第29話 業火④
交易都市サイミアの都市長、ドリン・ナグアムは走る。
日頃運動をしない彼にとって、終わりの見えない逃走は苦行でしかなかった。
「はあ……はぁ……くそ。クソ! どうしてこうなった!!」
息も絶え絶えに、しかしそれでも悪態をつくのはやめない。
「い……いったい、ゼェ……なんなんだ! あの、黒い炎は!!」
全てはたった数分前、闇商人達の区画に突如として現れた黒い炎の柱のせいだ。
一番最初の報告を受けたとき、ドリンは大陸連合の要人の歓待の準備に精を出しているところだった。
だからこそ、闇商人の区画で火が上がったという報告を聞いたとき、どうせ闇商人同士の小競り合いだと思い、こう言ってしまったのだ。既に火の手は中央区画にまで迫っており都市は狂乱の渦中にあったというのに……。
「放っておけ! それより貴様もこっちを手伝え。アスト王国に、ひいては連合に好印象を与えるいい機会だ。この機を逃すわけにはいかん!」
──ドリンには夢があった。
いや、夢というより野望と言った方が正しいかもしれない。
彼は生まれも育ちもサイミアで、幼い頃から商いの世界に身を投じてきた生粋の商人だ。
故に憧れていたのだ。貴族の生活というものに。
潤沢な金、華やかな住居、豪奢な食事……。商品を売ることが出来なければ生活がままならない商人とは、比べ物にならないほどの輝きが約束された者達。
ドリンは努力した。売れるだけの媚を売り、商売敵を蹴落とし、時には親や仲間さえ利用して、考えうる限りの凡そ全ての手段を講じて、昨年ようやく『都市長』という地位を得たのだ。
しかし彼は満足しない。
やはり欲しいのは『貴族位』以上なのだ。こんな小さな都市の長に収まっていていい器ではない。都市長になったことでいっそう増長した彼は、この一年ずっとそのようなことを考えていた。
連合国の上層部とのコネが欲しい。自分を売り込める、そんな機会が欲しい。
ドリンがそう思っていた矢先だった。なんと連合加盟国のアスト王国の要人がサイミアを訪問してきたという報告が舞い込んだのだ。
これは天啓だ!天がお与えくださったチャンスなのだ!!
ドリンはすぐさま出来うる限りのもてなしの準備を始めた。
全ては己が野心のために──
1人目の報告を受けて少し経った頃、ドリンはようやく異変に気づいた。
暑い。
室内の温度が急激に上昇している気がしたのだ。このような部屋に彼の者を招くことが出来ようはずもない。ドリンは換気をするために窓に近づき、そして──
「なっ、なんだアレは!!!」
──全てを焼き尽くす黒炎の柱を見た。眼下ではパニックに陥った民衆が逃げ惑っている。
ドリンの生存本能は一目見ただけで直感した。あの炎は消せない。逃げるのが正解だ、と。
だから走った。戸惑う部下を見捨てて、逃げ惑う民衆を足蹴にして、ただただ走った。
しかし、黒炎はドリンを追っているかのように背後に迫る。
「クソ! クソ!! わしはこんなところで死んでいい人間ではないのだ!!!」
悲鳴を上げる体に鞭を打ってひたすら走る。
目指すは都市の外周─都市をぐるりと囲んで流れる河だ。あそこまで逃げ切ればこの炎も追っては来れまい。
細い路地を幾本も抜け、やがて都市の端見えてきた。
「ゼェ……やっ、た! はは! ザマアミロ!! はははははは───」
しかしドリンの高笑いは、彼が通ってきたのとは別の路地を迸ってきた黒炎によって掻き消されてしまった。
「ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!」
哄笑が悲鳴に変わる。
しかし、全身を黒炎に包まれた彼の1番の不幸は、ここで炎に追い付かれてしまったことではない。
彼の1番の不幸、それは追い付いた炎の勢いが弱く、即死できなかったことだ。
「あぁ……ゼェゼェ……アヅイあづアヅアアアアアア!!!」
熱さに悶え苦しみ、地面をのたうち回る。
気道が灼かれたせいで呼吸をすることすら激痛を伴う。
それでもドリンは諦めない。
胸に秘めた野心のために必死に生にしがみつこうとする。
「ヒュー……ヒュー……………ミ、ミズ………」
