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誰ガ為ノ世界  作者: 倉科涼
第三幕 新たなる旅路
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第43話 アスト王国での日々⑥


 名前を呼ばれた気がした。


 遠く遠く、宵闇の向こうから。


 とてもつらそうな、ともすれば消えてしまいそうな声で名前を呼ばれた気がした。


「……フ」


 ─誰ですか?


 声の主に問おうとするが、声が出ない。まるで、喉に詰め物でもされているかのような息苦しさがあるだけだ。


「……ルフ」


 声は段々と近づいてくる。近づいてきてようやく、それが女性のものであるとわかった。


 ─誰ですか?


 声なき声で問いかける。

 いや、この声の主が誰かなど本当はわかっているのだ。知っているのだ。

 けれど、確かめずにはいられない。もしも想像通りの人物だったなら…………。


「アルフ」


 薄暗闇の向こうから姿を現したのは、背景とは対照的な真白な少女だった。

 白い衣服に包まれた肌は滑らかで、どこまでも白い。陽に当たっていないそれとは違う、健康的な発色の透明感のある白さだ。「動くのに邪魔だから」という理由で短く切り揃えられた、新雪を思わせる白銀の髪。そして、見る者の意識を惹き付けて離さない深い緋色の瞳。

 この世のものとは思えない幻想的な気配を纏った少女はしかし、ひどく悲しげな声色をしていた。


「……アルフ」


 ─エレ、ナ……。


 口の中で少女の名前を転がす。


 ─どうして?だって、エレナは……


「そ。あたしは死んじゃった。だって──」


 届くはずのない声にエレナが応える。

 その表情は不気味なほどに感情の色を湛えていない。


 感情の起伏を見せぬまま、口の端だけを吊り上げて言う。


「──だって、アルフが守ってくれなかったから」


 エレナの左胸、純白の衣服に赤黒い染みがじわりと広がり出す。

 それに合わせるように、不自然に吊り上げられた口の端から紅い液体が溢れる。白い肌に筋を描き、形の整った顎から滴り落ちた雫は、粘着質な音を立て地面で弾ける。


 ─エレナ……?


「ねぇ。どうして守ってくれなかったの?」


 ひたり、ひたりとエレナが近寄ってくる。上体が大きく揺れる危なげな足取りは死人(しびと)を思わせる不気味なものだ。


 ─違う。


「違わないよ。アルフが守ってくれなかったんだよ。だからあたしは死んだの」


 ひたり。


 ─やめてくれ。


「ね、約束したよね。アルフがあたしのこと守ってくれるって」


 ひたり。


 ─やめてくれ。


「どうして約束を破ったの? あたし、死んじゃったよ?」


 ひたり。


 ─いやだ。違う。


「なにも違わないよ。アルフが一緒にいてくれなかったから、守ってくれなかったから、駆けつけるのが遅かったから、こんなことになっちゃったんだよ」


 すっかり広がってしまった胸の赤い染みにベタリと手を置きながら言い募ってくる。


 ひたり。



 いよいよ彼我の距離がなくなる。



 白と紅に彩られた少女は手を伸ばしてくる。 その掌は毒々しい程の紅に染まっている。


 ─っ!


 思わずその手を払い除けようとするが、まるで身体が動かない。金縛りにでもあったかのようだ。


「悲しいな。どうしてあたしを拒絶するの? 悲しい。悲しいよ」


 そのようなことを言いながらも伸ばす手を止めない。

 やがてそれはアルフの頬へと辿り着く。優しく添えられた手のひらはゾッとするほど冷たく、とても生者のものとは思えない。


「冷たい? 冷たいよね。だって死んでいるんだもの。しょうがないよ」


 頬に添えられた手は、紅い跡を残しながら徐々に下がってゆく。


「寂しいの。ここは、とっても寒くて、凍えそうなの。誰かいてくれないと。誰か。だれか。ダレか。ダレカ。ダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカダレカ…………………………アルフ」


 生の温かみを失った手は喉元で止まる。


「一緒にいこう? それで、それでね。今度こそ守ってもらうの。ずぅっと一緒にいよ?」


 冷たく細い指が首の肉に食い込む。


 ─エレ……ナ…………っ!


 呼吸が出来ない苦しさと、喉を握り潰される痛みで頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。


「大丈夫だよ。苦しいのは今だけだから。ね、あたしに身を委ねて? すぐに楽になるから。そしてら許したげる」


 口調は優しく口元には微笑みさえ張り付けているが、その手に込められた力は苛烈だった。たとえ身体が動いたとしても振りほどけはしないだろう。


 徐々に視界にノイズが走りだす。意識が遠のく。首に食い込む指の感触も、どこか遠い世界のことのように感じる。


 ─あ…………あぁ………………。


「いらっしゃい」




 意識が途絶える刹那、エレナが笑みを浮かべたような気がした。




 ◆


「──っ!!!!」


 夢の世界から覚醒し、勢いよく上体を起こす。


「はあ、はあ…………。……クソっ」


 いくらなんでもエレナに殺されるなど、夢にしてもタチが悪すぎる。あれならアルカナに殺される夢の方が幾分マシだ。


 昨夜、寝る前にエレナのことを考えていたせいでこんな夢を見たのか?自責の念に押し潰されて?

