第9話 消失
幽鬼のような足取りで王城を出たアルフは街を目指すべく正門へ向かう。
季節に応じた花が咲き乱れる美しい庭園を抜ける。普段であれば辺りを見回しながらゆっくりと歩くのだが、今のアルフにはそんな余裕はなかった。色とりどりの花々は色褪せて見え、正門までの距離がいやに長く感じられた。
ようやくたどり着いた正門もやはり無人だった。いつもアルフの脱走を見逃すばかりか、たまに小遣いすら渡してくれる、恐ろしい顔には似合わない優しさを持ち合わせた鬼族の門番の姿も消えていた。
感覚が狂ってしまったのだろうか、空虚な正門にアルフは何も感じることはなかった。
ただ、ゆらりと街の方向を見据え、歩き出した。
そして、正門を抜けたアルフを出迎えたものは────
────何も、無かった。
ほぼ毎日のように見ていた正門からの風景は、民の住居が国土を囲む防壁の近くまで軒を連ねていた。
防壁の北門から王城までまっすぐ続く通りには多数の露店が出され、行き交う人々の活気に常に満たされていた。
まるでそれらが全て幻であったかのように、目の前には、そこにはただひたすら何もない平地が、守るものを失った防壁まで続いていた。
ここに至ってアルフは、自分の中の一切が真っ白になるのを感じた。何も考えられない。何も感じられない。ただただ、目の前の光景を眺めていることしか出来なかった。
どれくらいの時間呆けていたのだろうか。アルフはいつの間にか自分が膝から崩れ落ちていることに気付いた。
自らの身体を見下ろす。自分の身体のはずなのに、ひどく遠くのものを見ているように感じた。
四肢の動きを確かめるように手を握ってみたり、足の指を動かしてみたりする。動く。血の気が引いているせいか、ひどく動かしづらくはあるが、ちゃんと動く。
かなり長い時間をかけてヨロヨロと立ち上がる。
ほんの少しずつだが、正気を取り戻してきたアルフは街へと歩き出した。
夢だと思いたかった。
悪い夢なら早く覚めてくれと願った。
しかし、踏みしめる大地の感触が、吹き付ける無臭の風が、肌を焼く太陽の熱が、現実を突きつける。
力の入らない脚のせいで途中何度も倒れ込みそうになるのを必死に堪えながら、街があった場所にたどり着いた。
7年以上通い続けた場所だ。どこに何があったかは身体が覚えている。見つめる先─何もない空間に露天と恰幅のいい肌の焼けた女店主を幻視する。しかし、食欲をそそる匂いも女店主の威勢のいい声も無い。そこには無だけがあった。
アルフは再び真っ白になりそうになる思考をなんとか呼び戻す。そして、孤児院へ向けて歩き始めた。
その方角に見えるのは防壁だけだ。そこに何もないのはすでに認識してしまっている。それでも、何か無理矢理にでも希望を持たねば、今にも精神が崩壊してしまいそうだった。
孤児院─があった場所─に近付くにつれて足取りが重くなる。まるでアルフの無意識が、時間稼ぎをしているようだった。それに気付いたアルフは己に苛立ち強引に大股で歩を進めた。
そして、着いてしまった。ずっと見えていた、他と変わらず何もない場所に。
周辺の木々も全て消え去っており、見通しが良くなったその場所は、防壁の北門のすぐ近くだった。
ついに、自分と王城を除くエメラダ王国の全てが消え去ってしまったという事実を受け入れてしまったアルフは、糸の切れた人形のようにその場にへたり込んでしまった。
自分でも理由のわからない涙が次から次へと溢れ出てくる。身体中の感覚から得る情報全てが、どこか遠い世界のことのように空々しく感じる。
だから初めは自分がまた幻を見ているのだと思った。
「…………フ?」
聞こえてくる懐かしい声も、自分が現実から逃避するあまり聞こえてきた幻聴だと。
「……ルフ!?」
しかし、その影は次第に大きくなり、幻聴も段々と近づいてきていた。
「アルフ!!!」
そして、肩を掴まれ耳元で名前を叫ばれることで一気に現実に引き戻された。
その影が幻ではないとわかって、再び涙が溢れてきた。しかし今度の涙の理由は自分でもわかる。安堵だ。
短く切り揃えられた輝くような真っ白な髪、見る者を魅了する深紅の瞳、透き通るような真っ白な肌、そしてエルフ族特有の長く尖った耳を持つその影の名を掠れた声で呼ぶ。
「エレ…ナ……?」
影─2年前に冒険者として国を出ていったはずの少女、エレナはアルフから返答があったことに心の底から安堵したようだった。
「良かった。生きてた。ねぇ、いったい何があったの? なんで王城以外の全てが消えちゃったの? 他の人たちは? 孤児院のみんなは??」
そこまで矢継ぎ早に言ったエレナは、アルフの涙でグシャグシャになった顔を見て息を飲んだ。余程ひどい顔をしているのだろう。アルフはせめてこれ以上心配をかけまいと、必死に声を振り絞る。
「わか、ら…ない。目が覚めたら、誰もい……なく、て……それでいろんなところを走り回って、それで、それで」
言葉に詰まったアルフをエレナは優しく抱き締めた。
「わかった。わかったよ。たった独りでツラかったね。怖かったよね。でも、私がいるからもう大丈夫だよ」
その言葉に、穏やかな温もりに、アルフの中で抑え込んでいた何かが決壊した。
「───────!!!!」
嗚咽混じりの言葉にならない声を上げながらエレナの胸の中で涙を流す。不安、困惑、焦燥、悲しみ、孤独、絶望・・・。様々な感情が濁流のごとく溢れ出る。
それらを、エレナは慈母のごとき穏やかさで受け止めた。アルフが初めて弱いところを見せてくれたと、少しの喜びさえ感じながら。
どれほどの間そうしていただろうか。
やがて泣き止んだアルフはエレナの胸から顔を離す。その目は泣き腫らしたために、その頬は羞恥のために、それぞれ朱に染まっていた。気恥ずかしそうに横を向いたアルフは
「ごめん。ありがと」
とだけ呟いた。
エレナは和かに微笑んでいた。




