第17話 水底の王
海を割って現れた怪物は、巨大な蛇のようだった。
ただしその巨体は角張った水晶のようなもので構成されており、キラキラと夕陽を反射している。目は退化しているのか確認できず、どうやってこの船の存在を知覚したのかわからない。口からのぞく凶悪そうな牙は非常に硬質な予感がした。
おぞましい姿であったが、夕陽を受け茜色に輝くその身体は美しくもあった。
一瞬心を奪われたエレナであったが、すぐ我に返り叫ぶ。
「外的生物!! それも異形型!? こんなところにまで!」
腰の短剣を抜き放つが、あの怪物を前にしてはあまりにも頼りなく思えた。
せめてアルフだけでも…。そんなエレナの思考は後ろからかけられた声に断ち切られた。
「違うよ。あれは外的生物なんかじゃない。エレナ、その短剣を下ろしてくれ」
「え……? アルフ、あの怪物を知ってるの?」
「うん。あれはこの湾のヌシみたいなものだよ。俺達に害はない」
「信じられない。こんな、怪物が……?」
後方に立つアルフの更に後ろ、泥団子の中から顔をのぞかせているカーヅにも怯えの色はない。
「敵対行為をとるモノに襲いかかってくるんだ。だから、早く短剣を下ろしてくれ」
幾ばくかの焦りを含んだアルフの言葉で、エレナはようやく構えを解いた。アルフの顔に安堵の色が浮かぶ。
「この生物の名はトゥルケー。俺たちが今から向かうアーティス底国の王が造り出した底国の番人……番魚? だよ。まあ、トゥルケーの仕事はもうひとつあるんだけどね」
そう言って懐から何かを取り出し、怪物─トゥルケーに掲げて見せた。
「トゥルケーのもうひとつの仕事は『友好の証』を提示した者を底国まで案内すること」
アルフが手に持っているのは、透明に輝く短剣だった。向こう側が透けて見えるほどの透明度を誇るその短剣は、一見すると空を掴んでいるように見えるほどだ。
変化は劇的だった。
それまで少し離れたところから威嚇するように低い唸り声さえ上げていたトゥルケーだったが、短剣を─目はないはずなのだが─認識した途端、スルスルと近寄ってきて歓迎の意を示すかのように頭を垂れてきた。
「トゥルケー。俺達を底国まで運んでくれ」
アルフが船首にくくりつけたロープを放る。
了解、とばかりに鳴いたトゥルケーはそのロープの先端を大きな口で器用に咥えた。
「さあエレナ、中に入ろう。これからすぐに船が動き出す」
唖然としていたエレナだったが、アルフに手を引かれて我に返る。
「……森の時とは逆になっちゃったね」
「あはは。俺は5年前に来たときに1回見てるからね。やっぱり事前に知ってるのと知ってないのとじゃ、全然違うよ」
兄の教えを思い出す。
「アルフが前もって教えてくれれば良かったんじゃないの?」
少し責めるようにエレナが言う。
「うーん。ちょっとビックリさせたくて」
悪戯っ子のようにアルフは答える。
2人は仲睦まじく言い合いながら泥団子の中へと戻っていった。
そして、カーヅとゲエルの生暖かい眼差しに迎えられたエレナは、一転して死んだ魚のような目になるのだった。
それを待っていたかのようにトゥルケーが動き出す。
アルフ達を乗せた船を引き、どこまでも深く、深く、暗闇へと潜って行く。
◆
海底に向かう泥団子船の中、斜めになった船内でアルフ達は話す。
「城を出る前に忘れ物を取りに行っただろ? 実はこの短剣を取りに行ってたんだよ」
『友好の証』を示しながらアルフが言う。
「え……。もしも忘れたままだったら、あたし達トゥルケーに襲われてたんじゃないの!?」
「まあ、そうだね」
エレナは絶句した。逃げ場のない海の上で、あんな化物に襲われたらひとたまりもない。陸上ですら勝負になるかわからない。
「その時はわしらの出番でしたのぉ」
カーヅが入ってくる。
「トゥルケー様はこの湾の守り手。当然、漁師たるわしらとも関係が深い。わしらが顔を出せば、みだりに襲ってくることはありますまい」
「なんだ。良かったぁ」
エレナはその言葉に深く脱力した。
その時だった。船体がミシミシと、いやな音を立て始めた。
「………ねぇ、カーヅさん」
「………なんですかいの」
「この音、ひょっとしてかなりまずいんじゃないの?」
「……………………」
カーヅは突然無言になり、魔道具への魔力供給に専念し出した。顔には大量の汗─おそらくは冷や汗だろう─が吹き出している。
その様子に、一同の背中を冷たいものが駆け下りた。
「おいおい村長! この船大丈夫なのかよ!」
たまらずゲエルが叫ぶ。
「騒ぐ暇があるならお前も手伝わんか! 思っておったより水圧が高いようじゃ! 船体がもたん! 魔力がいる!!」
カーヅが怒鳴り返す。
「あ、あの! あたし達に出来ることはありませんか!?」
「土属性の魔力適正があれば、魔力供給をお願いしたいです!」
カーヅの言葉にエレナとアルフは
「あたし風属性……」
「俺は火だなぁ……」
気まずい沈黙が降りる。
ミシミシ、ビキビキという不穏な音だけが船内を支配する。
「こんなことならアイツにもっといい思いさせてやるんだったなぁ……」
「わしゃあ美味い酒を浴びるほど飲みたかったのぉ……」
「ちょっと! 縁起でもないこと言わないでよ!」