 それにしたってもう少し趣味のいい悪夢があるだろうに。


 自分の首に手を添えてみる。先程見た悪夢の中のエレナの手の感触は、夢とは思えないほど生々しかった。しかし、首には血は付着しておらず、絞められていたという感覚も残っていなかった。ただ、尋常ではない量の汗をかいていることに気が付いた。


「…………エルグさんに頼んで風呂を貸してもらおう」


 首を絞められている感覚こそないものの、未だに息苦しさが残る。精神だけがあの悪夢に囚われたままであるかのようだ。


 今から寝直せるとは到底思えなかった。先程の夢の続きでも見ようものならたまったものではない。目を覚ます意味でも、汗を流しておきたい。


「あ、そうだ。今は……」


 おおよその時間を知ろうと窓の外をうかがう。

 曇ったガラス窓の向こうはまだ薄暗く、ようやく陽が昇り始めた頃だった。まだ皆が活動を始めるには早い時間帯だろう。


「参ったな」


 こんな時間に押し掛けては流石に迷惑だろう。かといって汗の始末をしなければ体温が奪われていってしまう。


「……仕方ないか」


 昨日に比べ、かなり早い時間だが鍛練を始めよう。皆が起き出す時間になったらお願いして風呂を借りればいい。


 かけてあった錠を外し、昨日の昼間よりも少し滑りの悪くなっている戸を耳障りな音と共に開ける。


「これは……」


 眼前に広がるのは昨日も見たはずの風景。しかし、その全てが薄白(うすじろ)霞んでおり、まったく違った場所のように思える。

 悪夢で見た薄暗闇とは正反対の白んだ世界は、ミストの胸中に不可思議な感慨を生んだ。


「…………すごい」


 朝に弱いミストが15年間見てこられなかった景色。

 立ち込める朝靄に、地平を掠めるような低い陽が差し込む光景は、未だ夢の中にいるのではないかと思ってしまうほどに幻想的だ。朝露を乗せて重たそうに頭を垂れる草花も、遠方から聞こえてくる鳥の鳴き声も、湿った空気に漂う土の匂いも、全てが鮮烈な『生』を伝えてくる。

 ミストの脳裏に焼き付いた2つの光景とは正反対に、その光景は『生』で溢れていた。


 大きく息を吸い込む。


 水分を多く含んだ大気は鼻孔を濡らし、肺を潤す。涼やかな空気が先程見た澱んだ悪夢を体内から浄めてくれるかのようだ。


 しかし、早朝の上がりきっていない気温は今のミストには堪えた。


「─っ。寒いな」


 澄んだ空気は徐々に濡れた身体から体温を奪っていく。


 ほんの少しでも暖を取ろうとしたミストは、自らの腕を摩ろうとする。


 しかし──


「──っ」


──自らの掌のヒヤリと冷たい感触で思い出してしまった。


 あの悪夢を。自らの首に回されたエレナの手の冷たさを。


「クソッ!」


 清々しい気分から一転して最悪の気分へと突き落とされ、思わず悪態をつく。


 少しでも体温を上げるために、気を紛らわすために、早く鍛練を始めよう。


 そう思ってミストが振り向いたときだった。




「ミスト様、このような早朝から一体如何なされたのですかな?」




「うわあぁっ!!!」


 いつの間にか、背後にはエルグが立っていた。

 朝も早いというのに、その表情や雰囲気は平素と全く変わらない。穏やかに垂れたその眼の奥に宿る、真剣のような鋭さもいつも通りだ。


「え、エルグさんこそ、どうしたんですか……?」

「私は朝の日課の散歩でございます。この時間帯の景色は非常に美しい。そう思われませんか?」

「えぇ。とてもきれいだと思います」

「それは結構。……質問を繰り返しますが、ミスト様はいったいどうされたのですか?」


 エルグの視線が先程よりも鋭くなっている気がするのは気のせいではないだろう。

 エルグの視線の意味を考えること数瞬、ミストは思い至る。もしかすると、自分が何か良からぬことを企てていたと思われているのか?


 エルグの視線の意味をそう理解したミストは慌てて答える。


「俺は、その、悪夢にうなされて目が覚めちゃいまして……。どうせもう寝付けないなら早めに鍛練を始めようかなと……」

「…………ふむ」


 真意を探るような、値踏みするような視線がミストに突き刺さる。

 目を逸らすわけにもいかず、怪物に睨まれているような居心地の悪さを覚えるミストだったが、それも数秒のことだった。


「……そういう理由でしたら仕方ありませんね。お付き合い致しましょう」


 ミストの言っていることを信じたのか、エルグの方から稽古をつけてくれることを提案してくれる。


「いいんですか?」

「構いませんよ。丁度私も時間を持て余していたところです。それに──」


 一旦言葉を区切ったエルグは口の端をニッと上げた。それは、ミストが初めて見るエルグの笑みだった。


「──向上心のある若者は嫌いではありません」

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