第23話 黒
宿に戻ったアルフを待っていたのは、痛いほどの静謐と吐き気を催すほどの血臭だった。
数瞬、思考が空白になる。
つい最近、王国で何度も得た感覚だなと他人事のように分析する自分がいる。
そんなことを無意識でとはいえ考えられたのは、少なからず異常事態に対する耐性がついてきた証だろうか。
正気に戻ったアルフは一番強い血臭の元─受付カウンターへと駆け寄る。
カウンターから身を乗り出し、中を除き込んだアルフの喉元を熱いものが駆け上る。
「ヴッ…………!!」
それほどまでの惨状がカウンター内に広がっていた。
アルフ達に親切に接してくれたあの受付嬢が全身をズタズタに切り刻まれ、真っ赤な血溜まりの中に沈んでいた。こちらを見上げる瞳に生の色は存在せず、その顔は苦痛と恐怖に歪んでいた。
切り刻まれた死体は1つだけではない。涙目のアルフが周りを見てみれば、他のスタッフ達や受付待ちだったらしい宿泊客も全身をバラバラに切り刻まれて血の海に浮かんでいた。
再び白く染まりそうになる思考を強引に引き戻す。
その原動力は、やはりエレナだった。
エレナの安否が気になる。
アルフは自室へと駆ける。
途中、階段や扉が開きっぱなしになっている他の部屋にも死体が転がっていた。
焦燥感が募る。
血の海に沈むエレナの姿が脳裏をよぎる。
足の回転数を上げる。
悪い考えを置き去りにするように。
しかし、いやなイメージはどこまでもへばりついてくる。
アルフは足をもつれさせながら、ただただ必死に部屋を目指す。
そんなに離れていないはずの距離なのにひどく長く感じた。
そして、辿り着いた。
開け放たれたままの扉から恐る恐る室内を窺う。
そこには血まみれになって床に倒れ伏すエレナの姿が─
─なかった。
その代わり、無事な姿もなかった。
室内には争った跡もなく、開け放たれた窓から入ってくる風が頬を撫でていくだけだった。
アルフは窓に駆け寄り、外を見下ろす。
直下の路地に小さな血痕を見つけた。一瞬の躊躇いもなく飛び降りる。着地の衝撃を転がることで逃がす。流しきれなかった衝撃で足がビリビリと痛むがそんなことを気にする余裕はない。
すぐさま血痕の追跡を開始する。罠かもしれない等の可能性は頭から抜け落ちている。今はただエレナの安否だけが気になる。
もしも今、エレナが追われているのだとしたら非常に危険だ。足を怪我している状態では満足に走れないだろう。すぐにでも追いかけねばエレナの身が危ない。
どんどん細く、薄暗くなっていく路地を駆け抜ける。
進むごとに大きく、増えていく血痕が焦りを加速させる。エレナが何者かに攻撃されているのは間違いない。早く駆けつけなければ。その一心で必死に足を動かす。
そして、路地の行き止まり。着いた。着いてしまった。
アルフの目の前に3つの人影。そしてその奥、血溜まりの中にうずくまるようにして倒れる白い髪の少女がいた。
「エレナ!!」
その言葉にエレナと、3つの人影が反応を示す。
「アル…フ……?」
血を流しすぎて意識が途切れかけているのか、弱々しい声のエレナ。
そして
「よぉ。ずいぶん遅かったじゃねぇか。クソガキィ」
振り返った影の1つには見覚えがある。こけた頬に無精髭、眠たげに細められた目、そして邪悪に歪んだ口元。
「お前は!」
「覚えててくれたかぁ?嬉しいねぇ」
エメラダ王国でアルフ達を襲撃した黒い男だった。
「シララくん。彼がアルフくんで間違いないのですか?」
影のうちのひとつ、フードを深く被っているために顔はわからないが、声から男だということだけはわかる。
「ええ。あれがエメラダ王国の第2王子です」
シララ─襲撃者の男が答える。
「ふむ。そうですか。ならば私の用はここまでです。あとはあなた達で好きにしなさい」
そう言う男の手には一冊の本が収められていた。
「お前!その本は」
「ああ、これですか。これは今回私が出張ってきた理由の1つですよ。もう1つは君に会うことだったのですが、達成してしまいましたからね。もうここに用はありません」
「待て!」
「では、また会えることを祈っていますよ。アルフくん」
