第36話 ミスト
誰かに名前を呼ばれた気がした。
とても、とても遠くから。
その声はとても懐かしい気がして。
その声音はとても悲しそうで。
けれど嬉しそうでもあって。
それは黄泉の国から──を迎えに来た使者の甘言のようで。
けれど、死んでいった者達が「生きろ」と激励してくれているような。
不思議な声を聞いた。
◆
血の匂いが満ちる処刑場に沈黙の帳が降りる。
誰も、何も喋ることはない。
目の前で一人の人間が死ぬ瞬間に立ち会えば、それも無理からぬことだろうか。
永遠にも思える短い時間を経て、ようやく口を開く者が現れた。
「死んだね」
アルストロメリアだ。
彼の口調はこの場にあっても軽く、故人に対する哀悼の意のようなものは一切感じられない。
平素と変わらない調子のまま、続ける。
「有史以来『最悪』と呼べるほどの惨事を引き起こした大罪人、アルフ・ジン・クラインは死んだ。皆、確認したね?」
「あぁ。アルフは死んだ」
アルストロメリアの問いかけに最も早く答えたのはルノだった。その声音には感情の色が乗っていない。ただ一点、断頭台を注視している。
「………………あぁ」
仏頂面で不機嫌そうに短く言うのはダルジだ。今は両の目を閉じており、見方によっては黙祷しているようにも見える。
「あ、あの、はい! かくっ、確認しましたっ!」
最後に吃りながら早口に言ったのは、議場ではついに一言も発することがなかった獣人だ。この場でもそれ以上発言するつもりはないようで、それだけ言うと気配を消すように縮こまっていった。
「元老院のお歴々もよろしいですね?」
アルストロメリアの問い掛けに答える者はいない。
ヴェールに顔を覆われた3人はただ静かにその場に佇んでいる。アルストロメリアの言葉を肯定する者もいなければ否定する者もいない。
「だそうだ。降りておいで、リン。そして、『名も無き者』よ」
その言葉で、断頭台に首を据えた者─アルフ・ジン・クラインだった者─は我に返った。
眼前に見えるのは自分の首を斬るはずだった美しい片刃の長剣だ。
鼻先を掠めるようにして振り抜かれたそれは、今は処刑台の床に突き立っている。床の切り口は非常に滑らかで、長剣の切れ味の鋭さを物語っている。
「行きましょう。陛下がお呼びです」
長剣を鞘に仕舞いながらリンが声を掛けてくる。その顔には微笑みが浮かんでいた。
何が起こっているのか理解が追い付かない。
自分はつい先程死刑を宣告され、断頭台に首を据え、リンの持つ「断風」によってその命を終えたはずだった。
なのになぜ、自分は未だ生きているのだろうか。
「今、貴方の中では様々な疑問が渦を巻いているでしょう」
そう言いながらゆっくりと手を差し伸べてくる。
「下に行けば、陛下が答えをくださるはずです。さあ、お手を」
断頭台に首を据えていた男は、おずおずとその手を取り、片腕がないことでバランスを崩しながらヨロヨロ立ち上がった。
先程までは感じなかったが、膝が笑ってしまっている。腰も抜けてしまっているのか、全身に力が入らない。
思わず自嘲気味な笑みが溢れてしまうほどに、自分の体はたった1つの感情を表していた。
ここに至ってようやく男は理解した。
ああ、自分は、死ぬのが恐かったのだ。
「俺は、生きられるん、ですか……?」
思わず口を突いて出た言葉は、自分のものとは思えないほどに掠れていた。
「それも、下に行けばわかります」
返ってきた返事は素っ気ないものだったが、確かな温かみが感じられる声だった。
覚束ない足取りで階段を降りる。
一段。
─頭の中が真っ白だ。
一段。
─自分の中の全てが欠け落ちてしまったような感覚。
一段。
─ひょっとすると、『自分』をあの断頭台に置き忘れてきたのかもしれない。
一段。
─『自分』とは、なんだっただろう。
一段。
─今は何も考えられない。
やがて、段の全てを降りきった。
2度と踏むことはないと思っていた、固い地面の感触が足の裏から伝わってくる。
相変わらず処刑場には血の臭いが満ちているが、その臭いを感じることで生を実感できる。
「やあ、初めましてだね、『名も無き者』よ」
芝居がかった口調でアルストロメリアが話しかけてくる。
『名も無き者』を強調して言っているのが少し引っ掛かる。