「カーヅさん、きっとあともう少しだから諦めないでよ!」
「せめてお二方だけでもどうにかして助けたいんですがのぉ……」
「こかぁ深海。外に出た瞬間にぺしゃんこだもんなあ……」
「んもー!だから不吉なこと言わないでってば!!」
そんなことを言い合っているうちに船の向きが水平になった。
「た、耐えきった……のか……?」
カーヅが疲れ果てた顔で言う。
どうやら目標の水深に到達したらしい。
やがて船底が地面を擦る感触がして、船が完全に止まる。
泥団子から出た一同を迎えたのは、海底とは思えないほど明るい都市だった。
アーティス底国の国土面積は、エメラダ王国とほぼ変わらない。むしろ少し狭いくらいだ。国土のすべてを透明な水晶のようなものがすっほりと覆っており、海底だと言うのに空気がある。水晶の外は真っ暗な闇が広がっていた。底国内を照らす光源は、所々に設置してある灯籠である。足元には、歩くたびにザフザフと音を立てる柔らかな砂の大地が広がっていた。
そして一同の正面、底国の街を背負うようにして立つ者達がいる。
「ようこそいらっしゃました。トゥルケーに引かれてやってきたと言うことは、友好国─エメラダ王国の方ですね?」
先頭に立つ者─人型ではあるが、その頭部は立派なヒゲを持つナマズのものだった。
亜人族の中でも特に魚人種と呼ばれる種族だ。
彼らは身体の一部─上半身、もしくは下半身─、あるいは全身に魚類の特徴が現れる。人間族と基本的な身体能力は大差ないが、水中という特定のフィールドにおいては遥かなアドバンテージを持つ。
しかし、魚人種はその特性と、魚類の特徴が強く出た外見故に陸上で生活することが困難だ。陸上にいると種族としてのアドバンテージを活かせないばかりか、その外見から謂れのない迫害を受けるためだ。獣人種などのように、強い武力を持っていれば力で黙らせることも出来ただろうが、彼らにはそれがない。
この国─アーティス底国は、そんな魚人達によって作られた国家である。
「先立っての文など、然るべき手段を取らず突然訪問したことをまずは謝罪したい。私はエメラダ王国第2王子、アルフ・ジン・クライン。火急の用があり、この国の王に会いに来た」
アルフはナマズ男に向かって声を上げる。
「謝罪は不要です。アルフ殿、貴公の国─エメラダ王国は我が国が友。友の訪問は何時如何なる時であろうと歓迎すべきことでしょう」
ナマズ男が微笑み──ナマズの顔なので判りにくいのだが、おそらく──を湛えながら告げる。
「さて、随分とお急ぎのご様子。本来ならばすぐにでも王に謁見の時間を取っていただくところですが、今日はもう遅い時間です。明日、必ず会っていただけるよう手配いたしますので、ご容赦いただけないでしょうか?」
「寛大な対応、感謝いたします。こちらとしては何も言うことはございません」
「では、本日の宿はこちらの方で手配させていただきます。明朝、迎えの者を向かわせます。よろしいですか?」
「ええ。よろしくお願いします。えっと……」
「あぁ、失礼。まだ名乗っておりませんでしたね。外交の場があまりない故、どうかご容赦いただきたい。私、この国で文官を務めております、イーヨと申します。以後お見知りおきを」
「よろしくお願いします。イーヨさん」
2人は固く握手をした。
イーヨが後ろに控えていた警備兵─甲冑に身を包み、槍を携えている─に何事か指示を送ると、警備兵達は一斉に左右に別れ、簡易的ではあるが歓迎の意を示す花道を作った。
「私が宿までご案内いたします。ついてきてください」
アルフ達はイーヨの後に従う。
アーティス底国の街並みは幽玄の美という言葉が似合う趣深いものだった。
住居や商店の建材である石は海の色を吸収したかのようで、国全体が薄い青に染まっていた。紅い炎を宿す灯籠との対比が美しい。
「国中に設置されている灯籠の火は、エメラダ王国の初代国王様がその王具の力で灯されたものだと伝えられております。真っ暗な深海に光をもたらしてくれた彼の王に感謝の念を抱いた当時の国民達は、貴国を友好国として認め、今日に至るまでその友情が続いていると言うわけです」
街中を歩きながらイーヨが解説してくれる。
「貴国なら、と陸上での生活を望む者もおりました。その者達は元気にやっておりますでしょうか?」
その問いにアルフは思わず歩みを止める。
「……彼らに、何かあったのですか?」
イーヨの鋭い眼光がアルフを射抜く。
「…………えぇ。ですが、その話は明日にさせていただきたい。ここでするような話ではありませんので」
「左様ですか」
短く答えたイーヨは前に向き直り歩き出す。とりあえずは納得してもらえたようだ。
やがて一行は一軒の宿の前で足を止めた。
「本日はこちらでお休みください」
イーヨはやはり短く言う。
「案内ありがとうございます。王によろしくお伝えください」
イーヨは一礼して底国の最奥─王城に向かって歩き出した。
案内された宿は、その内装や振る舞われた料理の数々、ベッドの心地よさや宿屋の者の応対から底国でも有数の優良宿屋だということがうかがえた。
それぞれ個室をあてがわれたアルフ達は、部屋に着いてすぐに疲れから泥のように深い眠りに就いた。
ひんやりとした毛布が肌に心地よかった。