あと数歩の距離が遠い。あの河にさえ飛び込めば体を包む炎は消え失せ、もうこれ以上焼かれることもないだろう。
地面を虫のように這いずって進む。
焼き切れてしまったのか、神経が焼かれただけなのか、もう既に足の感覚がない。腕の力だけで重たい体を引きずって進む。
そして、ようやく辿り着いた。
「──────ッッッ!!!」
もう潰れてしまった喉で歓声を上げる。ざまあみろ、俺は生き残ってやったぞ、と。
そして最後の力を振り絞って河に飛び込んだ。
飛び込んでしまった。
「──────ッッッッッッッ!!!」
全身が焼けるように痛い。熱い熱い痛い熱い熱い熱い熱い熱い熱い痛い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い痛い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い痛いん熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。
ドリンが飛び込んだとき、既に河の水は黒い炎に焼かれ、彼のように一縷の望みをかけて飛び込んだ者を殺す罠と化していた。
「──っ! ──ッッ!!」
なんとか熱湯からあがろうとするが、堀は深く、とても手の届く高さではない。それ以前にドリンの足は動かず、立ち泳ぎすらままならない。溺れないよう手で水を掻き分けるのが精一杯だ。
「─────」
ここに至って、ドリンは生きることを諦めた。この苦痛の中に縛られるのなら、もう意識を手放してしまおうと。
しかし、それは許されなかった。
「─っ!」
全身を襲う激痛が─ドリンの意思とは関係のない生存本能が─意識を失うことを許さない。
ドリンは、命が尽きるまで灼熱の水中でその身を焼かれ続けた。
◆
「ひ、ひいぃぃぃぃい」
無様に腰を抜かして半狂乱になるのはナブという名の男だ。
彼はサイミアで闇商人をしている一味の下っ端だ。
10分ほど前、闇商人の区画に突如として黒い炎柱が現れたのだが、場所が悪かった。その場所はちょうど、ナブの所属する一味の持つ倉庫の横手だったのだ。
もちろん倉庫の商品─違法魔道具や薬物─は全て焼け、被害額はかなりの規模になった。
これに激怒した一味のボスはナブ達を連れて、騒動の元凶にケジメをつけさせるべく火の源へと向かったのだが──
「うそ……だろ……」
黒炎柱の中心にいた炎の怪物には、彼らの持ついかな違法魔道具も意味をなさなかった。
ナブの放った水属性の渦流弾も、着弾する前に怪物の纏う黒い炎に灼かれて消えてしまった。
怪物がこちらを振り返る。
「ひっ……」
その目に見られた瞬間、ナブは戦意と生きる希望を失った。股間を生暖かい感触が伝う。
炎の怪物の昏い眼窩には、ドス黒い殺意のみが煌々と揺らめいていた。
あれはきっと全てを殺すまで止まらない。
絶対に逃げられない。
確実に殺される。
ナブの本能は、瞬時にその結論に達した。
そして、実際それは正しかった。
怪物が無造作に手を振り抜く。
たったそれだけ。たったそれだけの動作でナブの前に立っていたボスや、兄貴分達は焼き刻まれてバラバラと地面に落ちた。
血の匂いはしない。刻まれるのと同時に傷口が焼かれて塞がったからだ。その代わりに、肉の焦げる強烈な臭いがナブを襲う。
バラバラになった、ボスや兄貴だったものは既に灰になろうとしていた。
幸運にも──不運かもしれない──怪物の初撃が外れたナブだったが、腰が抜けて立つことが出来ない。
そして、少し遅れてようやく現実を認識し始めたことで、ついに彼は狂ってしまった。
度を越した恐怖で、最早正常な思考が出来なくなってしまったのだ。
虚ろな目で怪物と見知らぬ少年の戦闘を眺める。
驚くべきことに少年は無手で怪物と渡り合っているのだが、ナブは最早何も感じない。ただひたすらに怖い。あの炎の怪物が恐い。今、この場で自分が生きていることがコワイ。
心は恐怖に侵され、脳はパニックを起こし、身体はわけもわからずガタガタと震えている。
だというのに、自分の死にだけはひどく冷静だった。