「色々と聞きたいことがあるだろうけど、少し我慢してくれ。ここは話をするには少々空気が悪い。まずは場所を変えようじゃないか。ついて来たまえ」
それだけ言って、背中を向けてさっさと歩いて行ってしまう。
彼は言われるがままにフラフラとその後に続く。隣には支えるようにリンが、後方にはルノとキュノスが続いている。他の王や元老院の者達はついてこないらしい。
処刑場を出る。
処刑場内は薄暗く、床も天井も硬質な黒だったが、一歩外へ出ると思わず目を細めてしまうほどに眩しい白で満ちていた。
知らぬうちに自分が大きく息を吸い込むのを感じた。短い時間であったがドロドロとした血の臭いの満ちた部屋にいたせいだろう、廊下の空気がひどく新鮮に感じられて、肺腑が清められるようだ。
乳白色をした滑らかな廊下を歩く。窓はないものの、照明器具が等間隔に設置されており光が満ちている。床も天井も白いためか、不思議と閉塞感はない。
未だに自分が生きているという現実感が湧かない。足元が浮いているような錯覚さえ覚え、とうしてもヨロヨロと危なげな足取りになってしまう。バランスを崩しそうになる度に支えに入ってくれるリンには、回らない頭でも感謝の念を覚える。
しばらく歩くと、窓のある階層に出た。
陽光が窓から差し込む。つい数時間前にも見ていたはずなのに、ひどく久し振りに見たような気がして胸の奥の方が熱くなるのを感じた。
隣を歩くリンは今の自分に対してどのような印象を抱いているのだろうか。後ろのルノや、牢で何やら意味深なことをいっていたキュノス、そして眼前のアルストロメリアは何を考えているのだろう。
考えねばならないことはあるはずなのに、頭が思うように回ってくれない。まるで、脳だけが死んでしまっているかのように。
回らない頭を必死に回転させようとしていると、不意に前方を歩くアルストロメリアが足を止めた。
「ここでいいだろう。入りたまえ」
そう言って示された部屋は、この国に来て初めて通された部屋─議場に召喚されるまでいた控え室─だった。
知らず、鼓動が早くなるのを感じた。
足がすくむ。
また死を宣告されるまでの控え室と化すのではないか。その恐怖が、歩みを止めてしまっている。
その様子を知ってか知らずか、アルストロメリアは早く入るように促してくる。
「さあ、進みたまえ。自分の足で。前へ」
リンが背中を支えてくれる。その掌から伝わってくる温もりが、今はただありがたかった。
牛歩の如き足取りだが、確実に前に進んでいく。
己の中にある恐怖と葛藤しながら、一歩一歩を噛み締めるように歩く。
扉までのたったの数歩がひどく長く感じられた。が、ついに辿り着いた。
「よく来られたね。さあ、中へ。君に話すべきことが沢山あるんだ」
微笑みを浮かべたアルストロメリアが言ってくる。
彼の足取りにもう迷いはない。絨毯の敷き詰められた部屋をしっかりとした歩調で進む。
アルストロメリアに勧められるがままに、部屋の中央に設えてある重厚感のある石製の白いテーブルに着く。
テーブルを挟んで正面にアルストロメリア、その右隣にルノ、左隣にはキュノスが座し、そして自分の左斜め後ろにリンが立っている。
「さて、話を始める前にまずは君の緊張を解かないとね。リン、お茶を淹れてくれ」
「畏まりました」
リンは短く返事をすると部屋の片隅に置いてあるティーセットへ向かう。
ややあって、ふわりと良い香りが漂ってくる。議場へ向かう前にも嗅いだ茶の香りだ。
トレイに人数分のカップを並べたリンが戻ってくる。
給仕をする姿も洗練されている。秘書としての日常業務のひとつなのだろう。
「さて、一息ついたところで話を始めようか」
出された茶に二口ほど口を付けてからアルストロメリアが切り出した。
「いろいろと聞きたいことはあるだろうけど、まずはこちらの話を黙って聞いていて欲しい。いいかな?」
アルストロメリアの問いに、黙って頷く以外の選択肢はなかった。
アルストロメリアは満足げに微笑むと、続けた。
「いいかい? まず大前提として、世紀の大罪人アルフ・ジン・クラインは死んだ。今、私の目の前にいる君は、誰でもない。強いて言えば亡霊のような存在だ」
「……」
「サイミアを滅ぼし、民を焼いた罪はアルフくんがその命でもって償った。もちろん、死罪だけで許されるほど軽い罪ではないけれどね」
