序章
「あら、みぃは寝てしまったの?今日はみぃの誕生日だから、源氏物語の新しい絵巻物を持ってきたのだけれど」
「道子様は昨晩咳が多かったため寝不足で、先程薬湯を飲んだ後に微睡んでいらっしゃったので、床を敷きました。絵巻物は、お目覚めになったら在子様からだとお渡ししますね。とてもお喜びになりますわ」
「そう、頼むわね。それにしても、最近体調を崩すことが多くて心配ね。すっかり面立ちも変わってしまったし」
「お気持ちお察し致します」
「楓にはいつも世話になっているわね。ありがとう。他の女房たちから嫌な思いをさせられたら、いつでも言うのよ」
「もったいないお言葉でございます。在子様の女房の小夏様も気にかけてくださいますし、大丈夫ですよ。私は道子様にお仕えすることができてとても嬉しく思っておりますわ。こんなにお心の綺麗な方は滅多にいらっしゃいませんもの」
「そう言ってくれると救われる思いよ。この家では私とあなたと小夏以外、誰一人とみぃのことを省みないから。私はあの子の唯一の姉なのに、守ってやれなくて本当に悔しいわ。それなのにみぃったら、いつも何もできない娘で家族や家の者に申し訳ないと謝ってばかり」
「道子様はいつも在子様へ感謝の言葉を口にしていらっしゃいますよ。在子様がいらっしゃるから、自分はここで生きていけるんだとも」
「っ…!あの子ったら…。ああ、そうだわ、楓に話があったの。この前、みぃのためにと父様がうちの縁の寺の高僧を呼んで、加持祈祷して頂いたじゃない?あれも、世間や朝廷に対して家族を大切にする印象を与えるためであって、決してみぃのためじゃないことはみんなが知ってるのけどね。まあそれはおいといて、そのときみぃが一人の僧侶の名前を教えてほしいと私に頼んだの、覚えてる?」
「はい、覚えております」
「先程、調べてくれていた小夏から報告を受けたわ。その僧侶の名は顕徳院というそうよ」
「そのお名前は…」
「ええ、先の事件で処罰を受け、出家なさった東宮の弟君のことね。弟君は派閥の権力争いに巻き込まれただけで、そのとばっちりにしてはとても罪が重かったと父様がおっしゃっていたわ。いずれにせよ、このことはみぃには言えなくて、困っているの。僧侶と恋はできなくても、慕う方の名前だけでも知りたい気持ちはよくわかる。でも、顕徳院様に関しては別。左大臣の娘が罪人に思いを寄せてるなんて知られたら、大変だわ。何よりみぃが苦しむもの。あの子はとても優しい子で、あれだけ冷たく接してくる両親にも愚痴の一つも言わないんだから、自分のせいであらぬ疑いをかけられることを望まないはず」
「かしこまりました。僧侶の件は、道子様がお辛くないように私から上手くお伝えします」
「話が早くて助かるわ。ああ、でもせっかくみぃの心の支えになると思ったのに…」
「…在子姉様、楓、私のことを大切に思ってくださり、ありがとうございます。私は、誰のことも、お慕いしていませんわ」
「みぃ!起きていたの?」
「声を掛ける機会が難しくて。失礼致しました。先程のお話ですが、戯れにお名前をお聞きしただけですから、気になさらないでくださいね。私は姉様や楓がいれば、十分幸せですもの」
「…みぃ、無理をしないで。言いたいことは言えるときに言わなくては駄目よ。後で悔いることになるもの。みぃはどうしても自分の思いに蓋をしてしまうことが多くて、そんな慎ましい性格は素晴らしいけれど、思ってもいないことを口にするのは良くないわ。さあ、本当のことを言って」
「姉様…。私、一度でいいから、物語のように、恋をしてみたかった。殿方と和歌を交わして、そのお心に、触れてみたかった。私みたいな不美人の末摘花は、誰にも見てもらえず、朽ち果てていくだけ、なんて、あんまりです…」
「道子様は決して末摘花ではありませんわ。とても清らかなお心の持ち主ですもの。必ず、幸せになれます。楓は知っているのですよ」
「ええ、ええ。楓の言うとおりよ。今は病のせいで身も心も弱っているだけだもの、元気になれば着飾って私と街へ出掛けましょうね。みぃは不美人ではないわ。都で美人と評判の私の妹なのよ、もっと自信を持ちなさい!ああ、体に障るから、もう少し横になるといいわ。また来るわね」
「私も、お水を取りに行ってきます。道子様、ゆっくりお休みくださいませ」
「姉様、楓、ありがとう。二人に会えて、道子は、本当に、本当に、幸せ、で…した…」
「みぃ…?そんな…待って、嫌、嘘よ…!誰か、誰か来て!!」
「道子様…!!」
「みぃ、みぃ起きて!目を覚まして!お願い、みぃ、お願い…!!」
末摘花の君:源氏物語に登場する、容姿が良ろしくない女性。関係を持った光源氏は見捨てられず、結局最後は他の女性たちと共に同じ邸宅に住まわせ、面倒を見た。