第1話 幼き日の記憶①
エメラダ王国はサミレア大陸のほぼ南端に位置する都市国家だ。小国ながら、大陸最古の国であり、国力もトップクラスと侮り難い国である。多種族が暮らしているというのも他に例の少ない特徴の1つだ。
国力が高い要因の1つとして、優れた魔道具─魔法を行使する際に使用する道具─の生産技術が挙げられる。国内での魔石─魔道具の核となる鉱石─の採掘はほとんどないものの、質の高い魔道具を求める他国から魔石を輸入し、出来上がった魔道具を輸出し外貨を獲得することで経済的優位を得ている。また、魔道具は軍事利用も出来るため、高度な魔道兵器を作ることによって大国であろうとも簡単には手出しできないほどの軍事力も有している。
そんなエメラダ王国の王城の一室、開け放たれた窓から男の悲しみに満ちた怒号が晴天に響く。
「アルフ王子ーーーー!!!」
名前を呼ばれた当の本人─エメラダ王国第2王子アルフ・ジン・クラインは窓の外から晴れやかな笑顔で
「日が沈むまでには帰るから!」
それだけ言うと逃げるように走り去ってしまった。
「……そういう問題では、ないのです……お願いですから、私の講義を真面目にお受けください…………」
王城の一室─王子達が勉学に励むための講義室に、1人取り残された男の心からの願いが空しく木霊した。
男─エメラダ王国における王子たちの教育係をしている貴族、ゾーラ・ネリス。研究にのめり込むあまり飲食を忘れることがしばしばある彼の体躯はお世辞にも良いとは言えず、吹けば飛んでしまうような弱々しい印象を与える。
ゾーラが窓の向こうを眺めながら呆けていると、ぽんぽんと優しく肩を叩かれた。彼が振り返ると、そこにはいつ来たのか、アルフ付きのメイドが立っていた。彼女は神妙な顔──に見えるただの真顔──で処置なしとばかりに首を横に振った。
「ゾーラ様、本日の講義誠にありがとうございました。お部屋に戻ってゆっくりお休みくださいませ」
「あぁ。そうさせてもらうよ……」
アルフが8歳になり、ゾーラの講義を受けるようになってから3ヶ月。すでに恒例と化したやり取りを終え、ゾーラは「まだ朝なんだけどね……」と、独りごちながら疲れきった足取りで自室へと戻っていった。
◆
講義室を抜け出したアルフは城の正門を駆け抜け街へ向かう。正門を抜ける際、門番の鬼族──額に1本の角を持っている──から「またか」と言わんばかりの苦笑を向けられた気もするがいつものことなので気にしない。
エメラダ王国の国土は王城を中心に円形に広がっており、その周囲を高さ20メートルにもなる防壁がグルリと囲んいる。防壁は東西南北の4ヶ所に出入口となる門を持つ。閉塞感はあるものの、外敵から守られているという安心感も与えてくれる。
街は碁盤の目状に区画整理されている。第何代だかの国王の偉業だとゾーラに教えてもらった気もするが、アルフはほとんど覚えていない。
街に着いたアルフを商人達の活気と、空腹を刺激する露店の料理の匂いが出迎えた。朝に弱く、朝食をあまり食べられないアルフにとっては今が最も腹が空く時間帯だ。空腹に耐えきれず露店の1つ─巨大な肉塊を豪快に焼いてスライスしたものを野菜と一緒にパンで挟んだものを売っている─へ近づくと
「あら、アルフ様! 本日もいらっしゃいませ。またゾーラ様の講義を抜け出してきたんですか?」
かなり恰幅のいい、日に焼けた女店主が尋ねてきた。
「うん。だってゾーラの講義はつまんないんだもん。話を聞くより実物を見た方が早いよ。それよりさ、いつもの頂戴! 」
女店主は「違いないですね!」とアルフの言に豪快な笑い声を上げると、すぐに調理に取りかかった。
アルフがこの露店の常連になっているのにはいくつか理由がある。1つは女店主がかなり大雑把な性格で細かいことを気にしないでいてくれること。そしてもう1つは品物が出てくるまでの早さだ。兄である第1王子に比べて自由な時間があるとはいえ、時間は有限だ。なるべくなら有効活用せねばならない。
そんなことを考えているうちに調理は完了したようで、「おまちどおさま!」という威勢のいい声と共に品物が手渡される。アルフは礼を言いつつ腰に提げた布袋から銅貨を3枚渡した。王族といえどもこういったルールを守れなければ臣民からの信頼を失う、とはアルフの尊敬する父─エメラダ王国国王シーク・サー・クラインの言である。
女店主に手を振りつつ露店をあとにする。道行く人々からの挨拶やゾーラへの同情の言葉に応えながらいつもの道を進む。
アルフがいつも行く場所は先程の屋台の他にもう1ヵ所ある。その区画に近付くにつれて、先程まで居た市場の活気が嘘のように霧散していく。