「…………はい」
「さて、ここからが本題だ。これからする話の中で、恐らく君が今最も知りたがっているだろう『なぜ自分が生きているのか』についての答えも見えてくるだろう」
そこでアルストロメリアは立ち上がり、部屋の中を歩き出す。
「まず、今は『何者でもない』君に3つのものを与えよう」
長い指を1本立てる。
「一つ、『第二の命』。これはもう与えてしまっているものだけどね。本来消えるはずだった君に─途絶えてしまうはずだった道に─続きを与えた」
2本目の指を立てる。
テーブルを回り込み、こちらに近づいてくる。
「二つ、『名前』。君がこれから活動していくにあたって名前がないと不便だろう。かといって、『アルフ・ジン・クライン』を名乗ることは許されない。彼は死ぬことによってその身に余る大罪を、ただの一部だけでも背負うことが出来たんだ。君はもう、『アルフ・ジン・クライン』に戻ることは出来ない」
ようやく話が見えてきた気がする。
連合は、形式的に『アルフ・ジン・クライン』を処刑することで、一連の騒動に取り敢えずの終止符を打ちたいのだ。
しかし、まだ肝心の生かされた理由がわからない。いったい連合は何を求めているのだろうか。
「そこで、君に名前を与えよう。君の名は、今日この時から『ミスト』だ。国籍を持たない君は霧のように掴み所のない存在だからね」
アルストロメリアが背後に立つ。
「そして三つ目、『生きる目的』だ。故郷を失い、守るものも失った今の君には生きる理由がない。違うかい?」
違わない。
燃えカスと化したサイミアでルノから話を聞いたときから迷っていたことだ。今の自分に、立ち上がるための動機が欠けているのは感じていた。
「だから私は君に『生きる目的』を与えよう」
そこでアルストロメリアは意味ありげな間を置いて続けた。
「復讐だよ」
「ふく、しゅう…………?」
「そう、復讐。聞いた話ではサイミアで君達を襲ったのは3人組だったそうだね。だけどルノの報告では、現場にそれらしい人影は1つしかなかった。更にその人物を殺した後、君は『誰かを探すような仕草』をしていたそうだ。このことから、襲撃者3人のうち、2人はどこかへ逃げた可能性が非常に高い」
アルストロメリアが隣の席に腰かける。
「憎くはないかい? 目の前で大切な幼馴染みを殺されたんだろう? だから君はサイミアを火の海にしたんだろう?」
「それ……は……」
「私はね、復讐が悪だとは思わない。人にはそれぞれ正義がある。もしも君の中の正義が復讐を望まないのなら、生きる理由は自分で考えるといい」
彼─ミストは迷う。
憎くないわけがない。確かにサイミアを火の海に変えたときの記憶はないが、なにかドス黒い感情に支配されていたことだけは覚えている。
だからといって復讐に身をやつすことが正しいことなのだろうか。そうやってやつらの命を奪っては、やつらと同じところまで堕ちることになる気がする。
しかし、その一方で「復讐」と聞いて、真黒な感情の残り火が再び燻り出すの感じていた。
「我々はその襲撃者について心当たりがある」
だからこそ、迷っていたからこそ、このタイミングで発せられたアルストロメリアの言葉には破壊力があった。
「本当ですか?」
「ふふ。さすがに食い付きがいいね。もちろん本当だとも」
アルストロメリアは再び席を立ち、歩き始める。
「君を襲ったのは十中八九『アルカナ』という組織の者だろう。彼らは王具と、とある魔道具の蒐集を目的としているようだ。今回君たちが狙われたのは、恐らく君が所持していた緋の王具が理由だろう」
「アルカナ………」
「彼らは犯罪組織だ。どこにでも現れて大陸の情勢を引っ掻き回す。連合としても目の上のたんこぶなんだよ」
最初に座っていた席に到着したアルストロメリアが真摯な眼差しでこちらを見つめる。
「早い話が、これは取引だ。ミスト、君の命を助ける代わりに大陸各地を回り『アルカナ』についての情報と未確認の王具を収集して欲しい。大陸の国々を渡り歩くのには国籍のない君が都合がいいんだよ。上手くいけば君は幼馴染みの仇を討てるし、我々としては危険因子が消えることで大陸に平和をもたらすことができる」
正直に言って、断る理由がない。