だからこそ、少年が怪物の顔を殴り、赤黒く耀く口腔がこちらを向いたときにこう呟けた。
「あっ、死ん──」
彼にとっては幸福だったかもしれない。
怪物の攻撃の巻き添えになって頭部が消し飛ばされ、それ以上の恐怖を感じることはなくなったのだから。
◆
ヨービはこれまで、何かに心を奪われるということを経験したことがなかった。
仲のいい友人からは「そろそろ嫁入り先を決めないと生き遅れるよ」などとありがたい忠告をもらったりするほど、他に対する興味が薄い人間だった。
「キレイ…………」
しかし今、晴天を焦がさんとする勢いで立ち上る黒炎の柱に、彼女は見惚れていた。
ヨービも頭ではわかっている。アレは災いだと。この都市にきっと破滅をもたらすものだろうと。本来「キレイ」などとは言ってはならないものだと、理性では理解している。
それでもなぜか、あの炎から眼が離せない。見れば見るほど、あの炎に魅せられてしまう。
もしこの場に彼女の友人がいたならば、きっとすぐにでも友の縁を切られていただろう。
それはなぜか──
「うわぁ……」
──黒炎を見上げるヨービの顔に狂った笑みが咲いているからだ。
彼女自信気付いてはいないが、口の端は吊り上がり、目はうっとりと細められ、しかし瞳には破滅(黒炎)しか映っていない
今の彼女の姿を見て正気だと思う方が難しいだろう。
視界の端を忙しく走って行く人々。
あんなにも美しいものに背を向けて逃げるだなんて、なんと勿体ないことをしているのだろう。アレ(破滅)は目に、脳に、魂に焼き付けておくべき芸術だ。
黒炎柱の余波たる炎が目の前に迫り来る。
逃げ遅れたものがこの世のものとは思えないような断末魔を上げながら灰と化してゆく様も、ヨービには神聖なものに見えた。
視界一面を黒炎に支配されても尚、彼女は動かない。
「うん。やっぱりキレイ」
彼女は狂喜の笑みを浮かべて、黒炎の中へと姿を消した。
◆
四方を黒炎に囲まれて立ち尽くす女がいる。
「ど、どうしよう……ねぇ、どうしよう!?」
女は独りだというのに、まるで誰かに話しかけているかのような叫び声を上げている。
女の顔や身体には痛々しい火傷の痕が散見される。
しかし、これらは彼女を囲む黒炎によって負ったものではない。
彼女─横縞模様の長い尾と鋭い犬歯、そして頭頂部辺りに特徴的な耳を持つ虎の獣人は、つい先程まで奴隷だった。身体のいたるところにある傷跡は、奴隷として扱われるなかでつけられたものだ。
奴隷商の幌馬車で運ばれている最中に黒炎が上がったのだ。馬車を操っていた奴隷商は、商品─奴隷─を置いてさっさと逃げてしまった。
少し呆けてからようやく自由になったことを認識した彼女は、逃げ出したはいいもののサイミアの地理に疎く、迷っているうちに炎に囲まれてしまったのだった。
「うぅ……どうしよう……ピーちゃん…………」
途方に暮れる彼女だったが、次の瞬間、突如として眼前の黒炎が消え失せた。
「え……?」
唖然とする彼女の前に姿を現したのは、全身を黒いローブですっぽりと覆った2人組だった。よく見ると、黒い2人の後ろには十数人ほどの連れ立ちがいた。黒い2人の表情は窺えないが、連れ立ちの者達は皆一様に怯えと安堵をない交ぜにしたような表情を浮かべていた。
「……貴女は、助かりたいですか?」
黒い2人のうちの1人─片手に開いた状態の分厚い本を持っている─が不意に話しかけてくる。優しげな男の声だった。
「え……えと……」
虎の獣人が答えに窮していると、男は質問を変えた。
「貴女を奴隷にした者達に復讐する力が欲しくはないですか?」
その問いを発された瞬間、彼女の中で何かが切り替わった。
先程までの怯えた様子は鳴りを潜め、急に傲然とした態度に変化した。
「お前、何者だ?」
突如雰囲気の変わった彼女の問いに、しかし全く動揺した様子など見せずに男が答える。
「聞いているのはこちらです。力が欲しいか欲しくないか、早くお答えなさい」
「ちっ」
彼女の舌打ちをどう解釈したのか、男が手を差し伸べてくる。
「たとえあんたが悪魔だろうと、助けてくれた恩には報いてやる」
彼女─虎の獣人は男の手を取った。