ほぼ完全に人通りがなくなった辺りでアルフは買ったパンを歩きながら頬張った。ゾーラやメイドに見られたら品がないと怒られるだろうななどと思いながら。
やがて全てのパンを飲み下し、腹も膨れた頃、目的地に到着した。
街の片隅に木々に囲まれてひっそりと建つ、平屋建ての他の民家より少し大きい程度の建物。エメラダ王国唯一の孤児院だ。
街の人々は好んで寄り付こうとはしない場所だが、アルフには喧騒が絶えない市場よりも穏やかに時間が流れるこちらの方が好ましく思えた。
いつものように入り口のノッカーを鳴らしつつ声をあげる。
「エレナーーー!!」
反応は即座に返ってきた。バタバタとこちらに向かって物凄い勢いで走る音が聞こえた。次の瞬間、ノッカーを鳴らしたのとは反対側の扉が吹き飛ぶのではないかと思うほどの勢いで開いた。
「おはよー! アルフ!!」
姿を見せたのは透き通るように真っ白な髪と肌、そして血のように紅い瞳を持つエルフ族の少女─エレナだった。彼女の長い髪の隙間からピンと突き出ているのは、エルフ族の特徴の1つである長い耳だ。
エレナはアルフよりも2歳年上だが、そんな差を感じさせない無邪気な振る舞いにアルフは好感を抱いていた。
遅れてエレナのものより軽い足音がいくつか聞こえてきた。開け放たれたドアから覗いてみると孤児院に住む他の子ども達─エルフや鬼など様々な種族がいる─が目を輝かせながら駆けてきていた。そしてその後ろからは微笑みを湛えた初老の女性が歩いてきていた。
駆けてくる子どもたちを見ながらアルフは思索に耽る。
同じ年の子どもでも種族によって体の大きさなどがかなり違うのだ。例えば、人族を基準に考えると鬼族は発育が早く、エルフ族は逆に遅い。これまで喋った感じだと、どうやら知的能力にも種族ごとにバラつきがあるようだ。
なぜこのような違いが生まれるのか、父なら何か知っているだろうか?
この生命の神秘の探究こそ、アルフの2つある目標のひとつである。
エレナや、集まってきた子ども達の相手をしているうちに、額に角を持つ鬼族の女性─孤児院の院長、イラカも到着した。彼女は動きやすい服装を意識しているのか、いつも軽装だ。
イラカはまずアルフに深々とお辞儀をし挨拶をすると、エレナに向き直りその頭に拳骨を落とした。笑顔のまま。
「エレナ、いつも言っているでしょう? アルフ様がいらっしゃって嬉しいのはわかるけれど、扉はもっと丁寧に開けなさいと。そして『様』をおつけなさいと」
「はい、院長先生……」
拳骨を落とされた頭を押さえ、目の端に涙を溜めながら返事をするエレナ。心なしかエルフ特有の長い耳がしゅんと垂れ下がっているようにも見える。本気でないとはいえ、身体能力が高いことで有名な鬼族であるイラカの拳骨と、笑顔の裏に隠された感情は堪えたのだろう。
いつものやり取りを苦笑しながら眺めといると、くいくいと袖が引かれた。見やると孤児院の子ども達の中でも特に幼い人間の男の子─ニリアが耳を貸せとジェスチャーを送っていた。
「あのね、いんちょーせんせーはね、いつもはうんと優しいんだよ」
どうやら暴力──と言うよりは愛のムチ──の現場を見たアルフがイラカを恐がらないか心配したらしい。
「あはは、わかってるよ。イラカ先生はいつだって優しいさ」
言いながらニリアの頭をグシャグシャと撫で回してやると、くすぐったそうに目を細める。
なんだか猫のようだ、などと微笑ましい気持ちになる。
アルフがこの孤児院を気に入っている理由は、親しく接してくれるエレナに少なからず思いを寄せているからでもあるが、それ以上に孤児院の子ども達が自分のことを王子だという色眼鏡で見ないからだった。もちろん、王子として街を歩き、好意的に接されることに不快感はないが、なんとなく自分が自分として見られていないように感じられるときがあったのだ。
だから初めてこの孤児院を訪れたときには、少しばかりの驚きと大きな歓喜があった。
「アルフ! 今日は何をするの?」
いまだに涙目のエレナが聞いてきた。ただし耳はピンと元気よく立っていた。背後のイラカは額に手をやって首を振っている。どうやらエレナがまた『様』を付けなかったことを気にしているらしい。アルフとしては付けないでいてくれる方が嬉しいと何度も言っているのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「そーだなあ。かくれんぼ─はこの間やったし、鬼ごっこはどう?」
「「「「さんせー!!」」」」
孤児院の子ども達の声が重なった。
イラカは諦めたのか、優しく微笑んでいた。
いつも通り日が暮れるまで孤児院で遊んだアルフは、子ども達に見送られながら帰路についた。