打算に塗れた提案だったが、そちらの方が寧ろ信頼できる。つまり、あの裁判は最初から出来レースだったのだ。連合は最初から『アルフ・ジン・クライン』を処刑することでサイミアの一件に強引に幕を下ろし、ミスト(緋の王具の保有者)という駒を得る算段だったのだ。
あいつらに、あの黒い男達に辿り着けるのなら、その悪魔の取引にでも応じてやろうではないか。
ミストは胸のうちに黒い炎が灯るのを確かに感じた。
「わかりました。引き受けます」
「ありがとう。そう言うと思っていたよ。では、君に返すものがある」
「え?」
「あれ? いらないのかい? 君の右腕と王具」
「あ」
光国に着いてからというもの、衝撃的な出来事が多すぎてすっかり忘れてしまっていた。
ミストは自分の今はない右腕に視線を落とす。
「光国には腕のいい聖属性の魔法を使う者がいると聞きました。もしかして治して貰えるのでしょうか?」
「ルノ、そんな風に紹介してたのかい? 照れるじゃないか」
「別にあんたのことだなんて言ってねぇだろうが」
「はは、まあそれもそうか。まあいいや。そうだね、ミスト。君の腕を治すのはこの私だ。リン、王具を」
「はっ」
ミストの後ろに控えていたリンが、いつの間にかアルストロメリアの下にいる。手には例の入れ物を持っている。
「私の──光国の『黄金の王具』は聖属性の魔道具でね、能力の一つに治癒があるんだ。大抵の傷なら治してあげられるよ」
リンの持つ入れ物から取り出されたのは、ちょうど人の頭ほどの大きさの水晶球だった。向こう側が透けて見える透明な球体だが、中心には黄金色に輝く結晶─魔石─が浮いている。
「ルノ、彼の腕を」
ルノは懐から布にくるまれた塊を取り出す。
開封すると、そこには中指に指輪を嵌めたミストの右腕があった。切り離されてからそれなりに時間が経っているにも関わらず、腐敗している気配はない。なんらかの魔法がかけられているのだろうか。
「本来なら何か対価を払ってもらうところだけど、今回は契約料ということでサービスしておいてあげるよ。ほら、傷口が合わさるように腕を支えてて」
アルストロメリアの指示に従い、腕を支える。
傷口を改めて見ると、鋭利な刃物で切断されたような美しい断面だった。
「『祝福あれ』」
アルストロメリアが短く呪文のようなものを唱えるのとほぼ同時に、部屋の中が一瞬眩い光で満たされた。
思わず目を瞑ってしまったミストだったが、恐る恐る目を開けて、右腕を確認してみる。
「…………治ってる」
切断された右腕の肘から先に感覚が戻っている。
何度か拳を握っては開き握っては開きを繰り返してみる。力はしっかりと入るし、動きにズレもない。完璧だ。
「注意しとくがこんな奇跡に近い芸当が出来るのは、使っている魔道具が王具で使用者がアルストロメリアだからだ。そこら辺の術者じゃこうはいかん。今後はあまりあてにするなよ」
「あぁ……」
「あと、いくら私でも死んだ者を生き返らせることはできないから変な期待はしないでくれ。そんなことが出来るのは、化物だけだからね」
アルストロメリアが冗談めかしてそんなことを言ってくるが、ミストは聞こえていないかのような素振りだ。未だに腕が戻ってきたのが信じられないといった様子で、しきりに右腕を動かしている。
「さて、話もまとまったことだしそろそろお開きにしたいんだけど、キュノス老は何かございますか?」
「…………」
キュノスは黙って首を横に振る。その表情はやはり窺い知ることはできない。
代わりに声をあげたのはミストだった。
「あ、あの」
「うん? 何かあるのかい?」
「飛行船で言ってたじゃないですか。エメラダ王国が消えたことについて少しでも情報が欲しいって」
「……あぁ、そういえばそんなことも言ってたね」
発言していたはずの当のアルストロメリアはすっかり忘れてしまっていた風だ。
「うん、そうだね。折角だから聞こうかな。キュノス老は聞いていかれますか?」
「いや、儂はそろそろ失礼しよう。案内を頼む」
「左様で。リン、お連れして差し上げなさい」
「畏まりました。キュノス老、どうぞこちらへ」
リンの案内でキュノスが退出していく。
その後ろ姿を見送り、アルストロメリアが口を開いた。
「さて、それじゃあ聞かせてもらおうかな。辛いことかもしれないけれど、出来る限り詳細に話してくれ」
「……はい。まず──」




