなものとは違い、先程の貴方の剣には雑念が混じりすぎていました。心当たりは、ございますね?」

「……はい」


 エルグの言う通りだ。鍛練をするとは言ったものの、ミストの脳裏にはあの悪夢がこびりついていて、全く集中できていなかった。


「貴方が見たと言う悪夢がどのようなものかは存じませんが、集中を欠いた状態での鍛練に意味はありません」


 エルグの言葉は厳しい。ミストが望んだ鍛練だというのに、当の本人が集中していなければそれも当然だろう。


「取り敢えず、朝食の時間までは自室で心の整理をすることをお勧め致します。その後のことについてはまた朝食の時にお話ししましょう」

「……はい」


 今のミストには、そう答えることしか出来なかった。


 ◆


 エルグに頼んで風呂を貸してもらい、汗を流した後、ミストは自室に戻っていた。


 床に敷いた薄い布団に寝転がり、ぼんやりと頼りない天井を眺める。背中には薄っぺらい布越しに固い床の感触がある。


「…………」


 不揃いな天井の木目に幻視するのは、血塗れのエレナ。そして、その姿を思い出す度に首筋にヒヤリとした感触が甦る。


「……くそ」


 横向きに寝返りをうつことで中空のエレナから視線を切る。首筋の感触がいくらか薄れた。


 エルグには朝食の時間までに心の整理をするようにと言われたが、とても出来そうにない。


 今朝の悪夢は、守りたい人を守りきれなかった自らの後悔が見せた夢だったのだろうか。エレナの顔を思い出す度に、アルカナへの憎しみと、どうしようもないほどの無力感に苛まれる。


「やめてくれ……」


 胎児のように丸くなり、頭を抱える。


 精神の均衡を保つためには、エレナのことを頭から追い出さねばならない。しかしそれは、ミストの生きる意味─アルカナへの『憎しみ』、その源を失うことを意味する。


「どうすればいいんだよ……っ!」


 天秤の針はいつまで経っても振れることはない。


 終わりの見えない葛藤に、精神が磨り潰されていくのを感じる。




 徐々に熱を持ち始めた身体に、不気味に紅い紋様が浮き出し始めたときだった。




 コンコン。


 小屋の薄い戸が叩かれる音で我に返る。身体に出始めていた熱と紋様はスッと、その鳴りを潜めた。


「ミスト様、朝食の準備が整いましたので食堂までいらしてください」


 戸の隔てて聞こえてくるのは、ルノの声でもエルグの声でも、ましてネルの声でもない。聞き覚えのない声だった。

 エルグの『忠告』が脳裏を過り、少し強張った声で応答する。


「わかりました。すぐに行きます」

「お待ちしております」


 それだけ言うと、戸の向こうの気配は遠ざかっていく。


 昨日のネルに続き、またしても肩透かしを食らってしまった。


「…………はあ」


 安堵から、思わず膝から崩れ落ちてしまう。


 今朝の悪夢からつい今しがたまで、思っていた以上に精神的に張り詰めていたようだ。手先が震え、思ったように力が入らない。


 ミストは自分の震える指先を眺めながら考える。

 サイミアの一件で生まれてしまった自分に対する恐怖心や敵愾心、そして怒りを早々になんとかしなければ先程の緊張感がこの先ずっと続くことになる。ルノやネルは「時間をかけて」などと言っていたが、正直なところそれまで精神が持つ気がしない。

 何か、何かきっかけが欲しい。今の状況を少しでも良くするための、心の平穏を獲得するためのきっかけが。


 手足の震えが収まるまで、じっと考えていたミストだったが、ついぞ妙案は思い浮かばなかった。


 そして、失意のまま未だ力が入りづらい足を引きずって食堂へ向かうのだった。


 ◆


 食堂の扉を開けると、朝食の匂いとルノの悪態が出迎えた。


「遅い。呼んでからどんだけ経ったと思ってんだ」

「……わるい」


 尊大に腕を組むルノに、しかしミストは短く返すことしか出来なかった。ルノの不機嫌そうな顔に更に皺が深く刻まれる。


「チッ。思ったより重症だな」


 ルノが何事か呟くが、ミストの耳には届かない。思考に靄がかかっているかのように、どこかぼんやりとしている。


 何度かルノに呼びかけられてようやく我に返ったミストは、彼に指示されるまま対面に座す。

 それに合わせるようにして料理が運ばれてきた。昨日と同じメニューだ。甘い匂いがふわりと鼻腔を撫でるが、全くと言っていいほど食欲がわかない。


「無理矢理にでも食え。話はそれからだ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、ルノはさっさと食べ始めてしまった。


「ミスト様」


 主のあまりにも言葉足らずな様を見かねたのか、ルノの後ろに立っていたエルグが口を開く。


「心が弱っている時は何をするのも苦痛でしょう。ですが、食事を摂らねば身体が弱ります。身体が弱れば益々心も弱ります。今は、ほんの少しでもいいので召し上がってください」


 此方を見つめるエルグの瞳には真摯な色が宿っている。彼の言っていることはきっと正しく、自分のことを思ってのことだという確信が持てた。

 だからミストは、その親切に応えなければならない。


 静かに湯気を上げるスープを一口啜る。

 少し薄い塩気と、野菜の旨味が口腔にじわりと広がる。嚥下すると、温かな感触が喉を滑り落ち、乾いた胃の腑を潤すのを感じた。

 大ぶりに切られた野菜達は、シャキシャキと小気味良い食感を残している。歯や顎を通して脳に直接伝わるその音は、『生命を頂いている』という実感を与えてくれる。


 穏やかな乳白色をした麦粥を一掬い口に運ぶ。

 もちもちブニブニとした食感が、疲れている今は煩わしい。しかし口内に広がる優しい甘味は、ミストの心を癒してくれるかのようだ。


 結局昨日はネルに盗られて食べられなかった卵焼きを囓る。

 目に鮮やかな黄金色の塊は、口に入れた途端舌の上でほろりと(ほど)けた。卵の甘さと微かな塩味が眠っていた食欲を刺激する。




 スープを貪り、麦粥を呑み込み、卵焼きにかじりつく。いつの間にか、ミストは夢中で食べ進めていた。




 その様を見たルノとエルグは、安堵の息を漏らすのだった。




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