一方的に言って男は消えてしまった。比喩ではなく、目の前から忽然と姿を消してしまったのだ。
「はあ。まったく。あの人ぁ何考えてるかわかんねぇから苦手なんだよなぁ。また会おうって、ヒヒ─」
シララが目に獰猛な光を湛えながら言う。
「ここから生きて帰れるわけねぇだろ」
「ディード、やれ」
シララが短く命じると、残っていた最後の人影─ディードの足元が蠢きだした。
真っ黒なそれはどうやらディードの影らしい。それが見る間に鋭利な刃物をかたどっていく。
身構えるアルフだったが、影の刃の矛先が自分ではないと悟って全身の血の気が引いた。
「エレナ! 避けろ!!」
叫びながらアルフは夢中で走る。
シララもディードも邪魔する気がないのか、横を通り抜けるとき何もしてこなかった。ただシララはニヤニヤと粘着質な笑みを浮かべていた。
影の刃が伸びる。
アルフは必死に火球を放ち影を焼こうとするが、当たらない。すべて生き物のようにのたうつ影にかわされてしまう。
エレナは力の抜けた四肢でようやく四つん這いの体勢になったところだった。
間に合わない。
影の刃が迫る。
そして──
──刃は、エレナの左胸に深々と突き刺さった。
「エレナアアアアアアアアア!!!!!!!」
影の刃が引き抜かれる。
ぱっくりと開いた傷口から、どぷりと血が溢れ出す。
一拍遅れてエレナの下へ到着したアルフは、力なくくずおれる彼女の肢体を抱き起こす。
血が抜けたせいか、彼女の身体はひどく軽かった。
「エレナ! エレナ!! しっかりしろ、エレナ!!」
アルフの必死の呼び掛けにエレナが薄く目を開ける。
「あ………………ルふ…………」
「エレナ! 待ってろ。絶対助けてやるからな! 死ぬんじゃないぞ!!」
「ご……めん、ね? ちゃゴフッ!」
血液が気管に浸入しているのか、エレナは血を吐き出す。
「ちゃ…ん、と……まも…ってもらって………はあ。あげられ…な、くて………」
支える手から伝わる彼女の体温が徐々に失われていくのを感じる。
「なに、なに言ってんだよ。それじゃ、まるで死」
「ごめ………ん、ね」
「おい、エレナ? エレナ! エレナ!! エレナアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
エレナは静かに、目を閉じた。
◆
悲鳴にも似た絶叫を上げた後、力なく頭を垂れたままピクリとも動かなくなったアルフに向かって、シララは嗤いながら声をかける。
「クク、どうだぁ? クソガキ。目の前で仲間が死んだ気分はぁ? 護るべきモノを失った気分はどうだぁ? アハハハハハ!!」
しかし、アルフは動かない。不気味なほどに静かである。
「……はあ。心が壊れて動けなくなったか。反応がねぇのはつまんねえなぁ」
シララはゆっくりとした歩調でアルフに近付く。
アルフはもう動けないだろうと油断しているからではない。王国でのような失態を繰り返さないための慎重さがそうさせているのだ。
ディードとアイコンタクトをとる。万が一、アルフが不意打ちを狙っていた時に素早く殺せるように。
やがて、項垂れるアルフのすぐ背後に到達した。やはり動き出す気配はない。
「もっと泣き叫んで必死で暴れまわるのを期待してたんだけどなぁ。……つまんね。もうお前も死ねよ」
シララが腰の剣を抜き放つ。ヌラヌラと光を反射するその剣には致死性の猛毒が塗り込んである。これでわざと急所を外して刺せば、毒で苦しみもがいた挙げ句死ぬことになるだろう。
せめてその様で足りない愉悦を与えてくれることを願いながら剣を振り上げる。
その時──
──アルフの首がグリンと回り、シララの姿をその瞳に捉えた。
まるで、人形のような異様な動きだった。
しかし、その動き以上に異様だったのはアルフの顔に浮かんだ紋様である。血管に沿うようにして顔中、よく見ると全身に紅い線が浮かび上がっていた。
そして、その紋様に彩られたアルフの瞳には、昏く濁った憎悪の炎だけが灯っていた。
「お前! まさか『宿り・・・」
何が起こったのかを即座に理解したシララだったが、遅すぎた。
距離をとる間もなく──
──全てが黒に染まった。




